文・宮川密義

民謡「ぶらぶら節」や明清楽「九連環」のほかにも、長崎には全国的に知られた端唄「春雨」、民謡では「浜節」「長崎甚句」があります。



端唄「春雨」は丸山生まれ



作者は肥前小城の藩士、柴田花守です。
約150年前の弘化3年(1846年)、フランスの軍艦3隻が長崎に入港したとき、佐賀藩士として長崎警備にやってきましたが、丸山の「花月」に遊んだ時にこの歌を作ったといわれています。
節を付けたのが誰かははっきりしていませんが、丸山遊女のおかつではないかといわれています。
こうして誕生した「春雨」は端唄の名曲として、今でも広く歌い継がれています。

丸山の料亭「花月」の庭には「はるさめの碑」が建てられており、小説家で随筆家でもあった平山蘆江が昭和17年(1942)に書いた「はうた春雨まるやま生れ、しかも花月の花の下」の碑文が彫られています。


「花月」にある「はるさめの碑」


「はるさめの碑」裏面の碑文



愛八と古賀十二郎の合作「浜節」



「長崎ぶらぶら節」の項でも触れたように、丸山の芸者、愛八は昭和6年、ビクターレコードに乞われて「ぶらぶら節」など10曲の民謡を吹き込みましたが、その中の1曲「浜節」は上京直前の愛八と長崎学の研究家、古賀十二郎が誕生させた新民謡です。

「新しい長崎の歌も吹き込みたい」と相談に訪れた愛八に古賀は、かつて新大工町の舞鶴座で観劇した折、幕切れに出た「住吉踊り」の「浜じゃえ、浜じゃ網ひく綱をひく、おかじゃ小娘の袖をひく」という唄に引かれ、いつか長崎の唄に…と考え、用意していました。


〈古賀十二郎と愛八=網場で〉

そこで、これを元唄にして、5〜6節の歌詞をそろえ、お座敷を終えた愛八を紺屋町の自宅に招き、愛八に節付けをさせました。2人は「ああでもない、こうでもない…」と、夜遅くまで研究したため、近所からは「三味線の音で眠れない」と苦情が出るほどだったそうです。



旅人の惜別の情を歌う「長崎甚句」




むかし、長崎街道から旅に出る人は蛍茶屋で別れの盃を交し、一ノ瀬橋を渡りました。
一ノ瀬橋は承応2年(1653)に唐通詞・穎川道隆が私財を投じて架けた石橋で、現在は長崎電鉄の終点から奥に入った水神神社の横に名残をとどめています。

「長崎甚句」はこの蛍茶屋での別れの情をしみじみと歌ったものです。
蛍茶屋を『蛍の茶屋』『藤棚の茶屋』と歌っているように、当時の一ノ瀬川にはホタルが舞い、竹林と杉林も名物でした。

嘉永7年(1854)建立の尾花塚には、浄瑠璃三味線の名手、二代目豊沢富之助の「たずねつる道にのこりて枯れ尾花」という句が刻まれています。


〈長崎古版画に描かれた蛍茶屋〉


〈現在の蛍茶屋と一ノ瀬橋〉


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