文・宮川密義


1.「和蘭陀船(おらんだぶね)

(昭和8年=1933、北原白秋・作詞、山田耕筰・作曲、ベルトラメリー能子・歌)






長崎が開港すると、まずポルトガル、続いてオランダから貿易船が来航、珍しい品々を日本にもたらしました。
北原白秋(きたはらはくしゅう)が大正11年(1922)に発表したこの歌は、珍しい品々をいっぱい積み込んで入港するオランダ船の様子を、数え歌風につづった手まり唄です。
言葉の妙味で不思議なムードを盛り上げています。

解剖(ふわけ)、遠眼鏡(とうめがね=望遠鏡)、幻燈(げんとう=スライドの前身)、羅面琴(らべいか=初期の弦楽器)などと言葉を並べ、異国文化の得体の知れない偉大さ、すごさを描写しています。
歌はまず昭和8年(1933)にベルトラメリー能子(よしこ)のレコードに始まり、同12年には童謡歌手の大川澄子のレコード、さらに同41年(1966)には西六郷少年合唱団がコーラスで、また平成3年には森繁久弥(もりしげひさや)さんが軽快に、面白おかしく朗読したCDも出ました。


長崎港に入港する阿蘭陀船
(長崎古版画)
長崎文献社提供


2.「長崎行進曲」
(昭和10年=1935、渡部龍夫・作詞、大村能章・作曲、東海林太郎・歌)




この歌は、当時全国的にヒットしていた「東京行進曲」をモデルに作られました。
作詞した渡部龍夫(わたべたつお)さんは長崎市内の歯科医院で書生をしながら、同人誌を出すなど作詞活動をしていました。
昭和9年(1934)、長崎と雲仙で開かれた長崎産業観光博覧会にちなむ歌詞の公募に応募、「長崎博覧会の歌」(バックナンバー参照)が1等当選します。
その実績で、レコード会社が渡部さんに長崎ものの作詞を依頼したわけです。
渡部さんは、大正12年から昭和18年まで長崎丸と上海丸が就航した出島の「日華連絡船」発着所、大波止、大浦海岸の桟橋などで取材、この歌をまとめました。
五色のテープが舞う出島岸壁のにぎわいが伝わります。
渡部さんはこれで自信をつけ、プロの作詞家を目指して長崎を離れます。


「長崎行進曲」の歌詞カード


3.「バッテン港の蒼い船」
(昭和27年=1952、山本逸郎・作詞、飯田景応・作曲、瀬川 伸・歌)




昔、夜の長崎港に入ってきた外国船がテーマ。
船体は「蒼色」で、夜の長崎港の青くくすんだ様子を感じさせます。
これを歌った瀬川伸(せがわしん)は、今人気の瀬川瑛子(せがわえいこ)さんの父親で、「君が心の妻」「上州鴉」などのヒットで知られます。
瀬川伸はこの年、「青いガス燈のチャイナタウン」「さらば長崎港街」と合わせて3曲出しています。
ちなみに、このころは題名に青や赤を使った歌が続出しました。
青では「青いガス灯」(岡本敦郎、昭和26年)を始め「青い流れに」(小畑実、同6年)、「青い月夜のランデブー」(灰田勝彦、27年)、「青い小窓の喫茶店」(村沢良夫、27年)、「青いランプの並木路」(奈良光枝、28年)などがあります。


瀬川 伸(歌詞カードから)


4.「雨と港と石畳」
(昭和33年=1958年、西沢 爽・作詞、船村 徹・作曲、大江洋一・歌)




長崎の歌では、異人屋敷や石畳、オランダ坂と雨、それに港も大切な素材ですが、この歌は、それらをまとめて取り込んだ欲張ったタイトルが付いています。
歌詞も、マリアの鐘の響く日暮れのオランダ坂に銀色の小雨が降り、出島の沖に花束が流れています。
そして「雨と港と石畳」の長崎に別れを告げるわけです。


5.「ラテン長崎港町」
(昭和45年=1970年、長崎八代・作詞、星野哲朗・補作詞、米山正夫・作曲、倍賞美津子・歌)




昭和45年(1970)に長崎の民放、NBC長崎放送が視聴者参加テレビ番組「長崎を歌おう」の中で、新しい歌詞を募集して制作した長崎の歌です。
1等当選作は北松浦郡小佐々町の豊島(とよしま)トイさんの作品「長崎出島物語」。
2等当選のこの「ラテン長崎港町」は、長崎八大のペンネームで応募した城尾意和男(しろおいわお)さん(当時長崎大学4年)の作品で、元の題は「長崎ルンバ」でした。
これを補作した作詞家の星野哲郎(ほしのてつろう)さんは「従来のムードを破った異色作」と賞賛していました。
米山正夫(よねやままさお)さんの曲、倍賞美津子(ばいしょうみつこ)さんの歌とともに、これまでになかった新しいイメージの“港の歌”として注目されました。


「長崎出島物語」とカップリングしたレコードの表紙



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