文・宮川密義

長崎県内の歴史上の人物は、日本の写真術の開祖・上野彦馬(うえのひこま)、印刷では本木昌造(もときしょうぞう)、国防のために砲術を究めた高島秋帆(たかしましゅうはん)、外国人ではヨーロッパの植物学者で出島三学者のケンペル、ツュンベリー、シーボルト、その他、数え上げるときりがありません。
長崎の歌には歴史上の人物も歌い込まれています。
タイトルからそれと分かるものは20数曲。
例えば混血児のために国外に追放された「じゃがたらお春」のような、半ば伝説化された人物、歌詞の中にそれとなく挿入されたものなども含めると、かなりの数になりそうです。
ここでは、よく知られた歌を実在した人物の年代順に取り上げました。
(タイトルの後のカッコ内の表示年はレコードまたは作品の発表年です)


●天正遣欧少年使節
1.「光る海」

(平成2年=1990、やしろ よう・作詞、浜 圭介・作曲、歌)




天正10年(1583)、ヨーロッパに派遣された4人の少年「天正遣欧少年使節」をテーマにした歌です。
この4人は伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。
13歳から15歳の時に出発、8年5か月の歳月を経て、日本に帰って来ました。
日本という国の存在を、ヨーロッパに身をもって知らせた上に、印刷機などのヨーロッパの進んだ文化を持ち帰りました。
天正少年帰国400年の年に当たる平成2年、歴史的にかかわりの深い大村市が記念事業を展開しましたが、その中に「光る海」の制作がありました。
この歌のほか、少年使節の1人、千々石ミゲル(千々石清左衛門)を歌った「千々石清左衛門讃歌」(昭和63年=1988、田中登・作詞、寺崎良平・作曲、ボニー・ジャックス・歌)も出ています。
昭和63年の南高千々石町の町制施行60周年を記念してテープに収録されました。


少年使節の像を取り入れた
「光る海」のジャケット

●天草四郎
2.「南海の美少年」

(昭和36年=1961年、佐伯孝夫・作詞、吉田 正・作曲、橋 幸夫・歌)




今から約360年前の寛永14年から15年(1637〜1638)に島原半島と熊本県の天草の農民が起こした農民一揆「島原の乱」の総大将といわれた天草四郎をテーマにした歌です。
天草四郎は洗礼名をジェロニモといい、キリシタンの教えを説き、奇跡を呼ぶ天童といわれました。

この歌が出た頃はテレビ映りのよい歌手たちがもてはやされて「青春歌謡」が流行、そのトップバッターとして登場したのが、五分刈りのヘアスタイルでハンサムな高校生歌手・橋幸夫(はしゆきお)さんでした。
天草四郎のイメージにぴったり合って、広い年齢層に受けたものです。
なお、直接的に天草四郎を歌ったものはこのほかに「天草四郎」(昭和27年=1952、霧島昇・歌)、「落城の賦」(昭和34年=1959、森繁久弥・歌)、「島原の美少年」(昭和37年=1962、大木伸夫・歌)、「天草四郎(みこ)さんの子守唄」(昭和41年=1966、ボニー・ジャックス・歌)、「殉教の歌〜天草四郎」(平成元年=1989、山口渓照・歌)、「天草四郎」(平成2年=1990、船橋一郎・歌)、「天草四郎時貞」(平成8年=1996、中村美律子・歌)、「よみがえる天草四郎」(平成12年=2000、福島竹峰・歌)などがあります。


島原の乱の舞台「原城」に
建つ天草四郎像

●坂本龍馬
3.「龍馬長崎暦」

(平成6年=1994、下田 亮・作詞、中山治美・作曲、秋岡秀治・歌)




江戸末期の土佐藩の勤皇の志士・坂本龍馬(さかもとりょうま)を歌ったものです。
龍馬は慶応元年(1865)に長崎で亀山社中(かめやましゃちゅう)を結成。
西郷隆盛(さいごうたかもり)、小松帯刀(こまつたてわき)、木戸孝允(きどたかよし)らと図って薩長連合に成功、倒幕の大きな力となりました。
亀山は長崎の伊良林にあり、龍馬を隊長とする海援隊が亀山社中を軸に活動しました。
先年、長崎市内の龍馬ファンらによって「亀山社中ば活かす会」が結成され、風頭公園に龍馬の像が建てられました。
この歌は、龍馬ファンの一人、長崎市内の下田亮(しもだあきら)さんが、龍馬の生誕160年に当たる平成6年、龍馬の功績を継承しようと思い立って歌詞を書き、同市内の中山治美(なかやまはるみ)さんが作曲、演歌歌手秋岡秀治(あきおかしゅうじ)さんが吹き込み、全国発売されました。


風頭公園に建つ坂本龍馬像

●楠本イネ
4.「おいね恋姿」

(昭和51年=1976年、関沢新一・作詞、サトウ進一・作曲、十和田みどり・歌)




おいねは日本最初の西洋流産科女医・楠本イネのこと。
出島蘭館医シーボルトの娘です。
シーボルトは丸山の遊女、其扇(そのぎ=別名お滝さん)を日本妻に迎え、2人の間に生まれたのがイネでした。
おイネが生まれた翌年の文政11年(1828)、シーボルトは日本地図など禁制品を隠し持っていた罪に問われ(シーボルト事件)、翌12年には国外に追放されてしまいます。
その後、おイネはシーボルトの門弟に付いて産科を勉強。
ずっと後に戻って来た父シーボルトからも指導を受けて、女医として活躍しました。
この歌では混血児としての悲しみ、国外に追放された父シーボルトをしのぶおイネさんの心。
そして幕末、官軍の総司令官として活躍しながら、反対派の士族に襲われ死亡した大村益次郎(おおむらますじろう)への恋心を歌ったものです。


おいね〜楠本イネ
(長崎文献社提供)

●稲佐のお栄
5.「長崎恋姿」

(昭和48年=1973年、石本美由起・作詞、和田香苗・作曲、島倉千代子・歌)




明治時代、“ロシア租界”といわれた稲佐のクラブで働き、ロシア将校たちに人気を集めた“稲佐のお栄”を歌っています。
稲佐お栄(いなさおえい=1859−1927)は本名・道永エイ。
天草の生まれ。
明治初期、長崎港は政府指定のロシア極東艦隊停泊港として、多くのロシア人でにぎわいましたが、お栄は稲佐で働きながらロシア語を身につけ、美しさも手伝って頭角を現わしました。
ロシアのニコライ皇太子がお忍びで来崎した折も、宴会を立派に仕切り、名を挙げました。
“ロシア海軍の日本の母”と呼ばれる一方で“ラシャメン”とののしられ、嫉妬と好奇の目にさらされ続けた一生でもありました。
歌は「あじさい旅情」と共に島倉千代子(しまくらちよこ)さんが、しっとりと歌っています。


稲佐お栄〜道永エイ
(長崎文献社提供)

●戦時中には“軍神”ものも
6.「橘中佐」

(明治37年=1905、鍵谷徳三郎・作詞、安田俊高・作曲)
日露戦争で戦死した南高千々石町出身の橘周太(たちばなしゅうた)中佐を“軍神”と歌ったものです。
上、下2つに分けられた歌詞は合わせて32節にも及び、文部省唱歌も出来て、戦時中は学校でよく斉唱させられたものです。
南高千々石町の橘神社の前には橘中佐の銅像が大正8年に建立されました。


7.「爆弾三勇士の歌」
(昭和7年=1932、与謝野 寛・作詞、辻 順治・作曲)
昭和7年1月の第一次上海事変の際、満州(今の中国東北部)の廟行鎮(びょうこうちん)で、敵の鉄条網を突破するため、爆弾を抱えた兵士3人が点火したまま鉄条網に飛び込み、人間もろとも爆破しました。
3人のうち2人は長崎県出身で、当時は「爆弾三勇士」とか「肉弾三勇士」と呼ばれました。
新聞社とレコード会社などが提携して“たたえる歌”が数曲作られ、同年4月から5月にかけて10枚近くのレコードが出ました。


8.「山内中尉の母」
(昭和9年=1934、佐藤惣之助・作詞、古賀政男・作曲、藤山一郎・歌)
日華事変が始まった頃、中国大陸で戦死した海軍航空部隊の山内達雄(やまのうちたつお)中尉とその母親をたたえた歌です。
長崎市中川町の実家に戦死の報せが届いたとき、母親のヤス子さんが「祖国のために命を捧げることが出来てありがたく思っています」という旨の手紙を海軍省あてに書いたことが反響を呼び、「この母にしてこの子あり」などと、新聞も大きな見出しで紹介しました。
レコードも「山内中尉の母」のほか、「忠烈山内中尉の母」「この母この子」のタイトルで、合わせて3曲出ています。



【もどる】