文・宮川密義


今回は東山手の居留地跡を“歌さるき(歩き)”してみましょう。(本文中の青文字はバックナンバーにリンクしています)

(1) 「我が国鉄道発祥の地」碑
  イギリス人貿易商、トーマス・グラバーが慶応元年(1865)に、今の長崎市民病院前〜松が枝の居留地海岸にレールを敷き、上海で買った蒸気機関車アイアン・デューク号を走らせました。新橋(今の汐留駅)〜横浜間に鉄道が開通した明治5年(1872)より7年前のこと。バックナンバー27「長崎と『鉄道唱歌』」に詳述しています。
(2) (8)オランダ坂
  図の(2)付近が現在、オランダ坂として最も知られている坂。「オランダ坂」と彫られた石柱も建っています。文久2年(1862)、図の(8)の大浦石橋から英国聖公会会堂(教会、現在の海星高校の下)に至るゆるやかな坂道が造られ、日曜ごとに大勢の外国人がこの道を歩いて教会に通いました。活水下の道(図の(5))も含めて「オランダ坂」と呼ぶようになりました。オランダ坂は長崎の歌に数多く歌われています。
(3) 活水女子大学
  明治12年(1879)に長崎で高等教育を目指したE.ラッセル女史によって創設された活水女学校が前身で、長崎の名門ミッション系女子校・活水学院として全国に知られます。
(4) 「長崎物語」歌碑
  活水坂(図の(5))の登り口、「オランダ坂」の碑の向かい側に、昭和14年(1939)に出て大ヒットした「長崎物語」(「禁教の悲劇を歌う」)の歌碑があります。作詞した梅木三郎の黒崎重子夫人の強い要請で昭和61年(1986)10月に建てられました。
(5) 活水坂
  長崎の観光絵はがきに登場する有名なオランダ坂。さだまさしの歌「絵はがき坂」はこの坂で、歌には坂を通る活水の女学生たちも登場しています。
(6) 東山手十二番館
  明治元年(1968)にプロシャ領事館として建設された後、アメリカ領事館やアメリカの宣教師などの住居として使われました。昭和16年(1941)に活水学園に譲渡され、昭和51年(1976)、活水学園が長崎市に寄贈。現在は長崎崎市旧居留地私学歴史資料館として活用されています。
(7) 東山手洋風住宅群
  現在は長崎市東山手地区町並み保存センター・長崎市古写真資料館・長崎市埋蔵資料館として利用されています。
(8) 孔子廟
  明治26年(1893)、儒学の祖・孔子の遺品を祭るために創建。改築を重ねながら昭和57年(1982)年には中国政府の助力で日本唯一の中国人による孔子廟となりました。9月28日には孔子祭があり、多くの見物客でにぎわいます。歌では唯一、「途方に暮れるクーニャン」という歌の中で、「孔子廟ん庭で舞い踊るライオン…」と歌われています。

【東山手居留地跡周辺マップ】


*このエリアにちなんだ歌

新緑のオランダ坂

幕末の開国で長崎に居留地が出来たとき、長崎の人は東洋人を除く外国人を“オランダさん”と呼んでいました。東山手の坂道は日曜日ごとに大勢の外国人が教会に通っていたことから、自然に「オランダ坂」と呼ぶようになり、戦後は長崎でも最も人気のある観光スポットとなりました。
きっかけとなったのは歌「雨のオランダ坂」のヒットでした。これは昭和21年(1946)に長崎市内のロケで作られた映画「地獄の顔」の主題歌の一つでで、当時の人気俳優、水島道太郎(みずしま・みちたろう)と月丘夢路(つきおか・ゆめじ)・千秋(ちあき)姉妹が初共演して話題を集めました。
映画にはほかにも「夜更けの街」「長崎エレジー」「夜霧のブルース」が挿入され、特にヒットしたのが「雨のオランダ坂」でした。
その後、オランダ坂を取り入れた歌が相次ぎました。「オランダ坂の夜は更けて」「オランダ坂に花が散る」「ほろ酔いオランダ坂」「おらんだ坂」「オランダ坂」はバックナンバーをご覧下さい。
また居留地をテーマにしたものは「月の居留地」(バックナンバー「長崎の月を歌う」)、「雨と港と石畳」(同「長崎港を歌う」(下))、「春一輪」(同「長崎の春を歌う」)などもあります。


1.「恋の長崎雨の町」
(昭和56年=1981、若山かほる・作詞、四方章人・作曲、春日八郎・歌)


昭和38年(1963)に出た春日八郎(かすが・はちろう)の「長崎の女(ひと)」はソテツの花がこぼれるオランダ坂の石畳で、姿を消した長崎の女性を捜し歩く男性を描写しました。
外国人墓地やサファイア色のまなざし、ささやくように聞こえる教会の鐘…。居留地の異国情緒たっぷりのヒット曲でした。
「恋の長崎雨の街」は春日八郎の歌手生活30周年記念曲で、「長崎の女」の続編ともいうべき歌。ここにもソテツの花が登場しています。
しかし、「長崎の女」でこぼれるように咲いていたソテツの花は、ここでは雨のオランダ坂に寂しげに落ちていました。
オランダ坂は、花を通して人生の描写にも使われました。オランダ坂を登る人々はそれぞれに十字架を背負っている…色を変えるアジサイを重ねて人生模様を歌った「長崎はアジサイ模様の哀愁」も聴きごたえのある歌です。


「恋の長崎雨の街」の表紙

東山手に多く見られる蘇鉄
(東山手十二番館前)


2.「絵はがき坂」
(昭和51年=1976、さだまさし・作詞、作曲、歌)


歌のタイトルの「絵はがき坂」は有名なオランダ坂のこと。長崎の名門ミッション系女子校の活水学院もオランダ坂にあります。さだまさしの妹・佐田玲子も活水の出身。タイトルの「絵はがき坂」はオランダ坂のことで、絵葉書に良く使われていることで題名になりました。
歌詞の「同じ様にジーンズ着て、アンアン・ノンノ抱えた若いお嬢さん達が…」は“アン・ノン族”のファッションスタイルが見られた70年代の時代背景を表現しています。ちなみに、80年代には「HANAKO族」という言葉にとって代わりました。
この作品は、さだまさしのアルバム『帰去来』に収録した後、シングル『雨やどり』のB面にも収録されました。明るく軽快ですが、失恋の歌です。

活水大学前のオランダ坂


3.「雨のオランダ坂」
(平成15年7月=2003、永田早苗・作詞、作曲、歌)


昭和22年に渡辺はま子の歌でヒットした曲と同じタイトルの歌。
長崎市外海町で歌手活動を続けている永田早苗(ながた・さなえ)さんが、他界した夫を偲んで出したCD「夕陽橋」のカップリング曲です。
永田さんは学生時代に音楽に目覚め、作詞や演奏などで音楽活動をしていました。夫の他界で落ち込んでいたとき、友人に誘われて歌を始め、元気を取り戻したそうです。
「夕陽橋」は外海町の夕日の美しさを歌っていますが、「雨のオランダ坂」では、オランダ坂で出会い大村で別れる悲しい恋が描かれています。
やはり夫への追憶が重なっているようです。


CDの表紙


4.「雨オトコ晴オンナ〜オランダ坂で君を待って
(平成16年12月=2004、山中真一・作詞、作曲、Freeway High・歌)


かつてストリート・ライブで人気を集めていたアコースティック・デュオ「海人(うみんちゅ)」が活動の拠点を長崎から東京へ移し、「Freeway High(フリーウエイハイハイ)」に改名して、平成16年(2004)9月にマキシシングル「雨オトコ晴オンナ〜オランダ坂で君を待って」でメジャーデビューしました。
雨オトコのボクと晴れオンナのキミが長崎の名所、オランダ坂で落ち合い、湊公園から出島ワーフ、そして大波止のターミナルへ。長崎の若者のデートコース?でたわむれるひととき。
甘酸っぱい若者の恋愛がさわやかに、軽快に歌われています。


CDの表紙

【もどる】