長崎の地方史研究家 越中哲也先生にご解説いただきながら、町に眠る歴史を紐解いていく恒例企画。今回は、旧長崎街道沿いにある本河内町界隈を散策しながら、のどかな旧街道の風情と、長崎の歴史を物語る史跡を紹介する。
ズバリ!今回のテーマは「あなたの知らない世界が広がるまち、本河内」なのだ。
越中哲也(えっちゅう てつや)/長崎地方史研究家。大正10年(1920)長崎市生まれ。龍谷大学文学部卒。復員後、長崎市立博物館に勤務。昭和49年(1974)、長崎市立博物館館長に就任。現在は、長崎歴史文化協会理事長を務め、地元のTVやラジオで も広く活躍する“長崎の顔”。長崎史や長崎を中心とした美術・工芸の研究と紹介に努めるかたわら数多くの執筆活動や監修を手掛けておられる。主要著書「長崎の美術・工芸?長崎文化史序説?」「長崎の西洋料理?洋食のあけぼのー」「長崎おもしろ草 第五巻 越中哲也の長崎ひとりあるき」。
烽火山の麓、本河内水源地の上流にある瑠璃光山 妙相寺。紅葉の名所で知られるこの寺は、今も昔も木々に覆われた風情豊かな地。これからの季節、山から吹く涼風を感じながら散策するには最適の場所だ。
まずは妙相寺の参道へ。昔この辺りは字名を“奥山”といい、この道は日見、矢上方面へ向かう長崎の古街道だった。瑠璃光山妙相寺は、延宝年間(1673~1681)に晧台寺の住職が結んだ末庵に由来する。この寺が賑やかになったのは、寛政年間(1789~1801)に、秋葉大権現をこの地に移してからのことであったという。
越中先生「妙相寺は、もともと今篭町、現在の鍛冶屋町の大音寺のそばに、寛永19年(1642)に創建された宗圓寺に由来します。その後、この寺が衰退した際、誰も祀る者もなく置かれていた釈迦如来像を安置し、晧台時末寺・妙相寺として再興したのが晧台寺5世住職“逆流”という人で、延宝7年(1679)のことです。その後、寺を現在地に移転したのは、宝永4年(1707)、3代住職“毒龍”のときです」。
文化5年(1808)のフェートン号事件以後、長崎で異変が起きた際の唐人の避難所は、彼らの菩提寺である唐寺の崇福寺と興福寺だったが、再避難所には、妙相寺があてられたので、以降、唐船主などは、この寺へ参詣するのが定例となったという。
越中先生「妙相寺は古くから長崎で唯一のカエデの名所で、長崎を訪れた文人墨客は、秋には必ず静かなこの境内へ出向いたといいます」。
妙相寺境内へと誘う一つには、珍しい石造りのアーチ型の山門がある。
越中先生「石門の正面に刻された“瑠璃光山”の四字は、逆流の筆によるものです。この門は、もともと寺所有地であった奥山の道の下の方にあったのですが、明治21年(1888)に本河内水源地が新設する際、山林田畑含め水道用地として買収されたため、そこにあった石門を現在の場所に移し建てました。境内へ入ってみましょう」。
取材当時は、まさに紅葉のとき。多くの人々が紅葉狩りへ訪れていた。
越中先生「本堂の右奥には庭園があります。これは、享保2年ごろに、当時の毒龍和尚が後山の飛瀑の傍に東都亀井戸の天神を模した太鼓橋や石の手すりを造りました。これは今もそのまま残っています。池には、忍冬(にんどう)模様の石の噴水鉢が置かれていますが、この模様の源はギリシャであり、当時の長崎の石工たちがその影響を受けていたのだと考えると実に面白いですよね。雅趣にあふれたいい景観です」。
本堂に上がり、円空仏にも似た木彫のご本尊に手を合わせる。
越中先生「本堂脇の道を上ると、秋葉大権現が祀られた石室へと出ます。向かってみましょう」。
急な石段を上り、秋葉大権現へ。途中には、渓流に沿って天満天神祠や柊(ひいらぎ)大明神祠などがある。薄暗い山谷を過ぎると、赤く色づいた美しいカエデが。周囲の岩盤は、どこからともなく湧き出た水でしっとりぬれていて、幽玄な空気が漂っている。
越中先生「この石室は、大きな岩を掘って造ったもので、奥行き1丈4尺、側面に“寛政四年八月吉日一発願主知行”と刻んであります」。
日常から切り離されたように静かな空間。霊験あらたかな空気に、身が引き締まった。周囲の風景を楽しみながら石段を下り本堂の脇へと戻ると、右側、きれいに紅葉したカエデの大樹の下に一基の墓石を見つけた。
越中先生「この墓は、昔、宮本武蔵の墓と間違えられていましたが、墓石に刻まれた右面の碑文をよくよく読むと、宮本武蔵弟子藤原某墓と刻まれており、武蔵の弟子の墓だということがわかりました」。
島原の乱に参戦したことで知られる武蔵。長崎と武蔵のつながりも不明だが、武蔵の弟子の墓があることもあまり知られていない事実。“鉄玄の墓”と呼ばれるこの墓石の左面には、辞世の句が刻まれている。
それでは、妙相寺を後に、再び参道を通って本河内の方面へと向かおう。
越中先生「昔は、矢上村方面の人々は、この道を通って桜馬場まで野菜売りにきていたんですよ。木場の名産は夏野菜とショウガの味噌漬け。ミカンですね。江戸時代、唐船が持ってきたものを栽培したのが木場方面のミカンのはじまりで、出島のオランダ商館、唐人屋敷などにも納めていたそうです」。
車の往来も少なく、散歩に適したのどかな道を下っていくと、水源地が見えてきた。本河内高部ダムの工事は、明治22年(1889)に着工、明治24年(1891)に完成したダム式としては日本初の上水道。このダムの水底には「幻の石橋」が眠っている(本河内高部貯水池内石橋/市指定有形文化財)。
越中先生「水源地が造成された際、そのまま水没した石橋です。渇水のときにだけ見ることができますが、今日は見えませんね。平たい自然石を組み合せたアーチ式の素朴な石橋ですが、江戸時代末期に地元の住民によって築かれたといわれています」。
なかなか見ることができない「幻の石橋」。見えない日が多いのは、水不足ではないことの証、喜ばしいことだ。現在、昭和57年(1982)の長崎大水害をきっかけに造られた新しいダムと古いダムの間に公園が整備され、地域の人々の憩いの場となっている。ここで周囲の山々を眺めながら、しばし休憩。
国道34号線を渡り、聖母の騎士高校、聖コルベ神父記念館の方面へ。国道で分断されたこちら側も町名は本河内である。
越中先生「蛍茶屋から日見峠までの旧長崎街道沿いには、たくさんの記念塔や供養碑、宝篋印塔などがあります。多くの供養塔は各町内が受け持って建てられたものです。注意深く見ていくと「馬町」「紺屋町」などと、町名が刻まれているんですよ」。
なかでも圧巻なのは、聖母の騎士高校の下にある県内で最大級の本河内宝篋印塔(市指定有形文化財)。高さ6.2mもある。
越中先生「文化8年(1811)建立のこの本河内宝篋印塔は、唐船の安全航海、大雨洪水による被害者の供養のために建てられたと言われ、かつての長崎街道沿い、本河内低部水源地の入口辺りにありました。碑文は豪潮という僧によるものです。県内で最大級の宝篋印塔は、さぞ人々の目を惹きつけたことでしょうね」。
しばらく進むと、左前方の高台に青銅塔(からかねとう)という立派な供養塔が見えてきた。(市指定有形文化財)。この塔は、享保6年(1721)の大洪水で亡くなった人のために、この地に滞在していた勧心という僧侶が発起人となり、今紺屋町、中紺屋町の町民たちの援助を得て建てられた宝篋印塔だという。
越中先生「露天に建てられた青銅製の宝篋印塔は全国的にも珍しいんですよ。鋳造は、鍛冶屋町の鋳物師、安山弥兵衛国久。安山一族のなかで最も活躍した鋳物師によるものです。しかし、300年近く外にあるので腐蝕が進んでいますね。残念です」。
安山弥兵衛国久といえば、特集「宗教を越えて鳴り響く“長崎の鐘”」内でも紹介した、長崎四福寺のひとつ、聖福寺の“鉄心の大鐘”を鋳造した人物だ。“鉄心の大鐘”といえば、享保3年(1717)鋳造。わずか数年の間に、2つの大作を手掛けていることに驚かされる。しばらく旧街道の風情を楽しんでいると、越中先生が急に足早に歩きはじめられた。
越中先生「これは、長崎で囲碁を広めた南京坊義圓(なんきんぼうぎえん)という人の“碁盤の墓”なんです。墓の台石が碁盤になっていて、花立てが碁石を入れる碁笥になっている面白い墓です。それから、この辺の高台には、名力士の墓といって、江戸時代の力士の墓もあるんですよ」。
“碁盤の墓”はどうなっているのか? ぜひ、実際にその目で確かめてほしい。 旧街道からかなり急な石段を上ったところに、“故名力士の墓”と刻まれた自然石でできた墓石を発見。本当にこの通りには、墓碑や供養塔が多いものだ。
越中先生「本河内には、“一の瀬無縁塔(市指定有形文化財)”もあります。寛文2年(1662)に長崎で痘瘡(とうそう)が流行し多くに人が亡くなりました。このとき、長崎総町によって崇福寺の唐僧即非らが経を写した塔が建てられました。塔の四面の上部に釈迦如来像などの像がはめこまれていましたが、その四方仏の内、一面の地蔵菩薩像が昭和29年(1954)に盗まれたので、残る釈迦如来・阿弥陀如来・観音菩薩の像は取りはずされ、今は代替像が安置されています。本物は、長崎歴史文化博物館に保管されていますよ」。
さぁ、そろそろ最終地点へ到着だ。
越中先生「芭蕉の“渡り鳥塚”ですね(市指定有形文化財)。正面には芭蕉(翁)の、右面に芭蕉の門弟で長崎出身の向井去来(落柿舎)の句が刻されています。句碑は長崎の俳人たちが建立したもので、裏面には、“文化十とせの夏みな月蕉門の徒弟こゝろ合せて建けるよしを祥禾しるす”とあります。文化10年(1813)、長崎の俳人平田祥禾(ひらたしょうか)をはじめとした当時の蕉門俳人が、芭蕉120回忌、去来110回忌にあたって馬町の墓地に建立したものです。これは、当時長崎街道を往来する文人たちへ蕉風俳諧の宣伝の意味があったのだといいますよ」。
「めにかかる雲やしばしのわたり鳥 翁」
「故さとも今はかり寝や渡りとり 落柿舎」
去来がこの句を詠んだのは、芭蕉没後4年目、元禄11年(1697)の2度目の帰郷後のこと。長崎に芭蕉塚はほかにもあるが、芭蕉、去来の師弟句碑としては唯一のもの。旧長崎街道沿いにひっそりと建つこの碑は、文学的に大きな価値を持っている。
越中先生にご案内いただいた本河内は、長崎の発展と文化が垣間見られるまちだった。なにより、豊かな自然と長崎の風情が残っている。歴史と四季が楽しめる散歩道、ぜひ気軽に歩いてみよう。