平安時代末期に造立(ぞうりゅう)された千手観音立像。今回は脇岬の先端の寺院に祀られ、長きに渡り多くの人々に信仰されてきた通称“みさきの観音”と、そのみさきの観音詣りの参道、御崎道(みさきみち)に歴史の迫る! そこで、長崎の歴史のことならこの方! 長崎地方史研究家の越中哲也先生にナビゲーターを依頼。なにぶん長い道のりのため、徒歩と車を併用して御崎道(みさきみち)を案内して頂きながら、野母崎界隈の歴史と見どころにも迫ってみた。

ズバリ!今回のテーマは
「先人に習って行く長崎小旅行」なのだ


出発地点・十人町へのアクセスは次の通り。
●JR長崎駅からのアクセス

路面電車/長崎駅前電停から正覚寺下行きに乗車し、築町電停で下車。徒歩5分。
長崎バス/長崎駅前南口バス停から新地ターミナル行きに乗車し、終点で下車。徒歩5分。
車/長崎駅前から約10分。

越中哲也先生
プロフィール●


長崎地方史研究家。『長崎ぶらぶら節』に出てくる長崎学の第一人者・古賀十二郎氏の孫弟子にあたる。長崎歴史文化協会理事長を務め、地元のTVやラジオでも広く活躍する“長崎の顔”。長崎史や長崎を中心とした美術・工芸の研究と紹介に努めるかたわら数多くの執筆活動や監修を手掛けておられる。

まずは御崎道(みさきみち)について予習


御崎道ってどんな道?


<御崎道>


近くは雲仙普賢岳や天草を、遠くは中国大陸を望むこの野母崎半島の東海岸は、弁天島へと続く陸繋砂州(りくけいさす)が伸びる脇岬と呼ばれている。その北方の殿隠山(とのがくれやま)の山すそに、和銅2年(709)、僧・行基(ぎょうき)菩薩開祖の観音寺という曹洞宗の寺がある。なんとこの寺は、平安時代末期に創建された古い寺院の跡に建立されたお寺なのだ。現在のお堂は、江戸時代に再建されたもので、その御本尊は往時から“みさきの観音”と呼ばれ親しまれてきた国指定重要文化財の千手観音立像である。昔から長崎からの参詣者も多く、人々はこのみさきの観音様へと続く道を「御崎道(みさきみち)」と呼んだ。この道はかの司馬江漢も歩いたそうだ。起点は唐人屋敷跡に隣接する十人町。活水女子学院への上り口だ。つまり、そこから八郎岳(はちろうだけ)の中腹を南下して観音寺へと続く道が御崎道(みさきみち)なのだ。

今回の道のりは以下の通り。

◆コース全行程
(往復約3時間30分/徒歩&車&見学時間含む※発着点/築町電停)
◆徒歩コース(約60分)
十人町の御崎道(みさきみち)石碑
ピエル・ロチ寓居跡
居留地境碑
東山手(国指定伝統的建造物保存地区)、オランダ坂
石橋
◆車コース(約150分)
出雲町遊廓跡
長崎氏墓碑(上戸町)、城野城址
川原大池
観音寺(かんのんじ)
御崎の灯台跡(石灯籠)
★足を伸ばして
権現山展望台(ごんげんやまてんぼうだい)(野母)
正瑞寺(しょうずいじ)(高浜)



1.御崎道(みさきみち)石碑〜石橋

まずは、路面電車の中継地点、築町電停から唐人屋敷跡方面へと向かう。唐人屋敷跡の石碑が立つ地点から右へと入った十人町の石段からスタートしよう。

越中先生
「昔はこの石段のすぐ前まで海だったんですよ。では、この石段を上って行きましょう。野母崎へ行くにはこの道しかなかったわけですから、俗に“観音道”と言って、皆長崎の人々は通っていたわけです。この案内版の横にある石碑(道標)には、今は消えて見えませんが“みさきみち”と刻まれていたんですよ。」


かつて、脇岬の観音寺まで続く七里(約28km ※一里は約4km)の道のりの中で、同様の道標である石碑が50本あったが、現在では“みさきみち”と刻まれた道標はわずか10本しか確認されていないそうだ。


<みさきみち石碑>

越中先生
「この坂の途中にはピエル・ロチの寓居跡があります。これはフランス人作家のピエル・ロチが明治18 年(1885)に滞在した場所で、その間18歳の“お菊さん”という長崎の娘と暮らしたんですね。
そしてその体験をもとに描かれたのが小説『お菊さん』なんです。さらにこの小説と、居留地造成後に東山手にできた鎮西学院の創立に関係するジェニー・コレル夫人の長崎滞在秘話を参考に描かれたのが、コレル夫人の実弟、ジョン・ルーサー・ロング原作のオペラ『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』と言われているんですよ。」
<ピエル・ロチ寓居跡>

アリア『♪ある晴れた日に』で知られる長崎の港が見える丘を舞台にしたオペラ『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』は世界の人々に愛されている名作だ。この坂道を上っていくと、外国人居留地があった東山手の丘へと出る。

越中先生
「ここは長崎奉行管轄の十人町、しかしこの坂を上りきった場所からは大村藩だったわけです。この“十人町”という町名は野母崎で外国船の入港を見張る遠見番を勤める役人達の役宅があったことに由来しているんです。当時の道は、この中央の石畳くらいの幅だったようです。居留地になって外国人が通るから道幅を広くしたんですね。」

<御崎道十人町辺り>

長崎奉行管轄と大村藩の境は、開国後、外国人居留地となった境と同じ場所。現在は居留地境碑が立てられている。この石碑から活水女子学院を右目に坂道を下る。さらに順路を外国人居留地跡として国指定伝統的建造物保存地区に含まれる東山手の洋風住宅群方面へととり、急なオランダ坂(誠孝院の坂)を下ると大浦石橋に出る。

越中先生
「石橋は今は暗渠になっていますが、下を川が流れていて今のバス停辺りに橋が架かっていたんです。それが石橋(大浦橋)ですね。この辺りまで小舟が入っていたんです。今でも橋の親柱が残っていますよ。」


<オランダ坂>


<石橋の親柱>

石橋を渡り、果物店と精肉店の間の路地に入っていくと古い石垣や欄干が残されている。この辺りが、かつての御崎道(みさきみち)だという。今来た方向から順路を左にとり進んで行こう。


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【御崎道ってどんな道?/1.御崎道(みさきみち)石碑〜石橋】
【2.出雲町遊廓跡〜川原大池】
【3.観音寺〜御崎の灯台跡】
【★足を伸ばして 権現山展望台(野母)〜正瑞寺(しょうずいじ)(高浜)】


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