市街地の東方、まるで空から吊り下がった鐘のように小さく聳(そび)える愛宕山の麓(ふもと)を流れる通称 小島川。今も自然豊かな風情と、かつての長崎の歴史が見えてくる話や史跡が残る愛宕町から小島川流域。久しぶりに訪れたとおっしゃる越中先生の遠い記憶を頼りに、郷愁漂う旧道散策を決行。


ズバリ!今回のテーマは
「まだ見ぬ長崎風景大発見!」なのだ



越中先生
プロフィール
長崎地方史研究家。『長崎ぶらぶら節』に出てくる長崎学の第一人者・ 古賀十二郎氏の孫弟子にあたる。長崎歴史文化協会理事長を務め、地元のTVやラジオ でも広く活躍する“長崎の顔”。長崎史や長崎を中心とした美術・工芸の研究と紹介に 努めるかたわら数多くの執筆活動や監修を手掛けておられる。

 
終点、正覚寺下電停から
川沿いの旧道を歩く

越中先生「今日は、久しぶりに来ましたね。かつての風情を留めているか、楽しみです。この辺りは明治の末頃までは淋しい土地で、町から少し外れにある地域だったから当時は別荘地のような場所だったようです。そして、良いお茶ができていたそうです。」


正覚寺下電停から正覚寺とは逆の山手の方へと登って行く。

正覚寺から油屋町へ

越中先生「ここは油屋町でしょ。この上の八坂神社、清水さんの前の通りは町だったんです。今も小店や市場があって、下町って感じでいいですね。これは明治30年頃の煉瓦塀ですね。だからその頃この町ができたんじゃないですか。ここはきっと倉庫だったんでしょうね。よくとってありましたね。」


隣接していた屋根の形がくっきりと残った煉瓦塀が、明治期の風情を彷彿(ほうふつ)とさせる。


越中先生「八坂町までは町ですが、それから上は高野平(こうやびら)といっていました。“高い野っぱら”という意味ですね。」

「こちらが昔の道なんですよ。この辺りは埋め立てたんですね。ここを入って行くと、ほら、ここに海岸の大きな石がありますよ。ここまである時代までは潮が来ていたんでしょうね。」


ちょうど電停裏にあたる川沿いに、ギョッと驚く程の大きな石が駐車場に鎮座。その傍らに祠(ほこら)がある。これは、『弁慶石』と呼ばれる伝説の石なのだそうだ。祠(ほこら)は『弁慶石大明神』だという。周囲にはりっぱな石垣、りっぱな民家も目立つ。

越中先生「この石垣は高いでしょう。これは昭和になってからのものですよ。この上が清水さんですね。」

くねった道を進んで行く。この辺の路地は、昭和30年代頃まで“徳利町”“フラスコ町”という俗称で呼ばれていたという。つまり、くねったカーブや入り組んだ道がしだいに狭くなっているのがその名の由来だ。

越中先生「あちらの道からでも行けますが、川に沿って行ってみましょう。この川は水量が多いでしょう。根源は甑岩(こしきいわ)、田手原の方なんです。途中に江戸時代の景勝地として有名な白糸の滝があるんです。」


ゴウゴウと音をたてて流れる川に沿って歩いて行く。

越中先生「昔はこの辺りに大きな家がずらっと立っていましたけど、やっぱり日本家屋も少なくなりましたね。」

とはいえ、まだ古い家も残り、明治の頃の石垣なども目につく。

越中先生「道幅は人力車が通る幅ですからね、この辺はあまり変わっていないかもしれません。これは大正時代の煉瓦です。この辺りから川が広くなって、幕末から明治の初め頃、水を引いた跡があるはずです。川がなだらかでしょう。この辺りに『八丁車(はっちょうぐるま)』といって、段々に水車が八つあったんです。江戸時代、その水車で脱穀などをしていたそうです。」

「高平橋」から「千畳橋」までの約200mの間に、文字通り八つの水車があり、八丁車と呼ばれていたのだ。



越中先生「水がコンコンと流れてよかですよね。今でもこれだけの流れがありますし、落差がないといけませんから、この谷の水の流れを利用したんですね。」

国道近くだというのに静かな道。家の間にところどころ煉瓦塀がのぞく。

越中先生「“水車 月を汲んだり こぼした里” この八丁車のことを詠んだのは昭和初期の長崎の川柳会の第一人者だった小林竹仙という人です。この辺りに句碑があるはずですよ。」

越中先生の記憶では、川に架かる橋の側にあったそうなのだが、周囲を探しても見当たらない。行き止まりの路地に迷い込むなどずいぶん探しあぐね、結局この日は見つけることができなかった。そして、後日、撮影時に「小島バス停」の向かい側に句碑建立記念碑を発見。おそらく後に国道ができた際に移されたのだろう。記念碑の上の段に小林竹仙の句碑がそびえ立っていた。


   

小島小学校を目指し、坂道を登って行く。すると道途中、三差路の角にお地蔵様があった。背後の説明書きには、『目あての地蔵』とあり、かつて小島郷鳴川にあった小島小学校の校舎をこの地に移転した際に、学校への道案内と登下校の際の児童の安全を祈願して建てられたとあった。かつては道々に置かれていたが、今は各所に寄せ集められているという。


越中先生「前はこんな大きな道じゃなかったです。学校の入り口に文房具屋さんがあったんですけど今はどうですかね。あぁ、やっぱりもうないようですね。」


通りを行く女性に文房具屋のことを尋ねると、小学校正門近くのその場所を教えてくださったが、すでに廃業されていた。

越中先生「以前は、この道に対して学校は正面向きだった気がしますが今は違いますね。小島小学校は明治19年の開校で、この辺りで一番古い学校なんですよ。入り口に碑が2つありますね。一つは“田中田士英(でんしえい)”といって俳句でその名を馳(は)せた人を讃えた碑です。本名は田中英二とおっしゃって、この小島小学校の先生だったんです。もうひとつは、この学校の前身となった寺子屋を開き教育指導した松本泰明の功績を讃えた碑です。泰明は、かつての高野平郷にあった快行寺の住持でした。」



 

今来た道を引き返し、今度は橋を渡って上流方向へ向かってみることにした。



越中先生「あぁ、あそこにまたお地蔵さんがありますね。『夫婦地蔵』さんじゃないでしょうか。」

枝分かれした右方向へ上がる坂道の端に、ちょこんと2体のお地蔵様らしい石仏が見える。右の石仏が頭部と胴体、二つに割れていて、このことからいつの頃からか『夫婦地蔵』と呼ばれるようになったという。左の石に刻まれたお地蔵様はかねてから通学路に点在し、子ども達を見守っていたという『目あて地蔵』のひとつではないだろうか。


越中先生「あまり古いものではなくて、江戸の終わり頃のものだと思いますよ。」


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