「茂木街道」「長崎街道」「御崎道」と、越中先生と共に歩いてきた長崎の街道シリーズ最終章。江戸時代、海外の文物を求めて全国の商人や文人墨客が往来した長崎街道の中でも最も古い浦上街道(時津街道)歩いてみよう。

ズバリ!今回のテーマは
「遠い昔の情景を思い浮かべながらの3里の旅」なのだ



出発地点・西彼杵郡時津町・時津港へのアクセスは次の通り。
●JR長崎駅からのアクセス
長崎バス/長崎駅前バス停から時津、または溝川行きに乗車し、時津バス停で下車。徒歩5分。または、大串、石原、琴海ニュータウン行きに乗車し、時津港入口バス停下車。徒歩2分。
車/長崎駅前から約20分。



越中哲也先生
プロフィール●
長崎地方史研究家。『長崎ぶらぶら節』に出てくる長崎学の第一人者・古賀十二郎氏の孫弟子にあたる。長崎歴史文化協会理事長を務め、地元のTVやラジオでも広く活躍する“長崎の顔”。長崎史や長崎を中心とした美術・工芸の研究と紹介に努めるかたわら数多くの執筆活動や監修を手掛けておられる。



まずは浦上街道について予習

浦上街道ってどんな道?


戦国時代、一時は戦国時代島原有馬氏の領地だった浦上は、天正16(1588)豊臣秀吉直轄のとき天領となり、1605年(慶長 10)には南側は天領、北側は大村藩領となった。そしてさらに浦上川の東側を山里村、西側を淵村とし、大村藩領にあたる浦上は、浦上西村など5つの村に分割された。この浦上を縦断し、長崎から大村へと続く陸路の終点である時津を結んだのが浦上街道(別名 時津街道)だ。

当時、長崎村西坂(長崎市西坂町)から、浦上村山里、浦上北村、滑石村、高田村などを経て、大村藩領である時津村(現在の西彼杵郡時津町)までの距離は3里(約12km)。そして時津村からは海路7里(約28km)をかけて彼杵宿(東彼杵郡東彼杵町)に辿り着いたのだそうだ。江戸時代、海外の文物を求めて全国の商人や文人墨客が往来した長崎街道は、長崎から東に位置する日見峠を経て、矢上〜諫早〜大村〜松原〜彼杵、そして佐賀県の嬉野、福岡県小倉へと続くルートが有名。 だが、このルートは時代によっていくつかのコースがあり、そのなかでも古いコースといわれているのが長崎と時津を結ぶ、この浦上街道だった。長崎から北上し、浦上、滑石を経て時津に至り、時津港から大村湾を船で渡って彼杵へ。 それから嬉野へと辿る浦上街道は江戸時代の中頃まで大いに利用され、様々な人々が往来。なかでも最も有名なのが二十六聖人だった。


今回の道のりは以下の通り。

◆コース全行程(約3時間/徒歩&車&見学時間含む)
 ・日本二十六聖人上陸の地
 ・ともづな石(八幡神社)
 ・茶屋跡
 ・継石坊主(鯖くさらかし岩)
 ・打坂峠
 ・浦上界隈
 ・山王神社
 ・銭座界隈
 ・西坂の丘(日本二十六聖人殉教地)

●浦上街道 地図はこちら


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【浦上街道ってどんな道?】
【1.日本二十六聖人上陸の地〜打坂峠】
【2.本大橋〜西坂の丘】


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