1.日本二十六聖人上陸の地〜打坂峠


まずは、長崎市街地から車で時津港へ直行。彼杵宿から海路を辿って上陸する浦上街道の出発地点。二十六聖人が繋がれ、素足に血をにじませ、この街道を西坂の丘へ向けて歩き出した場所でもある。


越中先生
「二十六聖人は1597年の2月の5日、和暦でいうと慶長元年の12月19日、処刑の日の前
日に彼杵からここに来て、船の中に寝かされたといいます。大村藩はキリシタンがたくさんいましたので、取り返しに来るかも知れないと考えて上陸しなかったんですね。そして翌朝、とても寒い朝、西坂の丘へ向かったんですね。」



<時津港>

昔の波止場はもっと奥まった川岸にあったが、長年に渡り埋め立てられ、現在、大村空港行きの海上船が走る安田オーシャンの船乗り場として利用されている。波止場には“日本二十六聖人上陸の地”と記された記念碑が建てられている。


<日本二十六聖人上陸の地>

記念碑をあとに国道を進み左手、時津名物!時津饅頭と花屋との間の道へ曲がると、昔から市場(いちば)と呼ばれる中通り商店街に出る。かつてこの曲り角までは海岸で、船を繋いでおく“ともづな石”があったという。

越中先生
「この辺りまで海だったんですね。小さなお堂が丘にあるので、その下が町だったことがわかりますけど、左側(進行方向に向かって)が町だったんです。戦前のこの辺りは、道一本しかない田舎だったのに、すっかり変わってしまいましたね。ほら!ここに船を繋いでいたともづな石を移してあります。今入ってきた所辺りにあったんですよ。ここ辺りは宿場みたいな宿が数軒あったんですよ。本当に変わったですね。もう少し行ったら、殿様が泊まった屋敷跡がありますから行ってみましょう。」


<八幡神社>


<ともづな石>

道路を広げる際にこの場所に移され保存されているようだ。“八幡神社”から右方向に進み、長与道との交差した道を右に曲がり1本目の道を左に曲がると左手に小さな川が流れ、その川に沿って蔦がからまった石塀の大きな屋敷がある。ここは、文化14年(1817)に建てられた茶屋跡で、大名が休憩や宿泊に利用したといわれている。


<茶屋跡>



<茶屋跡の碑>

越中先生
「この建物は、幕末、長崎代官であった高谷正蔵が、大村藩の命によってこの地に建てたんですね。諸大名や幕府役人の休憩、宿泊地として利用されていました。本陣と言わないで、茶屋ということにしていたんですね。」

築200年近くたった古い建物は、これまでには当然改築、修理が重ねられているが、石垣や屋敷の門などはほぼ当時のまま。門は片側だけになっている。これらは往時の光景を偲ばせる代物だ。また、この茶屋跡前の通りもとても風情ある道筋。当時この通りはとっても賑わいを見せていたのだそうだ。


<茶屋跡前の町並み>

越中先生
「門は片側だけになっていますね。外側から見ても広大な敷地で、りっぱなものですよね。」

茶屋跡を後に、いかにも街道らしい風情漂う通りを進む。それにしても細い裏通りなのに交通量が多い。徒歩の方は十分気をつけて歩こう。国道206号線が見え隠れする道をしばらく進むと、小さな時津川沿いを走っていることに気づく。「とりこえ橋」を渡りさらに進むと国道206号線にぶつかる。

<とりこえ橋>


越中先生
「この川端、ここも浦上街道ですよ。」

ちょうど、ここから右手に広がるこんもりとした緑を見上げると“継石坊主(鯖くさらかし岩)”が見える。

越中先生
「ここは継石という地区だから継石坊主。今にも落ちそうで落ちてこない、面白い石ですよね。鯖くさらかし岩とはよく言ったものです。」



<継石坊主>

この奇岩は高さ20mはある大きな岩の上に、さらに不安定そうに岩が載っていて今にも落ちそうということで、江戸時代の文芸作家で狂歌師として名を馳せた、太田蜀山人(太田南畝)が、 長崎奉行所の役人として在勤していた時、 この奇岩を見て
「岩かどに立ちぬる石を見つつをれば になへる魚もさはくちぬべし」
と、 落ちてきそうな岩を怖がり、とうとう鯖を腐らせたという意味の歌を詠ったのが「鯖くさらかし岩」という名の由来なのだそうだ。長崎弁丸出しなネーミングに何とも親しみを感じる。この珍名所は長崎から時津方面へ走る車中からでも、その当時の情景を彷佛とさせるシチュエーションで見ることができる。何せ、今も昔も岩に変化なし!なもので……。

さて、国道206号線を左に順路をとり、長崎方面へ300m程走ると、右手に「紳士服のはるやま」が見える。その脇道へと右折してみよう。この辺りは「井手園」と呼ばれる地区。元村団地を左に見ながら進むと、先程の時津川に沿った道だと気づくだろう。ここが長崎に向かう最大の難所で、「打坂越え」と呼ばれた場所だ。

越中先生
「この辺りは全部田んぼでした。現在は国道が通って当時の様子はわかりませんが、山を削り切り通しになった起伏の激しい峠道。登り下りの大変な坂道ですね。」

牛や馬に荷物を担がせ長崎へ向かった人々が一番困ったのは、牛や馬が急な坂を前になかなか進んでくれなかったこと。そこでお尻をムチで叩きながら歩かせたことからこの辺りに「打坂」の名が付いたといわれている。


<打坂峠>

さらに進むと左手に国道に通じる新しい橋が見える。この橋は「打坂橋」。現在の道路は埋め立てられ高くなっているが、かつては谷間の川に飛び石が並べられていただけだったとか。

越中先生
「そうそう、こんな調子でしたね。この峠を越えて、長崎へ続いていたんです。」

この峠道から「横尾入口」交差点に出て、国道を300m程走り、右手のファミリーマート横の脇道へと入って行こう。ここから滑石(なめし)、岩屋、赤迫(あかさこ)、大橋まで風情ある街道、岩屋川の川端を走り、「岩屋橋」交差点の脇から浦上方面へと入っていく。この辺りは一方通行の道も多いので、車の場合は気をつけよう。


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【浦上街道ってどんな道?】
【1.日本二十六聖人上陸の地〜打坂峠】
【2.本大橋〜西坂の丘】