2.本大橋〜西坂の丘


「岩屋橋」交差点からは一方通行のため、車では入れないので注意! 入るとすぐに、浦上川に「本大橋」という名のコンクリート橋が架かっている。


越中先生
「この橋の向こう、国道沿いにはキリシタン禁教時代、浦上の隠れキリシタンが集う秘密教会の一つであるサンタクララ教会がありましたが、この下の辺りまで川だったんですね。」


<本大橋>

ここから坂の上り(山里小学校付近まで一方通行)下りを繰り返し、浦上天主堂の近くへと出る。


<浦上天主堂へ>
越中先生
「浦上天主堂の場所にはその昔、庄屋屋敷があったんです。そしてその前の道を長崎大学医学部の方へまっすぐ上っていく道、この辺り一帯を平野といい長崎の有力者、高谷家の分家があったんです。隣にお宮があるでしょ。そして庄屋の分家があったのです。この辺りには宿があったので平野宿(しゅく)といい、この坂道を『宿ん坂』といっていました。」

「医学部通り」と名づけられた浦上天主堂前の道ではなく、その道に平行した平和町、平野町といった閑静な住宅地を横切る道が本来の浦上街道。しかし、浜口まで抜けることはできない。何故なら、ここは全体的に高台になっているため、突き当たりは100段はあろうかという石段になっているのだ。


<突き当たりの石段>

越中先生
「この石段は新しく造っていますけど、昔から石段で、この下は船着き場だったんですよ。だからこの辺りは『浜口町』っていうでしょ? 浜辺だったですよ。この道をまっすぐ入っていくと山王神社に出るんですよ。」


<山王神社へ>

山王神社は、寛永15年(1638)に幕府の指示で真言宗延命寺によって近くの地に建立されたが、約10年後にこの地に移転。以来約350年、大樹となったクスノキ(被爆クス)と共にこの道筋を行き交う人々を眺めている。往時は浦上街道を往来する人々の憩いの場として親しまれていた。



<被爆クス>

神社の前には「浦上街道」と刻まれた記念碑が建っている。


<浦上街道>


<浦上街道の記念碑>

越中先生
「山王神社は比叡山の山王権現を祀った神社ですよ。山王は滋賀県の坂本にあるんですよ、だからここは「坂本町」っていうんですよ。松平伊豆守信綱が島原の乱を平定して帰る時に浦上街道を通ったんですよ、その時ここまできたら後ろの金比羅山が比叡山に見えたそうですよ。今、車が通っている所はみんな海だったんですよ。」



<山王神社>

山王神社を過ぎると坂本国際墓地トーマス・グラバーの墓などがある)の横に出る。その途中にお堂を発見!


<山王神社横のお堂>

越中先生
「街道には必ず供養塔があるんですよ。山王神社のところにはキリシタン時代には教会があったんですよ、そこで二十六聖人は神父様にお会いしたそうです。キリスト教は禁止されていたけど、長崎の町にはキリスト教信者はいっぱいいて、処刑も見に行っているんですから、平気だったんですよね。その頃、政治と宗教は違ったんでしょうね。このように道ばたに供養塔があるから、街道筋だということがわかるのです。」

坂本国際墓地からしばらく立山へと抜ける車道を通ろう。道の途中には長崎市歴史民俗資料館があるので、様々な長崎の歴史に触れるために立ち寄るのもいいだろう。歴史民俗資料館を過ぎると左手に「緑町中部」バス停がある。その脇の横断歩道を渡った所に「浦上街道」と記された小さな白いポールがあり、そこから銭座町へと抜ける石段が続いている。


<緑町中部〜銭座>


<浦上街道ポール>

越中先生
「きつかったと思いますよ。上ったり下ったり、登ったり下ったりだものね。二十六聖人はこの道を寒い中裸足で歩いたんです。12歳のルドビコ茨木という少年は、役人から帰りなさいと言われたのに帰らなかったそうですよ。さぞ、きつかったでしょうね〜。」

往時とは形が変わってしまった長崎港を目前に石段を下ったら、木々が茂る「銭座天満宮」の方向へと進んでみよう。浦上街道、最終地点“西坂の丘”まではあと少しだ。


<銭座>

越中先生
「下は海岸だったといいます。この先に行ったら『御船蔵町』。まさしく奉行所御用の船の蔵があったんです。この辺りには供養塔がたくさんあったんですけど、明治になって壊されました。ここに1つ残っていますね。230年ぐらい前のものですね。
生目天満宮というのもありますよ。」


<銭座〜御船蔵へ>


<供養塔>


街道の風情がかすかに残る道筋では、猫をよく見かけた。



越中先生
「ここには古い石垣が残されていますね。ここから西坂の丘が見渡せますね。二十六聖人はいったいどんな気持ちで通ったんでしょうね。このくらいの道が本来の街道でしょう。」



<西坂の丘を望む>



<古い石垣>

浦上街道は、西坂の丘で殉教した「日本二十六聖人」が通った道。豊臣秀吉のキリスト教禁止令によって京都や大阪などで捕らえられた6名の外国人宣教師と20名の日本人信者。長崎への道のりは、1597年1月10日(慶長元年11月22日)に大阪を出発、岡山や広島などの山陽道を経て、2月4日に彼杵宿に到着後、船で大村湾を横断。その日の夜遅く時津に到着した。船中で一夜を過ごした二十六聖人は、翌朝早く時津を出発。正午には西坂に到着し、処刑された。

越中先生
「処刑場は、浦上街道から見えていたそうです。また、二十六聖人記念館の庭に当たる場所は古地図では、『首塚』と書かれています。一説には島原の乱のとき天草四郎の首が葬られているというんですよ。そのためか、この通りには数々の供養塔があったんだそうです。」


<日本二十六聖人殉教地>

二十六聖人が聖なる足跡を残した道、浦上街道。今この道を辿ると、かつての地形や、町名の由来と共に、長崎が歩んできた歴史がひとつひとつ紐解かれていくような気がする。長崎街道に対する裏街道である浦上街道、ぜひ一度歩いてみよう。

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【浦上街道ってどんな道?】
【1.日本二十六聖人上陸の地〜打坂峠】
【2.本大橋〜西坂の丘】