「見えた!あれが長崎の町だ」
〜日見峠からの稲佐山を望む〜


長崎街道とは、かつて江戸と天領であった長崎を結ぶ要路で、小倉と長崎を結ぶ脇街道。出島和蘭商館医だったシーボルトや出島に輸入されてきたゾウまでもが歩いた道筋だ。今回は※旧茂木街道に引き続き、長崎の歴史のことならこの方! 長崎地方史研究家の越中哲也先生にナビゲーターを依頼。現在も往時の面影を留める街道筋を案内して頂きながら、長崎街道の歴史に迫ってみた。
※旧茂木街道/『越中先生と行く 旧茂木街道』

ズバリ!今回のテーマは
「物見遊山!長崎を目指した多くの先人達の追体験を試みる!」なのだ



出発地点・井樋ノ尾峠へのアクセスは次の通り。
●JR長崎駅からのアクセス
車/長崎駅前から国道34号線を諫早・多良見方面へ走り、「つつじが丘」の交差点を過ぎ、右手に『たらみ』のビルが見えてきたらその手前の道を右折、約40分。


越中哲也先生
プロフィール●
長崎地方史研究家。『長崎ぶらぶら節』に出てくる長崎学の第一人者・古賀十二郎氏の孫弟子にあたる。長崎歴史文化協会理事長を務め、地元のTVやラジオでも広く活躍する“長崎の顔”。長崎史や長崎を中心とした美術・工芸の研究と紹介に努めるかたわら、数多くの執筆や監修をしておられる。



まずは長崎街道について予習
押さえておきたい重要ポイント3


1.長崎街道って何? いつ? 何故できた?
長崎街道は東海道、中山道(なかせんどう)、日光街道、奥州(おうしゅう)街道、甲州街道の五街道に次ぐ脇街道のひとつ。正確にいえば豊前小倉(一説には大里)から長崎までを結ぶ道筋だ。
長崎は天領となり長崎奉行所が設置されたため、この街道筋は長崎へと続く要路だったのだ。また、寛永16年(1639)に鎖国令が出てからは、日本で唯一の海外へ開かれた窓へと続く道でもあった。


2.どんな時に利用された?
長崎奉行の交代、黒田(福岡)・鍋島藩(佐嘉/佐賀)などの長崎警固のための往来、※江戸参府のための往来、長崎に漂う異国文化の香りを求めた文人墨客、商人、芸人、蘭学を志した人々、そして維新の志士達などなど……様々な目的の往来者が行き来した。
(※江戸参府/出島和蘭商館長が江戸に上り、将軍に拝謁して献上品を贈って貿易に対する謝意を表す毎年の恒例行事。寛永10年(1633)に制度化。寛政2年以降は4年に1度になる。嘉永2年(1850)に廃止されるまでの218年間に116回行われた。片道約50日、江戸滞在も含めて120日に及ぶ大旅行になることもあったという。)


3.どんな人物が行き交った?
長崎街道が、他の街道に比べ異彩を放つ由縁は、往来者の顔ぶれにある。福沢諭吉、勝海舟、長崎奉行・遠山左衛門尉景晋(遠山の金さんのお父さん)といった現代に名を残す偉人達。また、江戸参府においては、出島和蘭商館長であるオランダ人や商館医のシーボルト、はたまた出島に輸入されたゾウやラクダもこの街道筋を歩いた。




今回の道のりは以下の通り。

◆長崎街道・物見遊山ドライブコース
 ・領境石(りょうざかいいし)〈井樋ノ尾峠下/いびのおとうげした〉
 ・旧本田家住宅(きゅうほんだけじゅうたく)※国指定重要文化財
 ・古賀の藤棚(こがのふじだな)
 ・福端寺(ふくずいじ)
 ・教宗寺(きょうそうじ)
 ・矢上宿跡(やがみしゅくあと)
 ・番所橋(ばんしょばし)
 ・腹切坂(はらきりざか)
 ・日見の宿跡(ひみのしゅくあと)

 ・芒塚句碑(すすきづかくひ)※県指定有形文化財
 ・日見峠(ひみとうげ)
 ・蛍茶屋跡(ほたるぢゃやあと)〈一の瀬口〉※市指定史跡
 ・古橋〈中川橋〉(ふるはし/ながごばし)※市指定有形文化財
 ・威福寺跡(いふくじあと)〈現在の桜馬場天満宮〉
 ・長崎街道ここに始まるの石碑


◆長崎街道コース(往復約4時間/見学時間含む)
長崎駅前(国道34号)〜領界石〈井樋ノ尾峠〉〜(長崎街道/県道〈明治新道〉/国道34号)〜長崎街道ここに始まるの石碑


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