1.領境石(井樋ノ尾峠下/いびのおとうげした)〜日見の宿跡(ひみのしゅくあと)


では実際に、長崎市内に残存する長崎街道の遺構を訪れる小旅行へと旅立とう。
今回のテーマは、「物見遊山!長崎を目指した多くの先人達の追体験をする!」な訳だから、スタート地点はかつての佐嘉藩領(佐賀藩領)と天領古賀村の境であり、現在は、長崎市と西彼杵郡多良見町との境に当たる井樋ノ尾峠下(いびのおとうげした)。主な移動は“車”を利用し、注意深く確認したい場所は“自らの足”でもって散策することにした。
それでは、往時誰もが夢見た異国文化の風吹く長崎の町を目指し、いざ、スタート!!


佐嘉藩領(佐賀藩領)と天領古賀村の領境だった井樋ノ尾峠下(いびのおとうげした)。ここには「従是東佐嘉領」と刻まれた領境石と、文学碑のような「長崎街道」の石碑が立っているが、往時ここは“お籠立場”だった場所。現在は長崎市と西彼杵郡多良見町との境に当たる。


 
ここから坂道を上ると長崎街道・小倉方面へ。

しばらく進むと峠の茶屋があった場所へと出た。

越中先生
「現在住居がある辺りに峠の茶屋があって、そこの名物はトコロテンだったそうですよ。」



ここにも周囲の緑に際立つ赤い文字で刻まれた「長崎街道」の石碑が立っていて、思わず先(諫早方面)へ進んでみたい気持ちにさせられる。


井樋ノ尾峠にある領境石の脇の矢印が示す「藤棚」の方向へと車を走らせる。
「藤棚」へと向かう途中、左手に案内板があるので注目。街道筋からは、はずれるが、山地にさしかかる街道を見下ろす高台に残る国指定重要文化財の旧本田家住宅へと足を伸ばしてみよう。

これは県下最古の民家遺構と考えられている建物。建築年代については記録が残されてはいないが、本田家は明和年間(1764〜71)にこの地に定住しているので、この建物もそれより時代が下がってもさして遠くはないと推定されているのだという。

越中先生
「昔はみんなこんな家ばかりでしたから、私達にとっては別に珍しくはありませんけどね。今では昔の農家の暮らしぶりがうかがえるいい材料ですよね。」


それでは街道筋に戻り、「藤棚」を目指そう。国道よりも1本手前が長崎街道。横断歩道のところから左折するとすぐ左手に「藤棚」が見えてくる。

「古賀の藤棚」とは、もちろん、5月に美しい花をつける藤棚のことだが、現在では日本三大人形に数えられる長崎土産、古賀人形の唯一の職人である小川家の通称でもある。


越中先生
「ここにはかつて茶屋があって、その前の大きな棚の上には長さ6間※、巾3間にも及ぶ藤の大樹があったそうです。そこで、「藤棚」の名前が茶屋につけらたんだそうですよ。現在の藤棚は、おそらく明治年間に整備されたものでしょう。幹はこんなに細いのによくこれだけも大きくなりましたよね。」
(※ 間(けん)=長さの単位。6尺、約1.8m)



せっかくなので、この藤棚の裏にある古賀人形を制作されている工場を覗かせていただいた。
工場内には、長崎の人ならどこかで一度は目にしたことのある“阿茶(あちゃ)さん”“西洋婦人”といった古賀人形の代表格が並ぶ。これらの人形は様々なエピソードがベースにあり生まれたということをご存知だろうか?
例えばシャモを抱く“阿茶さん”。中国貿易当時、とある貿易船役人が長崎の唐人屋敷に閉じこもり、シャモを飼って楽しんだのだという。屋敷に出入りしていた丸山遊女は、貿易船役人の相手がしたい、あのシャモになりたいと願い、遊女達はこの古賀人形の“阿茶さん”を多く求めたのだというのだ。また“西洋婦人”は、当時商館長以下全員が単身赴任が掟だった出島和蘭商館に、前代未聞! 家族同伴で来日して大評判となった商館長・ブロンホフ夫人がモデルとなったものだ。




越中先生
「今も昔も一から手づくり。全国から注文が殺到し、約1年から2年は待たなければ手にできないのだそうですよ。」

しかし愛らしい小物は、工場で購入することもできるというからぜひ立ち寄ってみたいものだ。

さて、「古賀の藤棚」を後にしばらく車を走らせる。それにしてもさすが植木の町・古賀! 沿道の家々に、手入れの行き届いた植木や、石垣の石と石の間に美しく配したツツジなどの花々を楽しむことができる。




右手に福瑞寺(ふくずいじ)の鐘鼓楼が見えてきた。


福瑞寺の本堂横には、側面に花十字が刻まれた大きなキリシタン墓碑がある。


越中先生
「これは不思議なことに、キリスト教が古賀の村に入ってくる前のお墓の跡なんですよ。花クルスが入ってますよね。隣にあるのは仏教徒のお墓。いくつかの墓石を集め積んだもので五輪の塔というんですが、これが埋めてあったのを壊しこのキリシタン墓碑を造ったんです。だから、ここには、はじめ仏教があったんですね。このキリシタン墓碑には年号が入っていませんけど、だいたい400年前、そしてこちらの五輪の塔が約500年前のもの。古くは仏教があって、キリスト教の時代が約50年あって、その後ここは、このお寺になったんです。長崎のキリスト領だった時代の遺物は全く残っていないので、この墓碑が残っているのは貴重なんですよ。」

福瑞寺の本堂前で通称“瓶洗い”、金鳳樹(きんぽうじゅ)というタワシのような赤い花をつけた珍しい木を見つけた。さすが植木の町。


八郎川に架かるいくつかの橋を渡り長崎街道の風情を楽しむ爽快ドライブコースを走り抜ける。

進行方向左手の草むらの中にポツリと石碑が立っていた。

越中先生
「『従是南佐嘉領』。これまでは旧大村領古賀村地。ここから先は佐嘉領(佐賀領)という、これも領境石ですね。」



領境石の近くには、ほかに奈良時代に実在した“役の行者(えきのぎょうしゃ)”という修験道の祖とされている人物を祀る「役行者神社」があった。
それにしてもこの道筋は狭い道なのに意外に多くの車が結構なスピードで通る。途中車を止めて見物する際は充分に気をつけよう。

もう少し進むと、沿道に長崎街道時代を彷佛とさせる大木が大切に残されていた。この辺りには数本の巨木が見られ、なかでも暖地の海岸近くに多く見られる樹木・栴檀(せんだん)が目立つ。初夏には淡紫色の無数の小花をつけ、風情ある通りに咲き誇るその美しい姿に足を止める人も多いという。


この栴檀の木々を通り過ぎると長崎街道は、八郎川沿いへと移動する。左手に見える矢上浄水場を通り過ぎたところで、八郎川に架かる長龍橋を渡り国道34号線を横切った通りへと入って行く。これが長崎街道。まずは交差する一本の道筋を右折して慶長12年(1607)開山、浄土真宗本願寺派の教宗寺(きょうそうじ)へと向かおう。

越中先生
「このお寺は文政9年(1826)、江戸参府のため早朝に長崎を出発したシーボルト一行が昼食をとったお寺なんですよ。シーボルトはこの玄関から入ったそうですが、広間にあったテーブルと椅子を見てこのような西洋風な暮らしをしているということにとても驚いたそうです。もちろんシーボルトはこの椅子に座ったそうですよ。現在あるものは、当時と同じデザインのものをインドネシアで造らせ復元したものです。シーボルトはこちらの庭園を見せていただき、ひどく気に入っていたといいます。」






では先程の道筋へと戻ってみよう。
この辺りが矢上宿跡(やがみしゅくあと)。矢上神社の前に「長崎街道 矢上宿跡」の石碑が建てられている。
矢上宿は往路の最初の宿場であり、帰路の最後の番所だったため、それ相応の設備や対応が求められたことを察することができる。戸数200余り、旅籠(旅館)11軒、売店10軒、※駕籠(かご)100丁余り、※駅馬(えきば)48頭、酒造屋7軒とかなりの規模だったという。
(※駕篭/竹でできた乗物。人が座る部分の上にゆるい曲線をした馬車の梶棒を1本通し、前後から担いで運ぶもの。※駅馬/律令制で、駅に用意しておいて官用に供した馬。)
越中先生
「今残っているのは諫早藩役屋敷の建物だけになってしまいました。ここには佐嘉藩(佐賀藩)諫早領主が家臣を派遣、堀を巡らせて睨みを利かせたといいます。」

建物は明治7年(1874)に改築、庭園だけが昔の姿を留めている。

越中先生
「それから長崎街道として整備され、番所が設置された跡に石碑が残っているのと、その向いにある番所橋。そのくらいですね、残っているのは。この辺りは本当に何もなくなってしまいましたね。」



※八郎川の支流である中尾川には、天保9年(1838)、長さ16m程の眼鏡橋が架けられた。しかし、慶応3年(1867)に洪水で流失し、普通の橋に架け替えられ、「番所橋」という名前だけが残ったのだという。
(※八郎川/全長9.2km、東長崎の“母なる川”。諫早市久山町と界を接する井樋ノ尾岳を源流とし、8支流が合流して矢上を貫き、橘湾に注いでいる。)

では、国道34号線に戻り、長崎市街地の方へと車を走らせ、日見の宿跡へと向かおう。
網場入口の交差点を左折、日見の町へと入って行くのだが、実はこの辺りの坂は腹切坂(はらきりざか)というのだという。

越中先生
「実際に腹を切ったという伝説がいくつかあるんですよ。(笑)でも実際は、ほら後ろを見てください。あのガードレールがある辺りですが、山の中腹に道をつくるために切り開いているでしょ? あれは矢上から続く長崎街道。山の中腹を切っている、だから腹切坂というんですよ。」


下る坂道の脇にポケットパークがあり、説明板と、伝説にまつわる腹切坂墓碑があるので伝説についてはそちらをご覧あれ。


それでは、日見の町へと入って行こう。坂を下ったら正面にはスーパー。そこを右折してすぐに左折。この角の靴屋さんの店頭に日見の宿跡(ひみのしゅくあと)の石碑が立っている。

越中先生
「ここは諫早、矢上方面から長崎へ向かう人々が最後に身づくろいをした場所です。また、長崎を旅立った人は日見峠の難所を越え、馬共々ここでひと休みしたんですね。」


この通りのかなりの傾斜がある坂道を上って行く。途中右手にかつて大きな藤棚があり、その下にバンコを置きお茶を出した「日見継ぎ場跡」があった。現在は案内板のみが設置されているだけなのだが。

坂を上りきり今上った坂道を振り返る。すると先程の山の中腹を切り開いた道筋とかつて宿場だった日見の町を見下ろすことができる。

この道を右折し数十mゆっくりと走る。


古くからのものと思われる石垣がそこここに残っている。
今も生活道路として利用されている街道筋を通っていると、かつて行き交った人々の姿が浮かんでくるかのようだ。

越中先生
「この辺りの道筋は、私は風情があって好きなんですよ。」

右手に下り坂が見えてきたらここを下りしばらく川沿いを走る。そしてこの川を渡り左折。
もう一度川を逆方向へ渡り(左折)上って行くと、国道34号線へと出る。途中、車が通れない道が一筋通っている、これが長崎街道だ。


果実に袋がかぶせられたビワの木畑、日射しを遮り道に色濃い陰を落とす木々、そして高低様々な石垣。


旧日見宿の辺りから今も長崎街道の名残を見せる道筋が残る界町の曲がりくねった道を車で通り抜けて行く。
初夏の風が窓から入り込んでくる。
途中、振り返るとビワ畑越しに今通ってきた道筋、そしてかすかに海が見えた。



長崎街道コボレ話
●かつて古賀村には城があった!?

旧古賀の藤棚から福瑞寺へ向かう途中に、かつて実家がこの辺りにあったという本田さんという方にお目にかかり、付近の知らざる歴史について話をうかがった。
本田さんによると、福瑞寺の向かいにそびえる山の中腹には1550年代に城があり、その名残が地名に反映していたのだという。昔、この山の辺りを城山(しろやま)、この辺の部落を館(たち)といい、その城の登り口を城首(じょんくび)、それからずっと上ったところに中島という地名があり、そこには堀があったのだという。それからまた少し上って隣の山との谷間が城の迫(しろのさこ)。その先を“べんとう”といい、本田さんは“別棟(べっとう)”の訛りではないかと推測しておられた。
城があったと思われる場所に、現在は特別養護老人ホームがあるが、造成前に本格的な遺跡の調査はしていなかったそうだ。しかし、たまたま工事関係者だった本田さんのご友人に話を聞いたところ、そこには広場があり、なんと別棟へと繋がる抜け道が発見されていたのだそうだ。越中先生もはじめて聞いたという新情報!にびっくり。


大村在住の本田忠臣さん
〜城跡を背景に〜


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