長崎は古くから様々な国との交流を持つ“歴史ある町”。だけど、そんな海外と交流を持つ以前はどんな所だったのだろう? 今回はそのヒントを探す旅! これまでにも長崎市内の街道を共に歩き紹介くださった越中先生と、現在も往時の面影が残る長崎の町の原点を訪ね歩いてみよう。


ズバリ!今回のテーマは

「長崎はここからはじまった!」 なのだ



※御崎道(みさきみち)、茂木街道、長崎街道、浦上街道。ナガジン!では、これまでに越中先生と歩く街道シリーズを展開してきた。先人達が目的を持って切り開いてきたこれらの街道沿いには、数々の祠(ほこら)や供養塔、神社仏閣が点在し、今も人々が行き交っていた往時の情景を彷彿とさせた。さて、そんな長崎市内に残る街道の紹介も一通り終了。今回は時代を更にさかのぼり、長崎の開港以前、いわば現在の長崎の原点と呼べるエリアを越中先生にご案内いただこう。

※御崎道(バックナンバー 2005.2月)
※茂木街道(バックナンバー 2004.2月)
※長崎街道(バックナンバー 2004.6月)
※浦上街道(バックナンバー 2005.11月)


出発地点・諏訪神社前電停付近へのアクセスは次の通り。
●JR長崎駅からのアクセス
路面電車/長崎電停から蛍茶屋行きに乗車し、諏訪神社前電停まで約10分。
県営バス/長崎駅前東口バス停から網場、東長崎方面行きに乗車し、諏訪神社前バス停まで約12分。
車/長崎駅前から約8分。

越中先生
プロフィール
長崎地方史研究家。『長崎ぶらぶら節』に出てくる長崎学の第一人者・古賀十二郎氏の孫弟子にあたる。長崎歴史文化協会理事長を務め、地元のTVやラジオでも広く活躍する“長崎の顔”。長崎史や長崎を中心とした美術・工芸の研究と紹介に努めるかたわら数多くの執筆活動や監修を手掛けておられる。


まずは、長崎開港時の長崎について予習

開港前後の人、風景、に思いを馳せて
長崎という地名は、戦国時代末期までは今の諏訪神社辺りから長崎県庁(長崎港)へ長い岬が突き出していたため、長崎弁でいう“長か(なんか)みさきのあるところ”から「ながさき」という地名となったという説と、室町時代に移住してきた豪族・長崎氏(永崎氏)から名づけられたという2つの説がある。長崎氏が居城を構えていた地を、長崎市街、東の奥にそびえる烽火山から城越(しろんこし)へと連なる丘にある「焼山(やけやま)」という。焼山の地名から察することができるように、室町時代、周辺には浦上氏、戸町氏、福田氏、深堀氏、矢上氏、古閑(賀)氏という豪族がいて、それら近隣の豪族の中でも大村地方を治めていた大村氏、島原地方を治めていた有馬氏が有力だった。そしてこの有馬貴純の三男は、長崎氏の養子となり、その孫にあたるのが、長崎甚左衛門純景。元亀元年(1570)、長崎開港時の領主・日本初のキリシタン大名であった大村純忠の娘を妻とし、自らもキリスト教徒に改宗した。
開港を皮切りに長崎の町には、すでに平戸などに入港していたポルトガル船が来航するようになり、翌元亀2年(1571)から本格的な南蛮貿易がはじまった。純忠は、町建てを行い、6町※(横瀬浦町、平戸町、外浦町、大村町、文治町、嶋原町)を誕生させ、さらには貿易の利益を独占するためにイエズス会にこの6町を寄進。以降、長崎の町はキリスト教布教の拠点となり、長崎の町なかには次々に教会が創建されていった。
※現在の長崎県庁から市役所通りあたりに分布していました。


今回の道のりは以下の通り。

◆コース全行程(約2時間/徒歩&見学時間含む)
・ 月桂山 光雲寺(げっけいざん こううんじ)(出来大工町)
・ 桃渓橋(ももたにばし)(出来大工町)
・ 長崎聖堂跡(伊勢町)
・ 中島天満神社(伊勢町)
・ 上野彦馬宅跡(伊勢町)
・ 紅葉橋(伊勢町--伊良林1丁目)
・ 桜馬場天満神社(旧威福寺/きゅういふくじ)(桜馬場2丁目)
・ 織部神社(夫婦川町)
・ トッポ水(夫婦川町)
・ 倉田水樋水源跡(伊良林1丁目)
・ 赤子塚(巍巍山 光源寺/ぎぎざん こうげんじ)(伊良林1丁目)
・ 謎の?石垣(伊良林1丁目)


●地図はこちら


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