長崎は古くから様々な国との交流を持つ“歴史ある町”。だけど、そんな海外と交流を持つ以前はどんな所だったのだろう? 今回はそのヒントを探す旅! これまでにも長崎市内の街道を共に歩き紹介くださった越中先生と、現在も往時の面影が残る長崎の町の原点を訪ね歩いてみよう。
ズバリ!今回のテーマは 「長崎はここからはじまった!」 なのだ
開港前後の人、風景、に思いを馳せて 長崎という地名は、戦国時代末期までは今の諏訪神社辺りから長崎県庁(長崎港)へ長い岬が突き出していたため、長崎弁でいう“長か(なんか)みさきのあるところ”から「ながさき」という地名となったという説と、室町時代に移住してきた豪族・長崎氏(永崎氏)から名づけられたという2つの説がある。長崎氏が居城を構えていた地を、長崎市街、東の奥にそびえる烽火山から城越(しろんこし)へと連なる丘にある「焼山(やけやま)」という。焼山の地名から察することができるように、室町時代、周辺には浦上氏、戸町氏、福田氏、深堀氏、矢上氏、古閑(賀)氏という豪族がいて、それら近隣の豪族の中でも大村地方を治めていた大村氏、島原地方を治めていた有馬氏が有力だった。そしてこの有馬貴純の三男は、長崎氏の養子となり、その孫にあたるのが、長崎甚左衛門純景。元亀元年(1570)、長崎開港時の領主・日本初のキリシタン大名であった大村純忠の娘を妻とし、自らもキリスト教徒に改宗した。 開港を皮切りに長崎の町には、すでに平戸などに入港していたポルトガル船が来航するようになり、翌元亀2年(1571)から本格的な南蛮貿易がはじまった。純忠は、町建てを行い、6町※(横瀬浦町、平戸町、外浦町、大村町、文治町、嶋原町)を誕生させ、さらには貿易の利益を独占するためにイエズス会にこの6町を寄進。以降、長崎の町はキリスト教布教の拠点となり、長崎の町なかには次々に教会が創建されていった。 ※現在の長崎県庁から市役所通りあたりに分布していました。
今回の道のりは以下の通り。 ◆コース全行程(約2時間/徒歩&見学時間含む) ・ 月桂山 光雲寺(げっけいざん こううんじ)(出来大工町) ・ 桃渓橋(ももたにばし)(出来大工町) ・ 長崎聖堂跡(伊勢町) ・ 中島天満神社(伊勢町) ・ 上野彦馬宅跡(伊勢町) ・ 紅葉橋(伊勢町--伊良林1丁目) ・ 桜馬場天満神社(旧威福寺/きゅういふくじ)(桜馬場2丁目) ・ 織部神社(夫婦川町) ・ トッポ水(夫婦川町) ・ 倉田水樋水源跡(伊良林1丁目) ・ 赤子塚(巍巍山 光源寺/ぎぎざん こうげんじ)(伊良林1丁目) ・ 謎の?石垣(伊良林1丁目) ●地図はこちら
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