下流は出島和蘭商館跡の方へと流れ着く中島川。この川が、長崎の母なる川といわれるのは、元亀元年(1570)の長崎開港から出島が置かれた鎖国時代、貿易のための水運利用によって、長崎の町の中心となっていったからだ。長崎港内に停泊した外国船からの荷揚げは小舟に小分けされて中島川をさかのぼり、町ごとに陸揚げされて商いが行われていた。開港以前の長崎を訪ねる前に、開港後の中心地、中島川の上流ののどかな散歩道を歩いてみよう。
 

1. 昔の風景を思い浮かべて〜中島川沿いを歩く
(月桂山 光雲寺〜桃渓橋〜長崎聖堂跡)

まずは諏訪神社前電停の正面、買い物客で賑わう新大工商店街を背にした方向へと歩いて行くと、これまで道路だと思っていた場所が、橋であることに気づく。中島川と、その上流にある西山川(堂門川)の合流地点に架かり、今では国道34号線と一体化しているこの橋は、昭和9年(1934)に架設された鎮西橋だ。この橋のたもと、国道側から見ると交差点の角にレンタカーショップが入ったビルがある。このビルの脇の小径を中島川に沿って少し進むと、意外な景色が目に飛び込んできた。

越中先生
「ここに珍しいお寺があるので寄ってみましょう。」


なんと!さっきのビルの裏側にあたる場所に、お寺の門があったのだ。この寺院は、月桂山 光雲寺。寺地が道路拡幅によって縮小したため、現在はビルの3階にあるが、昭和40年代頃までは国道側に山門を構えりっぱな伽藍(がらん)の寺院だったという。



<古写真>

越中先生
「門の入口に古い橋の欄干がありますね。階段を上がってみましょう。ここに大きなお地蔵様があります。このお地蔵様は、“ト意(ぼくい)地蔵”といって、中島川に架かる伊勢町と出来大工町を結ぶ桃渓橋を架設したお坊さんの名前がついています。入口の古い橋の欄干は、桃渓橋の一番はじめの欄干だったんですよ。だんだん、四角の欄干になってきますからね。この地蔵様は、ト意和尚の功績を讃える意味で民衆がお金を集めつくったもので、かつては桃渓橋のたもとにあったんですが、明治になって神仏混淆禁止令が発令され一度棄てられたそうですよ。でも近くにお寺さんがあったのでここに祀られるようになったんだそうです。」



<光雲寺入口>


<ト意地蔵>

それでは、光雲寺の本堂へ。

越中先生
「こちらの仏様は中国の明時代中期、南の方の仏様で、当時日本の人が見たことないような姿形をしておられて、日本にある中国から来た仏様の中でも一番尊い仏様なんですよ。それはなぜかというと、寛文3年(1663)に、火事に遭って傷んだために京都に修繕に出されたんです。その時に後水尾上皇がお参りになって、“こんなに尊い仏様はありません”とおっしゃったので、全国的に評判になったんですね。だから、長崎の人は必ずここへお参りに来ないといけませんよ、といわれていたんですよ。こちらのお寺には、後水尾上皇が拝見されたお手紙が残っているんですよ。」

<越中先生とご住職>


<光雲寺・釈迦如来像>

この光雲寺のご本尊(釈迦三尊像)に関しては、前回の特集『一度は拝みたい! 長崎の価値ある仏像』でも紹介しているのでチェックしてみよう!

越中先生
「そして、ここでもうひとつお参りさせていただきたいのは、十六羅漢像です。戦時中に多くは失われてしまっていますけれど、今、5体残っているそうです。江戸初期の長崎の代表する鋳物師、赤星一族の赤星宗徹という人の作品で、これは日本の細工ではなくて、中国からきた細工、鋳物の製法で、“唐伝(とうでん)の鋳物師”というんですが、それが長崎の鋳物の特徴なんです。これもお参りできたらいいですよね。」

<十六羅漢像>
光雲寺を後にして、左手に中島川を見ながら進むと、すぐにト意和尚さんが延宝7年(1679)に架けた橋、桃渓橋が見えてきた。

越中先生
「ここははじめは“ト意橋”といったんです。後にはこの橋を桃渓橋といっています。それはこの橋の両側に桃の木があったからなんですよ。」



<桃渓橋>

桃渓橋より下流に架かる石橋群は洪水で何度も流失したが、この橋は一度も流されたことがなかった。残念ながら昭和57年(1982)長崎大水害の際に半壊し、復元された。橋を渡った左側には、先程お参りしたト意地蔵が以前祀られていた痕跡が残っていた。


<ト意地蔵の痕跡>

桃渓橋を背に、今度は右手に中島川を見ながら進んで行くと左側に、長崎三社の一つで長崎神前結婚式のはじまりといわれる伊勢宮がある。そしてその先、ビルの片隅にひっそりと石碑が建っているのが見える、“長崎聖堂跡”。ここは、長崎聖堂、つまり正徳元年(1711)に再建された孔子廟があった場所。その長崎聖堂とは、はじめ正保4年(1647)、東上町(現在の上町)に儒者・向井元升(げんしょう/松尾芭蕉の門弟、芭蕉十哲のひとりである向井去来の父)が開いた儒学の学問所のことで、当初は“立山書院”といっていたがに中島川河畔に移転してからは中島聖堂と呼ばれるようになった。長崎聖堂、立山書院、中島聖堂は全て同じなのでご注意を!

越中先生
「今はもう何も残っていません。石碑があるだけです。ただ、現在はその遺構である中島聖堂大学門と大成殿の一部が興福寺の境内に保存されていますね。」






<長崎聖堂跡>


2.変わったモノと変わらないモノ〜かつての中島川風景
(中島天満神社〜上野彦馬宅跡〜紅葉橋)
立山書院が中島川河畔に移ってきて“中島聖堂”と呼ばれたように、中島川沿いにあれば、中島の名がついたようだ。中島聖堂が移転する前、その地にあったのは、鄭成功(ていせいこう/中国人貿易商と平戸の人を母とした平戸生まれの英雄)に頼まれて、唐貿易で使用する「元豊通宝」を鋳銭した“中島銭座”。それでこの辺りの川を銭屋川といった。なるほど!それで前の橋名が“銭屋橋”だというのも納得だ! そして現在、その聖堂跡の隣地には中島天満神社がある。

<中島天満神社>

越中先生
「ここは、明治になるまでは“臨川院(りんせんいん)”というお寺だったんですよ。ほら、右上のアパートがあるでしょう? その辺りまで、お寺の一角だったんです。この辺りの川の真ん中には当時中州のような島があったから中島といっていたんですね。それで明治になって中島天満神社となったんです。そして、その臨川院で売り出したのが、桜餅です。当時“臨川院の桜餅”といって、桜餅が旨かったんです。長崎は砂糖の本拠地でしょ。美味しい砂糖でできた桜餅をみんなここまで食べに来ていたんですよ。」

当時の人々が、長崎のはずれにまで食べに来ていた“臨川院の桜餅”。川を眺めながら食べる桜餅はさぞ美味しかったことだろう。


<中島川>

越中先生
「大正時代になって、大分の廣瀬さんという方がこの土地を買って家を建てられたんですが、その廣瀬家の庭園の中に、中島銭座時代にお金を磨いた“銭磨き石”が残っていたんですけど今はどうでしょうか? 今もあるかもしれませんね。そして、廣瀬さん宅の隣が上野彦馬の家跡ですね。」



<上野彦馬宅跡>

上野彦馬(うえのひこま)は、日本初期のカメラマンで、横浜の下岡蓮杖(れんじょう)と共に、日本写真の開祖と呼ばれる人物。幕末の志士や外国人居留地に住む外国人達も数多く撮影している彦馬だが、なんといっても有名な一枚は、袴姿にブーツを履いた坂本龍馬の肖像写真。龍馬ファンならずとも誰もが一度は目にしているあのショットは彦馬によるものだ。

越中先生
「今、ここには上野彦馬宅跡という記念碑がありますが、元々は彦馬のお父さんの火薬を作る精錬所だった場所です。それを譲り受けて、後に彦馬が写真館(上野撮影局)にしたんですね。」

そして、この地に上野撮影局を開設してから20年後の文久2年(1862)、家屋を新築した彦馬は、採光のために天井をガラス張りにした洋風のスタジオを設置。この頃には一般庶民の利用客も増え、このスタジオは「ビードロの家」と呼ばれ親しまれていた。

越中先生
「この上野彦馬宅跡の向かいの橋、紅葉橋(もみじばし)は、彦馬と恋仲だった紅葉さんという人の名前がつけられているんですよ。」



<紅葉橋>

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