開港以前、町の中心であったといわれている夫婦川・桜馬場周辺。江戸時代に長崎街道を通り訪れた旅人や、シーボルトも歩いたこの界隈は長崎で最も古い歴史ある町なのだ。その証拠の一つに、現代に残る地名がある---『西山』そして『西坂』。果たしてそれは何故? そのクエスチョンを抱えつつ、いよいよ開港以前の長崎の面影が残る地へと越中先生にご案内いただこう。

3.開港時の遺構に出会う道〜夫婦川から桜馬場を歩く
(桜馬場天満神社〜織部神社〜トッポ水)
上野彦馬宅跡横の道を国道34号線へ抜け、横断歩道を渡ってシーボルト通りと呼ばれる通りへ向かう。20m程進むと、左手は新大工商店街、右手は桜馬場、鳴滝へと続く交差点へと出る。そして、その桜馬場方面へ向かう角に一つの石碑が建っている。
<長崎街道の碑>

越中先生
「私達は今、長崎の町を離れてシーボルトも歩いた“シーボルト通り”にいます。新大工町までは旧長崎の町でしたが、ここから右へ行くと長崎村字桜馬場郷です。ここには“長崎街道ここにはじまる”という碑が建てられています。つまりここは、江戸時代、江戸へと続く街道の起点となったところですね。この石碑の字は、前の市長さん、本島等さんに書いていただいたものなんですよ。この道をシーボルトが歩いたのは事実で、シーボルトはこの先にあるお寺の中で休み、お昼ご飯を食べたと著書『江戸参府紀行』に記しています。そのお寺というのが真言宗の威福寺(いふくじ)というお寺でした。」

出島の和蘭商館医として来崎したシーボルトは、江戸に上り、将軍に拝謁して献上品を送り貿易に対する謝意を表す商館長の毎年の行事(のちに4年に1度)である江戸参府に同行した。当時の威福寺は、江戸へ向かう際はここで別れの宴と旅支度を改め、帰途の際は、旅装を解く重要な場所だったそうだ。


<桜馬場天満宮>

越中先生
「威福寺は、長崎に初めて天満宮を持ってきた場所でもあります。昔はお寺とお宮と一緒にあったんですね。だから諏訪神社よりも古いお宮だったんですよ。そして、明治になってここでも神仏混淆禁止令によって神様と仏様を一緒に祀れなくたったので、桜馬場天満宮となったんです。シーボルトの時代はお寺でしたが、この界隈はそれ以前、長崎の城下町だったんです。さて、私はこの天満宮の中にあるモノを見つけましたのでご案内しましょう。」

隣のビルの壁面を削ってまでいかされた鳥居をくぐり抜け、すぐ左にある階段を下り、天満宮を取り囲む石垣に注目!


<威福寺跡の石垣>

越中先生
「私がこの威福寺を調査しているときに、いろいろみつけたんですが、一つはこの石垣の中にキリシタン墓碑がでてきたんです。ここに石垣を作った年号が書かれているんですが、この石垣を作るときに、キリシタンの墓を壊してはめ込んだんですね。長崎の町ではよくありますよ。それが2つもあるんですよ。」

確かにこれは以前目にしたことがあるキリシタン墓碑の形。裏返った形で石垣にきれいにはめ込まれている。そして、石垣をよくよく見てみると、時代によって、石の種類、積み方に違いがあることがわかる。


<キリシタン墓碑>

越中先生
「そして、今はこの辺りを夫婦川(ふうふがわ)といいますが、昔は雄雌泉で(めおとがわ)といっていたんです。そこで、当然どっかを中心にして、男と女があるはずだと思い探したら、この天満宮の後ろに男の泉(雄川)があったんですよ。水は生活に必要不可欠でしょう。そして道を挟んで向こうの方に女の泉(雌川)があるんです。男の泉は下から吹き出し、女の方は穴から水が出ているんです。穴のことをトッポというから女の泉の方は“トッポ水”と呼ばれていますね。昔は、向かって右の方が上位だったので男、左が女だったんです。今は違いますがお雛様でもお内裏様が右だったんです。」

“雄雌泉”は、『長崎地名考』にかつては斉道寺という寺の境内にあったとある。現在、雄川には金魚が放たれた池といった風貌だが、かつてはとても清冷な味で寛永年間、外国に渡る人々は必ずここの水を汲んでいったとも記されている。


<雄川>

<雄川の金魚>
越中先生
「男の泉の横には織部神社があります。ここは、寛永4年(1627)に没した長崎甚左衛門純景の弟である長崎織部亮為英を祀った神社なんですよ。ここを調べていたらキリスト教になる前の時代の五輪の塔が出てきたんです。長崎がイエズス会領になる前の遺跡です。だからこの辺りが城下町だということになるんです。」



<織部神社>

織部神社を跡に更に奥へと進んで行く。すると右手のアパートの片隅に、長崎の漢学者で長崎県政の基礎作りにも貢献した西道仙(にしどうせん)が記した長崎織部亮為英の祀記碑が整然と建っていた。アパートとのバランスからいってなんとも不思議な光景。そういえば先程通った桃渓橋の親柱に刻まれた橋名の文字も、この西道仙によるものだ(その他、眼鏡橋、袋橋にも西道仙の文字が残されている)。


<長崎祀記碑>

しばらく進むと、細いながらも四方に道が延びる地点へ出る。緩やかな坂を真っ直ぐ進むと“雌川”であるトッポ水だ。トッポ水は、正確には“独鋸(どっこ)”といって、昔この地に立ち寄った弘法大師が、水に困った民衆のために持っていた独鋸で地面を突いたら清水が湧き出したという伝説が残っている。

越中先生
「この左右に延びた道が長崎甚左衛門純景の館(たち/屋敷)へ向かう街道です。西山が本通りだったんですね。そしてその西山からの道がここにくるんです。つまりこの辺りがかつて栄えた町の中心で、そこを中心にして男と女があれば、その間の真ん中の道が長崎氏の館へ行く道だということになんですね。だからこの右の突き当たり、正面が長崎氏の館だったわけです。今の桜馬場中学校の横門にあたります。昔の本を読むと、“いわゆる新道をつくり日見に行く……”と書いてあります。つまりここが本通りで、今の国道34号線が新しい道だったということをいっているんです。」

それでは、このかつて本通りを長崎氏の館があった現在の桜馬場中学校方面へと歩いてみよう。


<かつての本道>

越中先生
「この石垣なんかも古い石垣ですね。よく残っていましたね。そして、上へ行った所、現在の春徳寺の場所に教会ができたんです。長崎の港が開ける前、永禄10年(1567)のことです。トードス・オス・サントス教会。正面は館だったわけですから道はありません。今ある道は新しくできた道です。当然この教会へ行く別の道がないといけませんよね。それがこの道です。あそこに大きな木があるでしょ。あれが春徳寺の入口にある大クス。春徳寺の場所に教会があったことがなぜわかったかというと、昭和の初め頃、春徳寺の本堂を改修したときに大理石の板が出てきたんですね。最初は知らなくて洗濯石に使っていたそうですよ。」


<昔の石垣>

春徳寺は、長崎甚左衛門純景が居城近くの菩提寺にしていた寺をイエズス会に寄進し、その場所に建てられた長崎初の教会、トードス・オス・サントス教会跡。現在、この大理石の板は寺院内の墓域に通じる裏門の横にある外道井(げどうい)と呼ばれるキリシタン時代の古井戸の横におさめられている。教会時代の面影を残すのは、この大理石の板と外道井、そして、さっき道下から眺めた大クスだけだ。


<大クス>

越中先生
「この正面が当然、館の入口にだったわけですよね。そう思って調べていたら昔の石垣が出てきたんですよ。新しい石垣と古い石垣、この自然石が古い石垣なんです。坂の下の方の石垣はコンクリートで固められているでしょう? あそこにもかつては自然石があったんですよ。だからこの辺りが正門だったんでしょう。」



<館の正門>

開港時代の長崎の領主、長崎甚左衛門純景が生きた時代の遺構が未だここに残されているという事実に、なんだかとっても興奮!

越中先生
「ここは本来、城ではなく長崎甚左衛門純景の“館(たち)”といって住まいだったんです。戦争の時はもっと高い場所にある城に逃げていくんですよ。その後、江戸時代から明治にかけて代々森田家が長崎村の庄屋職を勤め、ここを住まいとしたんです。ホラ!ここにも壊れた跡があるでしょう? 石垣も築きなおしているんですよね。そして、教会があった跡とかがあるから、この辺りが城下町だということがわかるんですね。そして、他の記録によると、教会の近くを拓いて煙草を植えて“桜馬場煙草”といったと記録が残っているんですよ。はっきりした場所はわかりませんがね。昔ここは馬場郷といいました。」

春徳寺通りとシーボルト通りの交差する場所に一つの石碑が建っていた。

越中先生
「“不許葷酒入山門(許さず葷酒山門に入るを)”。おそらくここが春徳寺の入り口だったんでしょうね。タマネギなど、生臭いものやお酒を持ってお寺へ入ったらいけませんよ。と書いてあるんです。」



<不許葷酒入山門の碑>

春徳寺通りの坂を下りシーボルト通りに出ると、右手に明の終わり頃の中国の仏様を祀った観音堂がある。

越中先生
「ここはとってもお参りする人が多いですよ。」

周辺の住民に親しまれた観音様なのだ。そして、左正面の場所には、明治まで、庭が美しい雲龍寺という寺があり、春徳寺の14代住職であり、長崎三大画家の一人である南画の大家・鉄翁禅師がここで文墨を楽しんだのだそうだ。その庭に桜の木があったため、馬場郷とこの桜で、おそらく桜馬場というようになったのだろう。では、観音堂横の脇道を通り電車通りへと出よう。

<観音堂>

越中先生
「この新道は寛文年間、1640年頃にできた道で、すると次に日見峠ができるわけ。諫早に行くにしてもよその道を通って行けないから徳川家の力をもって新しい道を拓いていったんですね。この伊良林小学校の前、今は電車通りになっている場所は、昔、高木代官の軍隊の教練場だったんですよ。その後私達の時代は体操場で“中島体操場”といっていました。」


<中島体操場跡>

左手にある丸川公園には、長崎の港を開いたキリシタン大名・大村純忠と長崎甚左衛門純景の記念碑“長崎開港先覚者之碑”が建てられている。


4.再び中島川沿いへ〜謎の石垣の真実が明らかに?
(倉田水樋水源跡〜赤子塚〜謎の?石垣)
若かりし日の越中先生が体操をしていた“中島体操場”(電車通り)を横切り、伊良林小学校横の道へと入って行こう。再び、中島川の支流が流れるのどかな散歩道へと戻ったら、さっき歩いた道の対岸を緩やかに流れる川に沿って進んで行く。

<中島川対岸>

越中先生
「伊良林から矢の平、彦見町までを伊良林郷といって、島原からの船が今は茂木に着きますが、昔は飯香浦(いかのうら)に着いていたんです。それから上がって彦山の後ろを通って伊良林に出てきていたんです。それから蛍茶屋まで歩いて諫早方面や長崎方面に行くんです。その道を本道といっていたんです。当時は橋がないですからね。当時は、伊良林の辺りを“宿(しゅく)”といっていたんです。宿というのは“宿場”という意味ですが“広い所”という意味もあるんです。それで馬が来るでしょう?だから今の八幡町辺りを馬がいるところという意味で馬喰町(ばくろちょう)といっていたんですよ。今は何もありませんけどね。」

先程通った長崎聖堂跡(中島銭座跡)の正面、銭屋橋と阿弥陀橋の中間、寺町側にあるのが“倉田水樋水源跡(くらたすいひすいげんあと)”の石碑。生活用水に困っていた市民のために、当時の本五島町の乙名だった倉田次郎右衛門が私財を投じて布設した水源跡だ。


<倉田水樋水源跡>

越中先生
「ここは昔、水神様があったんです。ここは倉田水樋といって、延宝年間ですから今から350年ぐらい前、長崎には水道がなかったんですよ。そこで水道を作った水源地のことを、“倉田さんが作った水おけ”という意味で、倉田水樋といったんですね。私が子どもの頃は確かにありましたよ。今は何もありませんが記念碑が残っています。この溝になっているところは、若宮川という川だったんですよ。この中島川と若宮川の間にあったため池を倉田水樋にしたわけです。それが長崎市内の水道の元になったんですね。それで、水を扱うからここに水神様があったんです。まだ長崎ではなく、伊良林郷だった時代のことです。そして、ここにはかっぱ伝説も残っているんですよ。」

倉田水樋水源跡から少し戻り、川端から風情ある民家が建ち並ぶ方面へと入っていくと、産女の幽霊(うぐめのゆうれい/飴屋の幽霊)伝説で知られる光源寺の山門へと出る。


<若宮川>


<伊良林の民家へ>

越中先生
「この寺の裏にある道が飯香浦から続く道ですね。亀山社中へと続いているので坂本龍馬や幕末の白袴を着た志士達が通っていたんですよ。光源寺へもよく立ち寄っていたそうです。このすぐ裏に祠がありますが、ここに“三日月岩”という珍しい石があります。これは光源寺が出来る前からあった岩で、三日月が天から降りてきて、三日月型に割れたと昔からいわれている石なんですよ。」


<三日月岩>

なんともびっくり! 本当に三日月が落ちてきて削られたような石だ。大昔からここを通った人達も目を丸くして驚いたことだろう。

越中先生
「それから、光源寺には産女の幽霊伝説がありますが、この民話にもとづいた“赤子塚”を平成14年につくりましたので、一度お参りするといいですね。」



<赤子塚>

最後に、越中先生が最近発見した場所へと案内してくださるという。再び光源寺の山門の方へ戻り、若宮稲荷神社の鳥居が続く方向へと進んでみる。

越中先生
「最近まで知らなかったのがこの石垣なんです。これは、さっき行った長崎甚左衛門の館の石垣と同じ時代の石垣なんですよ。野石積みといって積み方が違うんですよ。そして下が低くて、高くなっているでしょう?これは屋敷跡なんですよ。これはお寺が出来た時代の前の積み方ですからね。後に売ってしまって形は変わっていますが、おそらくここが玄関でしょう。ここに誰がいたのかはっきりとはわかりませんが、実は昔の記録にさっきの長崎甚左衛門純景の弟である長崎織部亮為英が、伊良林に住んでいたと書かれているんですよ。そしてこの辺りを“宿”と呼んでいたといったでしょう?広い所という意味です。そしてこの辺りには川が流れている。生活用水は必ず必要ですからね。おそらくここは山だったのを切り開いて屋敷が建てられたのでしょう。そう考えると、ここに長崎織部亮為英のお屋敷があったと考えることができるんです。ここからだと何かあっても桜馬場の長崎甚左衛門純景の館へすぐに駆けつけることができますよね。」

<最近発見した石垣>

<屋敷跡?>

春徳寺の後山、夫婦川の標高100m程の小高い山に今も残る“城の古址(しろんこし)”。ここは長崎開港以前、貞応年間(1222〜1224)にこの地に下向し、長崎を占領した豪族・長崎小太郎重綱が築いたといわれている“鶴城(かくじょう)”の跡だ。今でもこの城の古址とその背後の焼山には、石垣や空壕(からぼり)が残っていて、当時は、中島川を自然の壕とした自然の要塞だったとも推測されている。『西山』と『西坂』という地名は、この最初に拓かれた夫婦川から見て西の山、西の坂ということを意味しているのだ。長崎開港時代の領主、長崎甚左衛門純景は長崎氏の14代目にあたる人物。今回、越中先生と共に中島川をはさむ両側の町を歩き見つけた事実。それは、まだ推測の段階ではあるが、自然の壕とした中島川の外にあたる伊良林に長崎甚左衛門純景の弟の屋敷があったかもしれない!という新たな発見! 長崎の歴史の深さと面白さを感じさせてくれるものだった。

〈3/3頁〉
【最初の頁へ】
【前の頁へ】