越中先生と行く「心田庵」



昨年秋より、一般公開がはじまった江戸中期に築かれた「心田庵」。340年余り、まちなかにひっそりと在り続けたこの庵の由来、そして見所。晩秋から冬にかけての一般公開を前に、地方史研究家の越中哲也先生にご案内いただく。


ズバリ!今回のテーマは
「これぞ長崎の風雅!」なのだ。




「異国情緒」と称される長崎の町、最大の特徴は、あれやこれやの「和華蘭文化」。つまり長崎の文化は、日本古来のものに“南蛮唐紅毛(なんばんとうこうもう)”、異国のものがミックスされた文化に彩られているということ。この“南蛮唐紅毛”とは、オランダや中国はもちろん、ポルトガルやスペインなど草創期に付き合いのあった国々や、開港以降に流入してきた数多の国も含む。

出島オランダ商館跡、唐人屋敷跡、外国人居留地跡……今も当時の面影を残す建造物しかり、砂糖が多めのお食事メニューしかり……言葉にも祭りにも、はなはだ異国の香りの強いものばかり。ほんに長崎は異国んごたる(のようだ)と、まちの人誰もが自覚するなか、今年2月、江戸時代初期に建てられた「心田庵(しんでんあん)」が長崎市の文化財(史跡)に指定された。

何故に長崎の片淵に? 江戸時代の建物、庭園が? 一気に様々な疑問がわき上がる。そこで、長崎の歴史のことならこの方! 越中哲也先生に解説していただきながら、謎多き「心田庵」の世界へと足を踏み入れてみたい。
● 越中哲也先生プロフィール
長崎地方史研究家。長崎市立博物館長を務めた後、定年後、長崎歴史文化協会の創立に参加された。地元のTVやラジオでも広く活躍する“長崎の顔”。長崎を中心とした美術・工芸の研究と紹介に努めるかたわら、数多くの地方文化史についての執筆や監修をしておられる。


越中哲也先生

昨年秋に期間限定で行われた一般公開を皮切りに、春秋限定の公開期間には、多くの来訪者が詰めかけている「心田庵」。春は新緑、そしてこれからの季節は、見事な紅葉が見られるとあって、突如まちなかに現れた新名所は大賑わいである。「長崎さるく」で企画された「食さるく“江戸時代からの由緒ある日本庭園「心田庵」で茶会席体験”も発表されるやいなや定員いっぱい。人気の程を物語っている。
長崎さるく公式ホームページ http://www.saruku.info/

まずは、今秋の一般公開期間をご案内。
期間/11月15日(土)から12月5日(日) 9:00〜17:00
入場料/300円
問い合わせ/095-829-1193(長崎市文化財課)

「心田庵」(長崎市片淵2丁目18-18)へのアクセスは次の通り。
●JR長崎駅からのアクセス
★ 長崎県営バス/長崎駅前東口から「循環」「立山」「浜平」「立山・浜平」「東高下」「西山木場」行きのいずれかに乗車し「経済学部前」バス停で下車。徒歩約5分。
★ 路面電車/長崎駅前から「蛍茶屋(3番系統)」行きに乗車し「諏訪神社前」または「新大工町」電停で下車。徒歩約10分。
★ 車/JR長崎駅から約5分。(但し車道には面しておらず、駐車場もなし)。
 

秋の一般公開を控えた某日、心地よい秋晴れの午後に取材敢行。越中先生は、昨年、「学さるく」で講師を務めて以来、一年ぶりのご訪問だという。バス通りから細い路地へと入ると、住宅街特有の静寂に包まれる。道幅は昔のままなのだろうが、そこに並ぶ建物は近代的なものが多い。そんななか、高くまで巧妙に積まれた石垣が見えてきた。この石垣が、これまで「心田庵」に流れる時を緩やかなものにしていた魔法の壁だったのかもしれない。
石垣の終わりを大きくまわると、風情ある石段の上に茅門(かやもん)が立ちはだかる。その和に徹した美しい景観を前にすると、なかの世界にグッと惹き込まれた。 茅門
門扉をくぐり抜け露地階段を進むと、「心田庵」、茅葺き屋根の母屋がひっそりと、そこにあるのだった。長崎市文化財課の立石さんに出迎えていただき、いざ、静寂に包まれた空間へ。
「心田庵」の世界へ
 

「心田庵」ができた頃の時代背景
当時、誰もが憧れた“中国趣味”

この「心田庵」、どういういきさつで、この地に誕生したのだろうか?
この庵の家主は、何 兆晋(が ちょうしん)という唐通事だった人物。日本名を“何 仁右衛門(が にえもん)”といい、椛島(樺島)町に、広大な屋敷を設けていた。「心田庵」は、その彼が延宝の頃(1673〜1681)に拓(ひら)いた別荘だと伝わる。
茅葺き屋根の母屋

何 兆晋は、寛永5年(1628)に長崎へ渡来した福建省出身の帰化唐人、何 高材(が こうざい)と日本人の母の間に長男として生まれた。この親子については以前、ナガジン!でも触れたことがある。元和9年(1623)創建、当時京都清水寺の末寺として長崎に建てられた長崎山(ちょうきさん)清水寺について触れたときだ。

※2011.10月 ナガジン!特集「きよみずさん--京の名残りと唐の香りを感じて。」参照


唐通事の仕事は、通訳はもちろん、長崎に在住する中国人たちの商売や秩序などの身辺管理、貿易許可証である「信牌(しんぱい)」の発行など、唐貿易全体の業務を多岐に渡り行う重職だった。また、職務とも密接に関わってくるため、中国文化との接触や受け入れなど、唐通事は文化的貢献も多く果たした。

寛文3年(1663)、筑後町から出火した火事で長崎総町66のうち、全焼57町、半焼6町という大火となった。このとき清水寺境内の一部も被災したと伝わる。その後、寛文8年(1668)、貿易で財を成した大富豪 何 高材と、その息子である兆晋、兆有(ちょうう)兄弟が再建の造営に着手。何 兆晋の時代に完成した。

清水寺本堂は平成18年から5年に及ぶ本堂保存修理工事が行われ、それに伴う発掘調査、検証で新たな事実が発見。平成22年に国の重要文化財に指定された。何 高材が妻の供養のために建てたと伝わるこの仏堂の特徴は、伝統的な日本様式の中に、絵様(えよう)と呼ばれる部材に施された模様や彫刻デザインなど、当時の最先端の※1明末清初(みんまつしんしょ)の建築様式が数多く織り混ぜられていることだ。
※1 明末清初/(中国)時代(1620〜1660)

清水寺本堂
清水寺本堂

江戸時代、長崎に端を発し、日本では外国の風物に憧れ、そこから感じる趣を好む異国趣味(エキゾチシズム)が流行ったが、なかでも文化度の高い中国へ憧れを抱いていた。6万人に及ぶ町民のうち、実に1万人が中国人であったその頃の長崎の人々にとって、ことのほか身近である中国人、中国文化への憧れは強く、次々に長崎の文化に取り入れられていったのだ。唐通事自身もその中国人を祖先に持つ家柄を誇りとし、中国の文化、風俗、慣習を代々受け継いでいった。また、彼らは儒学に通じ、書画、詩文などに長けた人物も多く、人々から尊敬を集めていた。

越中先生「何 兆晋が、何故、片淵の地に別荘を建てたかということです。しかも、約530坪もある広大な敷地です。『唐通事家系論攷』を見ると、何 高材の妻、つまり兆晋の母の名は「高河氏の女(性章夫人)」とありますが、高河氏は、片淵郷の乙名の名前なんです。この辺りはその頃、かねてより長崎の地主であった長崎甚左衛門の古城があった城下町で、由緒ある場所でした。おそらくここに「心田庵」が建てられたのは、兆晋の母方の土地であったからではないでしょうか」。

母屋から
母屋から庭園を眺める

この周辺は、『長崎名勝図絵』にも※2幽邃(ゆうすい)の地であると記されている。
※2 幽邃/景色などが奥深く、静かなこと。

越中先生「「心田庵」に近い後山は、昔から“後の谷(うしろんたに)”と呼ばれ、中国盧山(ろざん)の麓の景勝地、“虎渓(こけい)”のように美しく、海が見渡せる景観を誇っていました。※3中国趣味にふさわしい場所だったんだと思いますね」。
※3 中国趣味/骨董品や美術装飾など、世界が興味、関心を抱き、多大な影響を与えた中国の芸術や文化。17世紀に入るとヨーロッパ諸国に取り入れられ、”シノワズリー(仏)”に発展。ちなみに、浮世絵や書画など、19世紀後半に欧米で成立した日本美術への関心を日本趣味”ジャポネズリー(仏)”という。

心田庵の立地
「心田庵」の立地について語る越中先生

何 兆晋が小通事になったのは、万治元年(1658)のこと。その頃の唐通事には、大通事に頴川藤左衛門(えがわ とうざえもん)、彭城仁左衛門(さかき にざえもん)、小通事に東海徳左衛門(とうかい とくざえもん)、林道栄(はやし どうえい)といった錚々たるメンバーが顔を連ねる。

※2012.1月 ナガジン!特集「唐通事と阿蘭陀通詞」参照
※2006.9月 ナガジン!特集「長崎・時代を駆け抜けた人物の墓」参照

兆晋は寛文8年(1668)、10年勤めた小通事の職を退き、同年、清水寺本堂の再建の造営に着手した。そして、「心田庵」が拓(ひら)かれたのは、それから10年余り経ってのことだった。
 
何 兆晋の交流人
高玄岱、心越禅師

「心田庵」建立から約10年経った1680年(延宝8)頃、中国清代の※4篆刻(てんこく)家、黄 道謙(こう どうけん)による書『心田庵図』、また、兆晋が親しくした友人、儒者の高 玄岱(こう げんたい)によって『心田庵記』が記された。
※4 篆刻/印材に文字を刻すこと。中国で元末期に起こり、明代に広まった詩・書・画と並称される文人四芸の一つ。

文化財課の立石さんに、その貴重な品を見せていただいた。

心田庵記
高 玄岱『心田庵記』

心田庵図
黄 道謙の書『心田庵図』
越中先生「これは、どちらもすばらしい。最初にある、この『鳥瞰図』には記名はありませんが、当時の記録としてしかるべき方が描いたものでしょう。この頃は、誰でもがこのような立派な絵を描くことは難しかったでしょうからね」。
鳥瞰図
作者不明『鳥瞰図』

長い巻物の中に、封じ込まれた340余年の時を感じる――。

兆晋と同じく樺島町に暮らしていた高 玄岱は、度々この「心田庵」を訪れ、『心田庵記』を記した。また、延宝5年(1677)、興福寺に招かれた心越(しんえつ)禅師は、我が国、篆刻(てんこく)の祖として知られるが、七弦琴の音楽(琴楽/きんがく)と、その背景にある儒学的、道教的理念(琴学/きんがく)を、日本に伝えた人物でもある。兆晋は、心越禅師から七弦琴を習った。
越中先生「『鳥瞰図』には、兆晋が七弦琴を奏でている姿が描かれているじゃないですか。この辺りののどかな風景も、オランダ船も描かれていますし、この時代の長崎の情景をきちんと忠実に描いているんでしょうね」。
『鳥瞰図』の部分
『鳥瞰図』に描かれた「心田庵」と何 兆晋

梅を愛し、七弦琴を善くした兆晋は、号を「心声子」という風流人だった。彼は、この「心田庵」にて、風雅な生活を17年送った後、60歳を前にこの世を去った。
 

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