風頭山のふもとに寺院が連なる「寺町」の風景は、東山手、南山手の教会や洋館群と同じく「長崎らしい」景色のひとつ。寺々が長崎の町なみに溶け込んでいます。
さて、そんな馴染み深い寺町ですが「お寺に入ってみたことがありますか?」と問われたらどうでしょう。「外から眺めても、入ったことは無い」というかたも多いのではないでしょうか。あらためて考えてみると、それぞれのお寺にどのような歴史があって、お坊さんは普段どのように過ごしているのか、など知らないことだらけです。そこで今回、寺町のちょうど真ん中に位置する真言宗の「延命寺」に行ってみました。
出迎えていただいたのは、延命寺のご住職、堤祐敬さんです。元和2年(1616)に延命寺がこの地に建って、昨年平成28年(2016)でちょうど400年。祐敬さんは開祖「龍宣(りゅうせん)和尚」から数えて24番目、第24世のご住職です。
今回は、「医王山延命寺開創四百年記念誌 いのち紡ぎて」に記載されている本馬貞夫先生の「延命寺の歴史」を参考に、延命寺と長崎の関わりについて、住職にお話をうかがいました。
最初に驚いたのは、延命寺の開祖龍宣和尚が、ご本尊の「薬師如来像」を備前(岡山)から〝背負って〟やって来た、というエピソードです。まだ道が舗装されていない険しい山道、仏像を背負って歩く和尚の姿を想像すると、その苦労が偲ばれます。長崎奉行所の公式記録『長崎実録大成』には、延命寺について次のように記録されていました。
「真言宗 京都御室仁和寺末寺 医王山 延命寺 元和二年丙辰年建立 境内千八百坪 伊良林郷の内
延命寺開基の僧・龍宣は京都仁和寺にのぼり、長崎に真言の教義を説く一寺を創建したいと願ったところ、願いとおり免許され、延命寺が開創されることになった。本尊薬師如来を安置し、仁和寺の末寺となって、その法流一通りの相伝を受けた。そして代々新義真言宗の常法相談所として修行僧を集めて論議指南することができる免許状を授かり、代々院家兼帯の高い寺格を免許された
」
『医王山延命寺開創四百年記念誌 いのち紡ぎて』72頁
(住職)『医王山延命寺由緒抜書』という江戸期の書物には「龍宣和尚は、備前国(岡山)の薬師院の従僧だった」と記されています。残念ながら、まだ備前のどの薬師院からいらっしゃったのかについては確定できていません。これは今後の課題になっています。
先述しました「長崎実録大成」では、延命寺の開創は元和2年(1616)ということでした。ところが『長崎寺社帳町方郷方』という史料では、寛永7年(1630)と記されており、『長崎実録大成』と14年も開きがあります。このズレについて本馬先生は、創立当初から伽藍(がらん)全体が整っているのはまれであり、各施設が徐々に整備されていく中で「本堂」が完成した年を、延命寺開基(かいき)としたのではないかと考察されています。こうして寺院が整備されていく過程において、とても興味深いエピソードがありますね。
(住職)眼鏡橋を架けたことでも有名な黙子如定(もくすにょじょう)和尚の話ですね。『いのち紡ぎて』の「お祝いの言葉」(38頁)で興福寺のご住職、松尾法道様にご紹介していただいています。
代わりに紹介させていただきますと、延命寺の隣にあるお寺は「興福寺」で、住職を務めていたのが黙子和尚でした。ある日、黙子和尚は道で香衣(こうえ)という位の高い服を着た僧と出会います。僧は藪から棒に「今、わしは家の普請をしようと思うとるのじゃが、どうも銭の工面がつかぬのでな、困っておるところじゃ。どうだい、ひとつあんた、力になってはくれぬじゃろうか」と話しかけてきます。黙子和尚は驚いて「失礼ながら、どちらさんですか」と尋ねたところ、僧は笑いながら「わしはあんたの西隣りにいる医者じゃよ」と答えました。「はて、隣りは寺じゃが…」と黙子和尚はハテと考えこんで、ハッと気がつきました。黙子がいる興福寺の西隣りは医王山延命寺。ご本尊は薬師如来であり、医術の仏。「西隣りの医者」と名乗るこの僧こそは「薬師如来が変身した姿」だったのです。ほかならぬ薬師如来からの頼みです。感激にふるえ寄進を約束したところで黙子は夢から目を覚ましました。早速ありったけのお金を持って延命寺の龍宣和尚を訪ね、夢の話をします。龍宣和尚は感激して、二人で手を取り合って泣きました。黙子和尚は翌年までに約束の金額を延命寺に施入(せにゅう)して薬師如来との約束を果たした、というお話です。
この不思議なお話、詳しくは丹羽漢吉著『史談切り抜き帳』(長崎文献社)の「眼鏡橋ファンタジー」をご覧ください
延命寺は「長崎惣祈願寺(ながさきそうきがんじ)」だったそうですね。これは、長崎の全80町(惣町)の繁栄と安全を祈願するというものですが、数ある寺の中で延命寺がこの大役を任されていたのは、やはり長崎奉行所とのつながりが深かったからでしょうか。
(住職)そうですね、奉行交代の際には、屋敷修復が整うと門札を納めていたという記録もあります。
長崎惣祈願というのは、具体的にどのような事をしたのでしょうか。
(住職)まず、お寺で長崎惣祈願の法要を行います。それと同時に、今で言うとお諏訪さんのお札のようなものだと思いますが「ご祈祷札」を一斉につくって、それを年4回、惣町(そうちょう)の家持町人と借家人竃別(かまどべつ)に納めていたようですね。
長崎奉行との関わりが深かった延命寺ですが、史料によると最初は奉行に疑われていたようで『医王山延命寺由緒抜書』には次のように記録されています。
「当時の開山龍宣和尚は、備前国(岡山)の薬師院の住僧だった。元和二年長崎に至ったが、土地は美しく、山河の景色もすばらしい。異国の商船が入港する交易の湊としてこれからの繁栄が予想されることから、一堂を建て常に守り念じてきた薬師仏を安置することにした。
当時の長崎奉行は長谷川権六様で、幕府の指令を受けてキリシタンの取締まりを厳しく行っていた。最初は龍宣を疑っていたが、その頃長崎では疫病が流行り、老若男女おびただしく横死する悲惨な状況に対し、薬師仏の霊験でもって多くの病人が救われ、終には長崎の者たちも、みんな薬師仏を仰ぎ慕うようになった。
ここに至って長谷川奉行が龍宣に言うには、今長崎の者たちもキリスト教信仰を捨て正法に帰る様子がみえる。時を遷さず一寺を草創し、天下国家の安寧を祈り、密法神道の奇特を顕されると、いよいよキリスト教御制禁を守り、仏神崇敬の心を永く保つであろう。猶又正法に帰っても、いまだ宗旨の寺を定めざる者が多い。それらの者たちをことごとく檀家にするとよい」
『医王山延命寺開創四百年記念誌 いのち紡ぎて』75~76頁
(住職)当時の長崎は、海外貿易港という場所柄、いろんなところから、いろんな業種の人たちが集まってきていましたから、龍宣和尚もすぐには信用してもらえなかったのでしょうね。
延命寺境内の中央に「鳥居」が建っていてギョッとしました。
(住職)「神仏習合」ですね。それまであった神道を大事にして、なおかつ後からきた仏教の良さも取り入れるという、日本では昔からあるスタイルです。残念ながら、延命寺境内にあります「稲妻(稲荷)大明神」に関しては、いつどのような経緯で祀られたのかについて、まだ何も分かっていません。
「神仏習合」といえば明治維新後、明治政府は神道を国教とする方針をとりましたね。「仏教は外国から来たものじゃないか」ということで「神仏分離令」が出され「廃仏毀釈」で仏像が破壊されるなどの混乱があったわけですが、延命寺はどうだったのでしょうか。
(住職)長崎の寺も随分この時期に廃寺に追い込まれたのですが、延命寺は免れたようです。幕府との関係性が深かったわけですから、大変不利な状況だったとも言えるのですが、それでも無事だった理由は、先ほど話にでました稲妻大明神がありますし、本堂の中に鏡もあります。普段から神様を祀るということを大事にしていたということと、もう一つ幸いだったのは延命寺の本山「仁和寺」は、真言宗の中でも「御室派(おむろは)」、つまり皇室とのつながりが深かったんですね。そういうことが大きかったのではないでしょうか。
なるほど、だから同じ真言宗でも「朱印寺」だった大徳寺は廃寺になってしまったのですね。長崎の七不思議に「寺もないのに大徳寺」というのがありますが、幕末までは確かにありました。明治元年(1868)廃寺になった際、大徳寺住持(じゅうじ)の墓の一部が延命寺後山に移されたそうですが、本馬先生は「よくもこんなに大きな石塔を移したものだと言われるくらいの巨大石塔だ」と書かれていましたので見に行ってみました。確かに、気が遠くなるような大きな墓石で驚きました。
延命寺には4つの末寺がありましたが、あらためて「末寺」というのはどういうものでしょうか。
(住職)「末寺」とは、宗派の本山に附属する寺院のことで、延命寺も仁和寺の末寺になります。延命寺の江戸期の末寺は、萬福寺、青光寺、能仁寺、圓福寺の4寺です。
史料によると末寺の第1号は、長崎くんちが始まった寛永11年(1634)、龍宣和尚によって浦上淵村竹の久保に創建された「萬福寺(弁財天社)」で、万治元年(1658)弟子の龍盛が住持になり、延命寺の末寺になったと書かれています。御本尊は弁財天ですが、延命寺の稲妻神社と同じで寺内には「稲荷社」もあったようです。
(住職)典型的な神仏習合の寺院ですね。萬福寺は「神仏分離令」の影響を大変大きく受けました。維新後、浦上村淵の氏神となって「淵神社」と改称することになります。
稲佐山に行くロープウェイ駅があるあの淵神社ですね。では、これまで本尊だった弁財天女はどうしたのでしょうか。まさか壊されてしまったとか…。
(住職)弁財天女やその他の仏具類すべて、長崎裁判所に納めたのだそうです。
もう一つの末寺「圓福寺」ですが、これまた龍宣和尚が慶安元年(1648)山里村に創建、山王権現社が祀られました。坂本の地に移ったのは、延命寺2世の尊覚の時で『長崎名勝図絵』に記されています。『長崎名勝図絵』にはもう一つ興味深い記述がありましたね。
(住職)はい、知恵伊豆として知られている「松平伊豆守信綱」が、島原の乱を終結させたその帰り道「この地は比叡山に似ているから山王を祀れ」と長崎代官の末次平蔵に言った、という逸話が書かれています。圓福寺も先述しました萬福寺と同じく、山王権現社を本尊としている神仏習合の寺でしたので、神仏分離令によって「山王神社」になりました。
福山雅治さんの歌で話題になった「被爆クスノキ」がある山王神社ですね。ここが延命寺の末寺だったとは知りませんでした。
あと2つの末寺は、正保2年出来大工町に創建された「青光寺」と、正保4年西山郷に創建された「能仁寺」ですね。
(住職)能仁寺は明治18年、寺が維持できなくなり延命寺に吸収される形でなくなりました。青光寺も明治2年、寺院の運営が行き詰まり取り壊されましたが、惜しむ人たちによって中島川沿いに青面不動明王を祀る小堂が建てられていて、いまでも残っています。
写真家の東松照明氏が生前、この小堂にあるお地蔵さんに帚(ほうき)を持たせて「掃除当番」というタイトルで作品にしています。なんとも罰当たりな事で(笑)。東松さんが撮った長崎曼荼羅(まんだら)シリーズの1枚として以前から知っていたのですが、まさかここも延命寺の末寺だったとは、いやはや驚きの連続です。
土佐藩士で、後に三菱を興す岩崎弥太郎とも関わりがあったそうですね。
(住職)明治元年の閏(うるう)4月、延命寺でオールトとグラバー商会の社員を招いて会食をしています。同じ年の7月にもフルベッキ夫妻とその子どもたちと食事をしています。
オールトは大浦慶と取引をしていたイギリス人商人で、グラバー園に「オールト邸」が残っています。フルベッキはアメリカに移民したオランダ人で、佐賀藩の藩校「致遠館」で英語を教えていました。どちらも長崎史で有名な外国人です。この二人が岩崎弥太郎と延命寺で会食をしていたのですね。食事した場所はどこだったのでしょうか。まさか本堂ではありませんよね。
(住職)本堂はご祈祷をし、お祈願をし、読経をし、供養をする場所ですから、会食の場は多分「庫裏」(くり)だったのではないでしょうか。庫裏というのは僧侶たちが生活する場所でもありますけれど、共用の会館的な使い方もしていましたので。今でもそうですけれど、本堂で読経をした後、お寺のほうでお接待をする場合などは、庫裏にある広間で行っています。
高野山の「奥之院」は弘法大師がご入定(にゅうじょう)されている聖地。「一の橋」から「御廟(ごびょう)」まで約2キロの間には数々の歴史上の人物たちの墓や供養塔があり「武田信玄」「上杉謙信」「伊達政宗」「明智光秀」「法然上人」「豊臣家」「毛利家」「島津家」錚々(そうそう)たる人物たちが眠っていますね。ここに「長崎墓」があるということを本馬先生が記されていました。ご住職は高野山で修行されたそうですが、以前から長崎墓のことはご存知だったのでしょうか。
(住職)行くまでは知りませんでした。長崎墓発見にいたった経緯をお話する前にお聞きしたいのですが、高野山にはどんなイメージを持っていますか。
そうですね、深い山奥に忽然(こつぜん)と寺院が佇(たたず)んでいるイメージがあります。
(住職)そうですよね、そういうイメージを持たれているかたが多いと思うのですが、実際は標高の高い山上に広い盆地になっていまして、そこに53カ寺の大きな寺院が点在しているのです。
えっ、53カ寺もあるのですか。それは全然イメージと違いました。
(住職)私はその中の「清浄心院」(しょうじょうしんいん)というお寺で修行をしました。奥之院へ続く参道の両脇には、お墓が約20万基あるのですが、これを53ヵ寺が分担して管理しています。管理というのは、お盆等の時期に出向いて供養するということですね。ある日、清浄心院が受け持つお墓にお参りするというので、師匠について初めて奥之院に行きました。一の橋から歩いていきまして、先ほどお話がありました戦国大名の墓石があるところを通り過ぎ、ついに御廟の橋のところまできたのです。
御廟というのはなんでしょうか。
(住職)弘法大師がご入定された御堂がある場所です。御廟の入口の橋を渡りますと、飲食も写真撮影も一切禁止の聖域になります。この先に「燈籠堂」そのまた先に「弘法大師御廟」があるわけですね。それで橋を渡りましたら、右手にお墓が建ち並んでおりまして、そこは皇室のお墓でした。このお墓の供養は金剛峯寺がされるはずで、案の定師匠はそこには行かず左手の方に行きました。そこにもお墓が建ち並んでおりまして…。
そこが清浄心院の管轄のエリアだったわけですね。ということは、そこが。
(住職)そうなんです。墓石を見ましたら長崎、長崎、長崎、長崎って、ずっと長崎の墓石が何十塔も。大変驚きまして、なんでこういうところに長崎の人のお墓があるのか師匠にお聞きしたのですが「詳しくは分からない」ということでした。これは想像でしかありませんが、こういう場所にお墓ができるというのは、長崎の人たちが弘法大師信仰に対して、何か相当な貢献をされたという事ではないでしょうか。
(長崎墓碑の総数は36基。その内、江戸期のものが9基、明治期のものが25基、大正時代のものが2基。町年寄の高木作兵衛の石塔もあった)
やっぱりお寺の朝は早いのでしょうか
(住職)そうですね、だいたい5時台には起きています。6時くらいから「朝のおつとめ」をおこないます。朝の始まりですから本堂で仏様たちにご挨拶の意味も込めた読経を行いまして、その後、掃除をして朝食を済ませましたら、その日の予定を確認します。予定は日によって様々です。年間の行事を行いながら、ご不幸に伴ってお通夜、葬儀、ご法事、毎月伺う月参り、それから延命寺では老人ホームも経営しておりますので、福祉の仕事もこれに加わったりしています。そして毎月の檀家さん参りですね。
『いのち紡ぎて』に一年間の行事が紹介されていますが、こんなにあるんですね。1月に行われる「初大師法要」ですが、これはどういう行事なのでしょうか。
(住職)これは、月例行事で毎月20日午後1時から、弘法大師の縁日として行っていますが、特に1年の最初ということで「初大師法要」と呼んでいます。まず、本堂の弘法大師の像の前で読経をして、一緒にお参りをします。その後「大念珠繰り」というのですが、参加者が輪になりまして、巨大な数珠を皆で般若心経を唱えながら回していきます。ちなみに12月は1年最後ということで「終大師法要」と呼んでいます。
もう一つの月例の行事として、月末28日に「護摩法要」が行われていますね、これはどういうものなのでしょうか。
(住職)護摩というのは「ゴーマ」というサンスクリット語に当て字したもので、「燃え尽くす」という意味があります。自分の中の煩悩を燃やすことによって精神を浄化するということもありますし、浄化した心を捧げて修行することで、不動明王様に願いを聞き入れていただくというものです。具体的には、願い事を「添護摩木(そえごまぎ)」という板に書いてもらって、それを不動明王様の前で炉に入れて燃やします。そうすることによって祈願を不動明王様のお口から中に引き入れていただくわけです。よくシーズンオフに、プロ野球選手がやっているのを観たことがありませんか。
ああ、あれが護摩法要なのですね。参加されるのは檀家さんだけですか。
(住職)いえ、これはどなたでも参加できますよ。たまたま通りかかった方が参加されたこともあります。基本的には毎月28日午後3時から行っていますが、年末はやっておりませんので、1月から11月までの年11回の法要になります。
そして2月3日は「節分会法要」ですね。
(住職)夕方5時から「お焚き上げ」を行います。古いお札ですとか仏壇、お位牌を一カ所に組んでおいて、私が読経したあとに火を着けて鬼火焚きをします。6時30から本堂で読経、大念珠繰り、それから「豆まき」をします。
豆まきと言えば「鬼は外、福は内」ですね。
(住職)境内に向かって「鬼は外」をやります。自分の中にいる鬼を大声で外に出すわけです。そうすると、自分の中の鬼が逃げて行った後、心の中の部屋が空いています。今度は急いで御堂の中に入ってドアを閉めます、電気も全部消します。そんな真っ暗闇の中、心の中に福を入れるために「福は内」といって豆をまく。これがお寺の昔ながらの豆まきです。現代は電気の普及で〝闇〟という状態を感じる場面がほとんどありませんが、延命寺では年に一度この体験が出来ます。
3月は「春季彼岸会法要」(しゅんきひがんえほうよう)、春のお彼岸ですね。
(住職)延命寺では、春のお彼岸の入りから中日(春分の日)までをお彼岸と位置づけて法要を行っています。
次の「正御影供法要」(しょうみえくほうよう)というのは。
(住職)弘法大師が高野山にご入定された日(旧暦の3月21日)です。旧暦の通りの日程で法要を行っているお寺もありますが、延命寺では、新暦にすると大体4月が多いので、4月の20、21日と定めて行っています。年に1回の「御開帳」もおこなわれます。
写真を見ると、御開帳した弘法大師像が紐で結ばれているように見えるのですが。
(住職)本堂にある弘法大師の右手には紐が結ばれていて、結ばれた紐は天井を伝って御堂の外にある五色の紐につながっています。この五色は大師様の「ご威光が放たれる」という意味を持っています。本堂の中にはもう一本、大師様につながっている布が垂れ下がっていて、手で触れられるようになっています。年に1回だけは、直接大師様と手が結べるようになっているのですね。
6月は弘法大師様のお誕生日「弘法大師誕生会法要」ですね。
(住職)正式には6月15日が大師様のお誕生日になりますが、法要は15日直近の日曜日におこなっています。毎回、藤間流の皆様にお越しいただき奉納舞踊をしていただいています。あと、大師様のお誕生仏というのがあります。お釈迦様のお誕生仏は「右手で天を、左手で地を」指していますが、大師様のお誕生仏は「合掌」していてポーズが違います。このお誕生仏に、花まつりと同じように頭から甘茶をかけます。
「夏季餓鬼法要」(かきがきほうよう)は飢えて亡くなられた方への供養でしょうか。
(住職)飢えるということは、食べられなかったという直接的な意味だけではなくて、御霊に対して子孫から供養を受けられなかった人たちもいらっしゃるかもしれない。そういうご縁が無かった人たちに対しても供養の気持ちを差し向けようという主旨があります。7月の第二日曜日に行っています。
「盆供養法要」はいわゆるお盆ですね。
(住職)はい、8月の13、14、15日ですね。そして春に続いて、秋のお彼岸「秋季彼岸会法要」があります。期間は9月のお彼岸入りの日より、秋分の日までとしています。
次の「仏名会法要」というのはどのような行事なのでしょうか。
(住職)これはお釈迦様が悟りを開いた12月8日の行事です。お釈迦様が修行中、行き倒れになる寸前、通りかかったスジャータという女性が、持っていた乳粥を飲ませて、命が助かったという話があります。その乳粥に模してつくった小豆粥のお接待もございます。
普段行く機会が少ないお寺ですが、例えば延命寺でしたら、毎月28日の午後3時から行われている(12月は除く)「護摩法要」は誰でも参加できますし、「写経会」も参加自由で定期的に行われています。また、400年の歴史を持つ境内には17世紀につくられた「法華三昧塔」「法華宝篋全身塔」、明治33年建立の「中門」、先述した「稲妻神社の鳥居」など興味深い建造物が沢山あります。これらを見て回るだけでも延命寺を満喫できます。ぜひ一度、延命寺に行ってみてはいかがでしょうか。
(写経会の詳しい日程は延命寺に直接お問い合わせください。電話番号095-822-0378)
【延命寺ゆかりの場所】
大徳寺は元々、梅香崎の地に宝永元年(1704)創建されましたが、宝永5年(1708)、現在地に移されました。明治維新後に廃寺。歴代住持の墓の一部が延命寺の後山に運ばれています。
寛永11年(1634)龍宣和尚が宝珠山萬福寺を創建。明治維新の後、淵神社になりました。
慶安元年(1648)龍宣和尚が白巌山圓福寺を創建。明治維新の後山王神社になりました。
正保2年(1645)龍宣和尚が宝林山青光寺を創建。明治2年(1869)運営できなくなり取り壊されましたが、新たに中島川沿いに小堂が造られました。
<延命寺の境内>
大正14年頃、3歳の長男が交通事故で足を切断。責任を感じた延命寺檀家小野浅重氏は、償いと長男のその後の育成を願って、毎日一日も欠かさず30年間、延命寺にお参りしました。日数にして約10950日。小野氏は10年ごとに観音像を建立、現在も山門を入ってすぐ左に鎮座しています。
明治33年建立。正面中央に彫られた「医王山」の字は小曽根家14代当主の小曽根星海(1851?1904)。父は坂本龍馬らを援助した長崎の豪商小曽根乾堂。
3基の巨大な塔が並んでいます。向かって左から元禄3年(1690)建立の「法華宝篋全身塔」、延宝5年(1667)建立の「法華三昧塔」、正徳5年(1715)建立の「華厳塔」。もとは報恩院の場所にありました。
弘法大師によって弘仁7年(816)開かれた高野山の、開創1100年を記念して大正4年(1915)建立。
鳥居は明治・大正期に延命寺を支えた百田熊吉氏らによって建てられました。