3.出島での生活


宴会図/長崎市立博物館蔵・川原慶賀『唐蘭館絵巻』

 楽しみあり!事件あり! 出島模様

商館医・ケンペルは出島の広さを横82歩、縦236歩といっている。復元途中の出島を歩きながら歩数を数えてみてはいかがだろう? 現在出島は、内側(川の方面)は削られているので当時よりも狭くなっているが<1>、元の出島の形に印(鋲)が付けられているので、それを辿ると本来の出島の姿を把握できるようになっている<2>。ちなみに外側にあるこの鋲より5m先には青い印があるが、これは出島が和蘭商館廃止後、外国人居留地として利用されていた時代、散策路の役割としてさらに埋め立てられた部分を示しているのだという<3>


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それでは、商館長や商館医をはじめとした出島の住人は出島でいったいどんな暮らしをしていたのだろうか? その暮らしぶりに迫ってみよう。出島での生活の楽しみは総じて「酒、女、歌」だったと表現されている。商館長らは1年に1度、江戸参府があるが、出島から外へ出られない大多数の住人にはオランダ船が入港している間、2〜3ヶ月が忙しいだけ。あとは暇で暇で退屈な日々が続いたため、彼らはここでの生活を「国立監獄のようだ」と嘆いていたそうだ。そんな彼らが楽しみにしていたのは、年に一度の「オランダ正月」やこの行事の前に行われる「オランダ冬至」(実はキリスト降誕祭・クリスマスを密かに祝う行事だったといわれている)などの際に、出入りの日本人役人たちを招いて豪華な祝宴を行うこと。また、この祭りの際には、ほんのわずかの外出も許されていたのだという。では少しだけ出島でのオランダ人の生活を覗いてみよう。




オランダ人の食事は?

調理室図 /長崎市立博物館蔵・川原慶賀『唐蘭館絵巻』

出島の食生活はもちろん洋食。牛肉などを好んで食べる肉食で、当初日本人は「野蛮」だと思っていたに違いない。日本で牛肉を調達することを長崎奉行が許さなかったので、バタビアから牛を輸送し、出島の家畜小屋で飼育し、必要な時に屠殺(とさつ)したのだとか。野菜などは料理人が表門越しに橋向かいの江戸町側に売りに来ている百姓らから購入していたという。


(出島史料館蔵)

ちなみに豪華な食事を楽しんだといわれる「オランダ正月」の献立には、鴨の丸焼きやソーセージ、デザートに丸カスティラ、ぶどう酒、ブランデー、日本酒までズラリ。
出島で働く通詞や乙名たちが招かれる祝宴では、マナーも完璧! ナプキンを膝に当て、ナイフとフォークでいただいたのだという。しかし多くの人は料理に手をかけず、土産として家族に持ち帰ったのだとか。

オランダ人が飲むお酒
数少ないオランダ人の楽しみの一つだったというお酒。出島にはオランダ人によって「ジェネーバ」というジンが大量に運ばれていて、出島発掘の際もこのジンのボトルの破片が多くみつかったのだとか。ジェネーバはアルコール度数が40度以上ある蒸留酒。長い航海でもあまり変質することもなく、美味しく飲めたのだろう。

オランダ人と遊女とのロマンス話
平戸和蘭商館時代のオランダ人は、夫人を同伴することや日本人女性と結婚することが許されていたが、出島でそれはNG。そんな中、唯一出島への出入りを許されたのは「オランダ行き」と称する丸山町や寄合町の遊女のみだった。遊女は禿(かむろ)という付き添いの少女を連れ、出島の橋を渡っていったのだが、この遊女たちは「唐館行き」(唐人屋敷へ行く遊女)に比べ格が低かったのだとか。しかし1782年に商館長イサーク・ティツングが初めて太夫格(上級)の遊女を出島に招いてからは太夫格の遊女たちが出島に出入りするようになったといわれている。オランダ人と遊女とのロマンス秘話は残されているが、なかでも有名なのはシーボルトと引田屋の遊女・其扇(そのぎ/楠本タキ)とのロマンス。しかし、お滝は遊女ではなく、シーボルトとお滝の出会いは出島以外の場所だったという説もある。いずれにせよ2人の間にはイネが、そして商館長ヘンドリック・ドゥーフと京屋の瓜生野(うりうの)との間には丈吉という子どもが生まれている。イネは御存知の通り日本初の女性蘭方医として活躍。ドゥーフと瓜生野との息子・丈吉はわずか17歳で病没。2人とも寺町の墓に静かに眠っている。丈吉の墓前の水鉢にはヘンドリック・ドゥーフの頭文字HDの文字が刻まれていて、この出島での歴史を偲ばせている。

出島の商館員のくんち見物
寛永11年(1634)にはじめられた諏訪神社の祭礼“長崎くんち”。その時、丸山遊女たちが舞ったのが奉納踊りの始まりといわれているが、それから20年後の承応3年(1654)に出島の商館員たちは初めて大波止のお旅所の桟敷席で見物することを許された。見物する商館員の頭上には当時「オランダ幕」と呼ばれた「連合オランダ東インド会社」の頭文字で作った社章・VOC文字を染め抜いた幕が張られていた。この祭りをヨーロッパに紹介したのは商館医・ケンペルだった。ちなみに長崎くんちのだし物の阿蘭陀船にはVOCの旗が翻っているし、かつて江戸町が演していたオランダ兵隊さんは、出島のオランダ人が全面的にバックアップをして衣装などもオランダから取り寄せていたという。阿蘭陀万歳というユーモア溢れる踊りもある。オランダや中国との貿易で潤った歴史的背景が神事である祭りの発展に、そしてモチーフにまで影響を与えたのだった。

長い歴史の中、出島ではさまざまな事件も起きていた。遊女に失恋して失踪する商館医、アルコール依存が原因で死亡した商館員、航海の途中、船上で死亡した商館長。大火で焼失する商館長住宅などなど。何せ218年間、数千人の人が入れ替わり立ち代わり暮らしたのだから……どんなことがあってもおかしくないのだ。



出島の魅力◆公式HP「美由紀の出島日記」を手掛ける学芸員
長崎市出島復元整備室 高田美由紀さん
出島を訪れたら、はじめに出島史料館本館を見学すると、出島の歴史や文化など全体の流れが把握でき、すでに復元された建物を含め出島和蘭商館跡に興味を持っていただけると思います。現在、出島復元整備事業における工事中のため大変御迷惑をおかけしておりますが、現場で行っている発掘及び調査を復元に役立たせ、数年後には往時の街並みが甦ります。ぜひ楽しみにしていてください。



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【1.成り立ち〜これからの出島(出島復元計画)】
【2.出島に住んだ人物】
【3.出島での生活】
【4.出島を通した文化交流】