2.出島に住んだ人物


蘭人外科治療図/長崎市立博物館蔵・長崎板画

 会社社員である商館長と  目的を他にも持つ商館医

 17世紀、西欧諸国が東洋貿易のために設立した特許会社・東インド会社。イギリスは1600年、オランダは1602年、フランスは1604年に設立。香料などの物産を輸入することが主な目的だったが、商圏拡大のために植民地経営にも従事していた。
 出島和蘭商館はつまり貿易のために日本(出島)に置かれたオランダ東インド会社の支店というわけだ。最高責任者である商館長(カピタン)の任期は1年と定められていたのだが、なかには数年引き続いて在職したものもいた。平戸に和蘭商館が置かれた時代も含め、251年間でなんと163代の人が務めていたのだとか。商館長は東インド会社という特殊商社の日本駐在代表であり、国家権力の代行者でもあり、貿易商社員であると共に外交官でもあった。時代によって異なるが、出島和蘭商館には最高責任者の商館長(カピタン)、商館長次席(ヘトル)、貨物管理者の責任者の荷蔵役、会計総括の決算役、記帳係の書記役、医者(商館医)など15人程度の人、そして彼らオランダ人の身の回りの世話をする東南アジアの人が住んでいたといわれている。長崎奉行の管理下にあったため、通いで勤務する日本人も多数いた。まずは出島に関する事務をする役人・乙名(おとな)、通訳として働くオランダ通詞、火用心番、また抜荷(ぬけに/密貿易)の監視をした探番(門番)、料理人、草切などだ。
 商館長の毎年の恒例行事として江戸参府があった。制度化されたのは寛永10年(1633)で寛政2年以降は4年に1度になった。江戸参府とは商館長が江戸に上り、将軍に拝謁(はいえつ)して献上品を贈り貿易に対する謝意を表す行事のこと。嘉永3年(1850)に廃止されるまでの218年間に166回行われた。片道約50日、江戸滞在も含めて120日に及ぶ大旅行になることもあったという。

探番(さぐりばん):表門の番士(門番)は、抜荷を取り締まるため、体中を探り調べていたことから探番とも呼ばれていた


 
 それでは出島の住人であり江戸参府にも同行、日本と世界の橋渡しをした2人の商館長と3人の商館医の人物像に迫ってみよう。




ドゥーフ肖像画/長崎市立博物館蔵

ヘンドリック・ドゥーフ
(1777〜1835)
 寛政11年(1799)に来日したドゥーフは、5年後に商館長に就任。しかしオランダ東インド会社の解散、本国オランダも一時は併合され再び独立するという波乱。オランダの混乱にともなって出島貿易も衰退、何年もオランダの来航がなくなるという中で、イギリス船フェートン号事件(イギリスの軍艦がオランダ国旗を掲げて入港し職員を人質に交易を迫った事件)も起きた。ドゥーフは商館長として最長である14年を含む19年の長崎滞在中、数々の苦難を余儀無くされた商館長だった。だが、オランダの船が入って来ない毎日、彼は通詞と共に蘭仏辞典を元に蘭日辞典を編集、後の蘭和辞典に大きな影響を与えたという。これらの試練を乗り越えたドゥーフは、出島和蘭商館を守り抜いたとして、オランダ政府だけでなく江戸幕府からも賞賛された。


(出島ホームページより)

ヤン・コック・ブロンホフ(1779〜1853)
 ドゥーフの時代に職員として赴任し、再度、ドゥーフの後任としてやって来たのがブロンホフ。彼は前代未聞! 家族同伴で来日したと大評判になった商館長だ。当時の和蘭商館は商館長以下全員が単身赴任が掟。ところがブロンホフは夫人と共に息子ヨハネス、乳母、召使いなど4人も同伴。もちろん幕府の滞在許可は出ず、全員日本を離れなくてはならなかった。しかし夫人の美しい姿は長崎の画家たちのモデルとなり、長崎版画や工芸品、そして長崎土産としても知られる古賀人形『紅毛婦人(こうもうふじん)』のモデルにもなった。
6年間の商館長時代と合わせ10年滞在したブロンホフは、意図的に日本に関する資料の収集を行い本国へ持ち帰った。彼が持ち帰った植物は、今でも彼の自宅があったアメルスフォールトに日本の森として残されているという。彼の研究の成果は次の商館長ステュレルに同行してきたシーボルトに引き継がれ、江戸時代の日本の民俗資料の宝庫として国立ライデン民俗学博物館に集成されている。


古賀人形『紅毛婦人』



(出島ホームページより)


エンゲルベルト・ケンペル(1651〜1716)
 ヨーロッパ各地の大学で哲学、植物学、医学などを学んだドイツ人のケンペルは、大使館の書記官を経てオランダ東インド会社の船医となり元禄3年(1690)に来日。通詞今村源右衛門を助手として資料を収集した。2年程の滞在で2度の江戸参府に同行し、帰国後、日本の歴史、地理、宗教、政治、風俗、貿易のことなどを詳しく記した『日本誌』を著述。この本はヨーロッパに日本を正しく紹介した最初の本で、彼の死後世界各国で出版されツュンベリーやシーボルトという後の日本研究家に大きな影響を与えた書物となった。他に『江戸参府』『日本外国貿易史』『鎖国論』などが有名だ。


ツュンベリー肖像画・模写
/長崎市立博物館蔵

カルル・ペーテル・ツュンベリー(1743〜1828)
 スウェーデンの植物学者で医師のツュンベリーは、喜望峰(きぼうほう)と日本の植物採集を目的にオランダ東インド会社の医師となり安政4年(1775)に来日した。彼が出島に滞在したのはわずか1年だけ。しかし江戸参府に参加し、途中で植物を採集する一方、各地の蘭学者と大いに交流を深めたといわれている。江戸参府の間に採集した植物は約800種類。ヨーロッパに帰国後『日本植物誌』『日本動物誌』を書いた。短い滞在期間だったが、ツュンベリーが影響を与えた医師には大通詞だった吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)や、江戸の定宿・長崎屋で指導したという『解体新書』翻訳で有名な中川淳庵(なかがわじゅんあん)、桂川甫周(かつらがわほしゅう)などがいる。名前はツンベルクともいわれる。


(出島ホームページより)

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796〜1866)
 西ドイツ生まれの医学者・博物学者のシーボルトは文政6年(1823)、日本の動植物を研究する目的で来日。また、長崎奉行から塾を開くことを許可され、郊外の鳴滝に鳴滝塾を開き高野長英をはじめとした多くの門人たちに医学を教えると同時に動植物の研究を押し進めた。出島だけでなく、市中における日本人の診療も行っている。文政11年(1828)の帰国の際、荷物の中に国禁の地図が発見され罪を問われ国外追放となる(シーボルト事件)。開国後の安政6年(1859)に再び来航。幕府の外事顧問となった。シーボルトが愛した日本女性・楠本タキの名を残すためにアジサイの学名をオタクサ(オタキサン)と名付けて持ち帰ったのはあまりにも有名な話。オランダ・ライデン植物園にはアジサイをはじめ彼が持ち帰った植物が現在も咲き誇っている。著書に『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』がある。シーボルトについて詳しくは2002年2月特集『シーボルトも歩いた道』参照



出島の魅力◆期待される文化遺産出島の復元
長崎市立博物館長 原田博二さん
鎖国時代、出島は幕府が海外に開いた“唯一の窓”として、わが国の近代化に重要な役割をはたしたわけですが、まさにヨーロッパそのものである出島は、向学心にもえる全国の若者達の憧れの的でもありました。このような貴重な文化遺産出島の復元は、その経済的効果は勿論のことですが、文化の振興、海外との交流、さらには新しい街づくりの核としても、その完成が大いに期待されるところです。



〈2/4頁〉
【1.成り立ち〜これからの出島(出島復元計画)】
【2.出島に住んだ人物】
【3.出島での生活】
【4.出島を通した文化交流】