4.出島を通した文化交流


玉突きをするオランダ商館員/長崎市立博物館蔵・川原慶賀『唐蘭館絵巻』

 鎖国期の出島貿易で  世界と日本の歴史が変わった

長崎の伝統料理には今でもこれが効いている?
出島での貿易の最盛期は元禄時代で、日本の銀、金、銅などが輸出され、生糸や砂糖、薬品、香料などが輸入されていた。輸入品のなかで代表的なものの一つが砂糖。出島は別名「砂糖島」といわれるほど輸入した砂糖で溢れていたのだとか。この砂糖、主にインドネシアのジャワ島の砂糖農園で作られたもので、計量ののち取引きされたのだが、その一部は江戸参府の際の贈答品などとして将軍や幕府の役人へ贈られたり、道中お世話になった人々へのお礼、また、長崎でも役人への贈り物とされたのだという。高価で珍重されていたため、長崎に古くから伝わる伝統料理はちょっぴり甘めなのが特徴。このお味、かつて裕福だった証なのだ。

オランダ人から伝わった西洋風の「玉突き」と「羽子板」
出島のオランダ人たちの遊びがそのまま日本に伝わったものがある。ビリヤードやバドミントンだ。ビリヤードが日本に初めて入ってきたのは1790年代の末で、退屈な日々の気晴らしに とオランダ人たちが楽しんでいた遊びだった。そして物珍しさに通詞たちが練習。そこは指先の器用な日本人、たちまち商館員を圧倒したのだという。そして「紅毛羽子板なるゲーム」(紅毛はオランダを指す)と呼ばれたバドミントン。使用人であるインドネシア人が遊ぶ姿が描かれている絵も残っている。現在、ミニ出島がある薬草園跡の庭園内にはバドミントン発祥の記念碑が建てられている。

遊学の志に燃えた若者、続々長崎入り
出島を通して伝わったものといえば、蘭学。将軍吉宗の洋学解禁を境に蘭学はブームとなり、長崎は向上心に燃える人々の新知識を吸収する場となった。シーボルトに代表される商館医を通じて全国の留学生に蘭学や西洋医学が伝わったのだ。長崎遊学を果たした人は500人にものぼるといわれている。主な人物を紹介。平賀源内(本草学者・文人)、前野良沢(蘭学者)、司馬江漢(洋画家・思想家)、小林一茶(俳人)、高野長英(医師・蘭学者)、渡辺華山(蘭学者・日本画家)、吉田松陰(長州藩士)、福沢諭吉(啓蒙的蘭学者・慶応義塾の創立者)、勝海舟(政治家・幕府海軍創設者)、伊藤博文(政治家)、高杉晋作(長州藩士)、大隈重信(政治家・早稲田大学の創設者)、坂本龍馬(土佐藩出身幕末の志士)、岩崎弥太郎(三菱財閥の創立者)、西郷隆盛(政治家)。

奇獣珍鳥も続々渡来「出島動物園」
出島は「出島動物園」と称されるほど多くの動物も渡来した。ゾウ、ラクダ、虎のような奇獣珍鳥は珍しがられて多く渡来したのだという。文政4年(1821)に来航したオランダ船には2頭のラクダが積み込まれていたという。和蘭商館としては将軍がきっと高額で買い上げると目論んでいたのだろうが、将軍は無用との返事で、やむなく当時の商館長ブロンホフは引田屋の遊女・糸萩にプレゼントした。当然遊女は飼うことが出来ずラクダは見世物小屋に売却。全国を興業し人気を博したのだとか。



ラクダ図/長崎市立博物館蔵・長崎板画
出島では火食鳥や七面鳥、オウムなどは放し飼いになっていたという。また江戸中期にはかなりの数の外国鳥が日本に入ってきていて、特に九官鳥はシーボルトも飼っていたのだとか。オウムに教え込む人語の代表“オタケサン”はシーボルトが九官鳥に教えた“オタキサン”(シーボルトの妻・楠本タキの名)が原形だといわれている。これら出島に渡来した動物を実際に描いたり、またはタネ本から模写したりする絵師がいた。シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀は言わば異国人側で、対する幕府側の絵師として出島から流れ込んでくる事物・動植物を描く仕事に従事していた荒木元慶(あらきげんけい)、広渡湖秋(ひろわたりこしゅう)という絵師もいたという。出島に出入りできる絵師・川原慶賀は江戸参府にも同行。膨大な数の絵を描きビジュアル的に日本文化を世界に広めたのだった。

火食鳥(ひくいどり):ダチョウのこと
タネ本: 1800年頃に描かれた増山正賢(灌園、雪齋)の「百鳥譜」などのこと

今ではすっかり日本語として定着
最近日本語化している外来語はそのほとんどが英米語だが、長崎開港当時から明治の半ばまではポルトガル語、オランダ語、スペイン語が日本人に吸収され、消化されて今では日用語として普通に使われているものが多かった。ポルトガル語では、タバコ、カルタ、ボタン、テンプラ、ベランダなど。面白いところでタント(沢山にという副詞)というのもある。「たーんと食べなさい!」はポルトガル語からきているとは驚き! オランダ語ではラケット、ペンキ、スコップ、ガラス、カメラ、レンズ、コルク、チョッキ、ソーダ、コーヒー、チョコレート、ドロップ、ハム、スポイト、メス、コレラ、インフルエンザなどなど。オテンバ(お転婆)というのもオランダ語なのだそうだ。オランダから伝わった言葉に医学や化学系統の言葉が多いのは、西洋医学が出島を通じて日本に入ってきた証でもあるのだ。

食文化も出島から
出島から伝わったものに西洋料理、南蛮菓子、パンなどの西洋の食文化がある。グラバー園内、旧自由亭側に「西洋料理発祥の地」の碑があるが、そこには初めて西洋料理が日本に伝わったのはポルトガル船の来航で、味と技は鎖国時代の出島和蘭商館からもたらされたものだと記されている。日本で初めて西洋料理店(良林亭のちに自由亭と改称)を開いたのは長崎出身の草野丈吉で、出島和蘭商館の専任コックを務めた経験を持つ人物だった。出島南蛮渡来のお菓子といえば、現在の長崎の銘菓・カステラ。現在長崎に伝わるカステラはポルトガル人によって伝授された製法のものだが、初めは長崎開港の頃、スペイン人によってもたらされたのだった。カステラは出島和蘭商館のオランダ人も食べていた。ほかに金平糖(コンペイトウ)もある。そしてパン! パンは天文19年(1550)、ポルトガル船が平戸にもたらしたもので、長崎に来たのは出島が築造された和蘭商館になる以前の寛永13年(1636)頃、出島に出入りする商人がポルトガル人から伝授された。当時日本人はパンのことを「アンなし饅頭」と呼んでいたのだとか。

ヨーロッパの美術館や宮殿に古伊万里?
普通海外にある日本の美術品は、明治以降に流出したものがほとんどだが、「古伊万里」や「柿右衛門」といわれる日本の焼物は江戸時代にヨーロッパに渡ったもの。これは出島に駐在したオランダ東インド会社の商館員が帰国の際に日本土産として個人的に持ち帰ったものではなく、商品として大量に輸出したものなのだ。17世紀後半から18世紀、ヨーロッパの王侯貴族の宮殿では大小の壺や皿を壁面のいたるところに配置した「ポースリン・キャビネット(陶磁の間)」というものが大流行した。日本人と違い、美術品である焼物を部屋のインテリアの素材として楽しんだのだ。当時ヨーロッパの人々にとって透明度のある東洋の磁器は憧れのもので、彼らの嗜好に合わせた磁器をオランダ東インド会社が日本に注文。すでに江戸時代、受注、生産、納品という貿易活動が出島で行われていたのだった。ちなみにオランダ船内や出島で使われていた食器なども古伊万里。コンプラ瓶と呼ばれる醤油瓶や酒瓶、VOCのマークが入った染付皿も出島で出土した。


(出島史料館蔵)


(出島史料館蔵)



出島の魅力◆見ただけではわからない出島の魅力を伝えます!
ボランティアガイド 長谷川正彦さん
扇形の出島が残っていると期待して来られる観光客の方々は、まだ復元途中の出島にがっかりして素通りされる方が多く、本来の出島の魅力が伝わらないのが残念です。鎖国時代、出島があったからこそ日本が伸びていった、出島を経由して様々な文化が日本中に広がったということを感じて欲しいものです。私たちボランティアガイドがご案内致します。長崎に来られたら、ぜひ、出島に立ち寄って下さい。



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【1.成り立ち〜これからの出島(出島復元計画)】
【2.出島に住んだ人物】
【3.出島での生活】
【4.出島を通した文化交流】