長崎料理の基本は“和華蘭”、ターフル料理

そんなこんなで、長崎ではポルトガル船が港に停泊した1600年代初頭、教会が建ち並び、何軒ものパン屋があり、牛肉をさばく人もいた。中国からは野菜や鶏などが持ち込まれ、すでに海外の食文化が花咲く町となっていた。しかし、キリスト教禁教、鎖国対策をとるにあたり、奉行所は、出島のオランダ商館員達に対し「長崎に入港してくるオランダ船の積み荷の中にある食品のうち、牛肉、塩豚肉、アラク酒、イスパニヤの葡萄酒、オリーブ油その他、キリシタンが通常使用するものを日本人、支那人に売渡すこと、贈寄することがあってはならない。そして日本の牛を殺して食べることも禁止する。」と言い渡す。キリスト教に関係があるパン屋は廃業させられていたが、奉行所はオランダ人の願いを聞き入れ、絶対に日本人に売らないという条件付きでパン屋を一軒だけ残した。そして、豚肉と鶏は来航してくる唐人船の人達の食料として必要だったため、長崎周辺の農家で飼うことを許した。牛は、年に一度、バタビヤから入港してくるオランダ船に牛を積みこんで出島に運んだという。

また、日本で唯一の海外貿易地であった土地柄から、長崎経由で国内に伝わった農作物は数多い。そう、出島のオランダ人の食用として渡来した野菜達だ。しかし、16世紀末から17世紀にかけてオランダ船によって渡来したジャガイモやキャベツ、トマトなどは、当初は鑑賞用、つまり、単に花を愛でるような植物扱いだったというから驚き。キャベツは、野菜として栽培されるようになったのは明治以後、「オランダなすび」と呼び、高級視されていたトマトも急速に需要が伸びたのは昭和に入ってからだという。

この頃、出島の商館員達が食べていたのが「ターフル料理」。もともとターフルとはテーブルのことで、西洋同様に椅子に腰掛けテーブルで戴く料理。意外にも日本人目線の料理名だということが伺える。オランダ屋敷内には、もちろん本国から連れられてきた料理人もいたが、日本人の料理人が3人いて、彼らは「出島くずねり」と呼ばれた。江戸散府にも同行していたこの出島の料理人達こそが、やがて、私達一般庶民が口にするところの「西洋料理」を伝えた人達につながっていると考えられているのだ。

旧グラバー住宅内、大食堂に再現された
「出島和蘭正月料理」
 
 ターフル料理の謎●オランダ正月が庶民の味に?

出島のオランダ人は、年に一度、西暦の一月一日に出島出入の地役人を招きオランダ風の洋食でもてなした。長崎の人達はこれを「オランダ正月」と呼んだ。
当然、豚やアヒル、鶏の丸焼きなどの肉料理からスープ、サラダ、デザートまでを習得した3人の日本人料理人「出島くずねり」が調理。さぞ、長崎の地役人、オランダ通詞、丸山遊女達の舌を唸らせたのだろう、と思いきや、当時のオランダ人の日記には「お客によばれた日本人はオランダ風の料理には殆ど手をつけず、懐より大きな紙をとりだして包むと、大急ぎで出島の門の所に走って行き、門の外に待たしておいた家来にその料理を渡し、再び宴席に戻り、今度は日本式の料理をたべて帰る」という状況だったと記されているという。
川原慶賀筆『唐蘭館絵巻・宴会図』
長崎歴史文化博物館蔵

ここで2つ分かることがある。それは、日本人料理人が作っていただけに、ここですでに日本、中国、西洋料理が入り混ざった料理が出来上がっていたということ。そして、おいしく珍しい料理を下々(しもじも)の者や家族にも味合わせていたということ。すると、もちろん家庭の主婦は、材料さえ手に入れば、味を再現していたかもしれないし、「もどき料理」を作ったかもしれず。長崎庶民の舌は、もしかしたら、この頃から多国籍仕様になっていたかもしれない。


隠元禅師が伝えた中国の精進料理、普茶料理

オランダ商館が出島に移され、鎖国体制が整ったのが、寛永18年(1641)。それから13年後の承応3年(1654)、一人の唐の高僧が渡来する。隠元禅師だ。 「いんげん豆」でその名を知られる隠元禅師は、いんげん豆のほかにもレンコン、ナスビ、もやし、すいか、なし、煎茶文化などを日本に初めて持ち込んだ。そして、もうひとつ、卓袱同様の円卓を囲んで戴く中国の精進料理「普茶料理」だ。中国の精進料理というと、一般庶民に馴染むこともないかと思うが、普茶とは、「普(あまね)く大衆に茶を施す」という意味で、普茶料理は、法要や彼岸などの行事後に僧侶や檀家が一同に介し、茶を飲みながら重要事項を協議する茶礼に出された食事が原型となっている。素材は、葛や大豆など植物性食品を使い、なかには、それを動物性の材料を使った料理に真似た「もどき料理」もある。

例えば、わらび粉を練って薄くのばし形成して油で揚げれば豚肉もどき。鶏肉は、くわいをすりおろして味付けして丸め、油で揚げる。卵は、豆腐をクチナシで黄色に色づけ。鰻の蒲焼きは……というように、目にも舌にも驚きと喜びを与えてくれる料理なのだ。また、中国の五行説でいう五味(酸、苦、甘、辛、鹹(塩辛い))や、五色(緑、赤、黄、白、黒)の考え方が重んじられ、食す人の心が和む調理法が施されているのが特徴。ごまや植物油を使うことで、栄養バランスの取れた、まさに医食同源の模範となるような料理だ。
普茶料理は、長崎市内にある黄檗宗の寺院、寺町の興福寺、玉園町の聖福寺で味わうことができる。

日本で最初の唐寺、興福寺の普茶料理
 
 普茶料理の謎●「トロクスンの蜜煮」ってどんな料理?

隠元禅師が伝えた野菜の中に、通称「白いんげん豆」や「大福豆」「白花豆」と呼ばれるトロクスンがある。普茶料理にも「トロクスンの蜜煮」なるものがあり、これは、後述する卓袱料理や、はたまた長崎のおせち料理には欠かせない一品。この「トロクスン」の語源をご存知だろうか? 一瞬、外来語かと思いきや、文字にしてみれば「十六寸」と書く。十個並べると、六寸あることから、十六寸…とろくすん…トロクスン。尺貫法で一寸は3.3cm。十個並べて六寸ということは、一個約2cmの大きさの立派なお豆。これらの豆が、隠元禅師が入山した日本で最初の唐寺、興福寺の庭で育てられた。


トロクスンの蜜煮

粋な命名にはじまり、一目で手間と愛情が注がれた一品だと見て取れる、砂糖たっぷりの「トロクスンの蜜煮」は、まさに長崎料理の代表格といえる。

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