池長美術館にて
(神戸市立博物館所蔵)
開港からオランダ通商時代の長崎を題材に描かれた「南蛮屏風」や「長崎版画」などの絵画は「南蛮美術」と呼ばれています。南蛮美術品と聞いて、まず思い浮かべるのが「神戸市立博物館」。質・量共に驚くほど充実しているからです。「バンザイして走る南蛮人」や「手を胸に天を見上げるザビエル」といったお馴染みの絵は、すべてこの博物館の所蔵品。しかし考えてみると、絵の題材になっているポルトガル・オランダ・中国と貿易していたのは長崎港です。神戸港が世界に開かれたのは、安政5年の開港からさらに10年後の慶応3年(1867)のこと。なぜ南蛮美術と直接関係のない神戸の博物館に、これだけの南蛮美術品が集まっているのでしょうか。今回はその謎にせまります。
『象』大和屋版
(神戸市立博物館所蔵)
あらためて「南蛮美術って何?」と聞かれたら説明に困るのではないでしょうか。そもそも「南蛮」とは何でしょうか。語源は中華思想にあります。中華思想では、世界の中心は中国(漢民族)にあり、その周辺の異民族を「東夷(とうい)」「西戎(せいじゅう)」「南蛮」「北狄(ほくてき)」と呼んでいました。南蛮とは「中国の南側に住む野蛮人」という意味を持つ蔑称で、日本では主にカトリック教徒のポルトガル人やスペイン人をこの名称で呼びました。したがって南蛮美術とは、ポルトガル人に関連した美術ということになります。そうするとオランダ人が描かれた「長崎版画」は南蛮美術とは言えませんね。日本では、プロテスタント教徒のオランダ人やイギリス人は「紅毛人(こうもうじん)」と呼び分けていました。「毛が紅い西洋人」ということから付けられた名称のようです。したがって正確に言えば「南蛮・紅毛美術」ということになります。
それでは南蛮美術を簡単にご説明しましょう。神戸市立博物館の前身である市立神戸美術館が昭和30年(1955)に発行した『南蛮美術総目録』の冒頭、「南蛮美術とは」で次のように定義づけています。
1、日本人の作品である。西洋人南洋人等の作品ではない。
2、外国すなわち欧米や中国と関係の深いもの。異国趣味の品
3、美術品である。文献類は少ない。
時代としては、以下のように2期に分かれています。
第1期 切支丹時代 天文12年(1543)~寛永14年(1637)
第2期 長崎通商時代 寛永15年(1638)~慶応3年(1867)
描かれた地域も1期と2期で以下のように分けられました。
第1期 近畿地方・九州方面
第2期 長崎・江戸・須賀川・秋田・上方等各地
上記のように定義した市立神戸美術館の『南蛮美術総目録』ですが、この目録には実に4444点もの南蛮美術品が掲載されています。言い方を変えると市立神戸美術館の収蔵品は「南蛮美術だけ4444点」ということです。美術館によって収蔵品の得意分野があるのはわかります。例えば長崎県美術館でしたらスペイン美術を多く収蔵していますが、それ以外のジャンルも幅広くコレクションしています。ところがどうでしょう、昭和30年時点の市立神戸美術館は「南蛮美術のみ」と完全限定。これには理由がありました。市立神戸美術館には前身になる美術館があったのです。その名は「池長美術館」。池長孟(いけながはじめ)という一個人の、私営美術館だったのです。
一体、池長孟とはどういう人物だったのか。なぜ南蛮・紅毛美術品をこれほどまでに蒐集(しゅうしゅう)したのか。また、どういう過程で「私立」が「市立」になったのか。この興味深いプロセスに関しては『金箔の港 コレクター池長孟の生涯』(高見澤たか子著)と『南蛮堂コレクションと池長孟』(神戸市立博物館)に詳しく記録されています。これらの資料を手引きに、南蛮美術品が神戸に集まっていく過程をたどってみたいと思います。
孟は、周りの人から「瓦屋(かわらや)のぼん」と呼ばれていました。では、実家が瓦屋だったのかといえば、それは祖父吉左エ門の時代(幕末から明治初期)までの話で、瓦屋は明治5年(1872)に廃業。その後は、兵庫一帯の土地を買い入れて土地家屋貸付業に転向。いわゆる地主になって財を成しました。孟の父、通(とおる)は、神戸市議会議長まで務めた政治家で「カミソリ」と呼ばれるような、頭の切れる人物でした。神戸市に上水道を敷設(ふせつ)する事業などに取り組んだといいます。晩年は教育事業に専念、小学校の建設に尽力しました。神戸市でもっとも古い小学校の講堂が、改築のため取り壊されそうになった時のことです。通の「保存すべきだ」との熱心な訴えが実り、会下山(えげやま)遊園地内に移築が決まりました。その際、移築費用の大半は通が負担したそうです。旧講堂は「正元館(しょうげんかん)」と名付けられ、通は初代館長に任命されました。しかし、それから2年後の大正3年(1914)、持病の心臓発作に襲われて、56歳の若さで亡くなってしまいました。孟が24歳の時のことです。
「瓦屋のぼん」などと呼ばれた孟ですが、決して「坊ちゃん風」のひ弱な男だったわけではありません。体は大きく、中学時代は剣道と水泳に打ち込むスポーツマン。同時に文学好きの友人を自宅に招いては、俳句や詩について語り合う文武両道の少年でした。神戸中学校から第三高等学校と進み、父の通が亡くなった年に京都帝国大学法律科に入学。この大学時代、孟は世間の度肝を抜く偉業を行いました。大正5年(1916)12月18日、朝日新聞社会面の見出しをご覧下さい。
「不遇の植物学者、苦心の標本も売る羽目に」
不遇の植物学者とは「植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎(とみたろう)のことです。大きな借金を抱え「30年間蒐集した植物標本10万点を売るしかなくなった」という記事でした。記者に対して牧野は、次のように話しています。
「外国へ出しても珍しい標本が随分あるから、二万や三万の金は出来る訳だが、僕の集めた標本の価値を認めて、この急場を救ってくれる富豪が日本にあるかどうか。出来る事ならば散逸せず、なるべく一箇所に纏めて、標本館でも設立して欲しいものだ」
こうした牧野の呼びかけに、2人の富豪が名乗りを上げました。1人は日立製作所の設立者で、後に政治家になり、田中義一内閣の時に大臣を務めることになる久原房之助(くはら ふさのすけ)。そしてもう1人が京大の大学生、池長孟でした。孟は記事を見て即断、大阪朝日新聞の社会部長を訪ねて「援助」の意志を告げたのです。ちなみに、孟が訪ねた社会部長は、大正デモクラシーを代表するジャーナリストで批評家の「長谷川如是閑(はせがわ にょぜかん)」でした。大正6年(1917)1月3日の大阪朝日新聞に「篤志家は法科大学生」という見出しが踊り、牧野と孟が並んでいる写真が掲載されました。牧野は孟を選んだのです。孟は牧野の3万円の借金を肩代わりして、植物標本の散逸を救いました。さて、この当時の3万円とは、現在の価値に換算するといくらになるのでしょうか。日本銀行のホームページに「昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか」というコーナーがあって、企業物価指数を使った計算式が示されています。あくまでも「めやす」としてですが、実感しやすいように換算を試みました。大正6年の3万円は平成27年の指数で計算すると747倍になって、なんと約2,240万円に。この大変な金額を支出した孟、この時まだ26歳という若さでした。
大正6年(1917)9月、孟は京都大学で法律を3年間学んだ後、今度は文学科に再入学しました。そしてその2ヶ月後、見合い結婚。相手は、荒木村重を祖先に持つ名家のお嬢さん「荒木正枝」です。荒木村重といえば、織田信長に反旗を翻したことで有名な戦国武将ですが、その側近にはあの有名なキリシタン大名の高山右近がいました。後に南蛮美術のコレクターになる孟との因果を感じます。
大正7年(1918)、孟は植物の標本10万点を、かつて父が移築に関わった「正元館」に運び込み、ここで「池長植物研究所」を開館することにしました。この建物は父の通が亡くなった時、その功績を記念して池長家に譲渡されていたのです。開館式は兵庫県知事や、市内の学校長など、多くの関係者を招いて3日間に渡っておこなわれました。翌日の新聞に「珍味奇肴で驚かした池長植物研究所の開所式」という見出しが出ました。宴席の卓に「植物の珍味の漬物」「西洋の草の実」というアイデア・メニューを出して出席者を驚かせたのです。それだけではありません。記念品として配った絵葉書は3枚1組の3種類で、内1組は孟自らが描いた絵をベースにデザイン。会場の「設営」「料理」「記念品」もすべて孟が手配しているのです。研究所内に「図書館」をつくる際は、牧野から新たに6千円<約320万円>で買い取った書籍にプラスして、自らも関係書を買い集めました。そろった本の「整理」「分類」「配架」もやはり孟。自分の「文学的」「芸術的」美的感覚を駆使して、牧野富太郎の標本・書籍コレクションを、より良いものにブランディングしようとしたのです。これはいわゆる「プロデューサー」の仕事。大正時代、既にこれほどの感覚を持っていたことに驚かされます。
植物研究所の開所式が行われたのが、大正7年(1918)10月31日。それからわずか1カ月後の12月1日、孟は、陸軍予備幹部の補充を目的とした、姫路歩兵第三九連隊に「一年志願兵」として入営しました。牧野の援助を名乗り出て、正枝と結婚、植物研究所をプロデュースして、軍隊にはいって…、わずか2年の期間でなんと目まぐるしい人生。
それにしても「上官の鉄拳制裁」のようなものを想像する階級制度厳しい軍隊に、「お金持ちのぼん」はどのように迎えられるのでしょう…。そこはさすが質実剛健を地で行く孟。「乱暴な古参兵さえも池長には遠慮がちだった」「積極的に改革案を提案して、上官によく意見を取り上げられた」と同期入営の仲間は後に回想しています。
大正9年(1920)11月、長男の澄(きよし)が誕生しました。一年志願兵ですから除隊まであと1カ月、実にいいタイミングです。しかし孟は「幹部候補生」としてさらに延長して兵舎に住み続けたのです。どういう心境だったのでしょうか。しかし大正10年(1921)5月、「召集解除」になり除隊しました。この時、孟は30歳。
紅塵秘抄
(個人蔵)
軍隊を除隊して自宅に戻った孟は「幹部候補生」から一転、花街柳原で飲み騒ぐ「兵庫の旦那はん」になりました。多くの芸者が孟のまわりに集まっていたそうです。というのも、柳原には池長家の貸家が90数軒もあり、周知の大地主でしたし、しかも人柄が良く遊び上手とくれば、人気がでないわけがありません。友人の1人が芸者に囲まれる孟を見て驚き、そして羨(うらや)んだといいます。しかし本人は、どこか満たされないものがあったはずです。なぜならば、孟にはプロデューサー気質があるのですから、芸者遊びで満足できるわけがありません。それならばもっと「植物研究所」に取り組めばいいようなものですが、これがまったく駄目なのです。開所式をしたはずの研究所ですが、実は閉まったまま。というのは、ノンビリ屋の牧野は、いっこうに標本の整理をしなかったのです。
孟は、父の後を継いで神戸市の「学務委員」という名誉職についていましたが、実に退屈な仕事でした。刺激がない日々の中「自分の進むべき道はどこにあるのだろう?」と心の中で自問自答をする毎日。そんなある日、孟の「文学熱」に火がつきました。大正10年(1921)9月、『紅塵秘抄(こうじんひしょう)』という今様集を自費出版。「今様」とは、平安時代に流行した日本歌曲の一形式。「いろは四十八文字」などが有名です。このタイトルは、後白河法皇が編さんした今様歌謡集成『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』のオマージュ。あえて「今様」というスタイルをとったことや、本のタイトル、自ら手がけた装丁などに、孟の文学的志向がうかがえます。
〝春の悲哀〟
アルカリ性と酸性は フラスコの中にて溶けにけり
春の弥生のかなしみは フラスコの中より生まれけり
〝狂人言〟
わしから見れば世の中の 正気の者こそ間違へり
列車は動くものならず 須磨や明石が走るなり
〝三越〟
紅のもみうら緋ぢりめん きぬをさく音たたむ音
きらびやかなるさんざめき 春はここにぞあつまりぬ
〝蛙(かわず)〟
古今集にほめられて 芭蕉の翁を悟らせし
蛙なりけり田の泥に まみれてぎゃあぎゃあなきしきる
〝世相〟
れんげがのびればたんぽぽは こっちへ来るなと肱(ひじ)を張る
菫(すみれ)の花が泣き出せば 慰めにかかる鬼薊(おにあざみ)
『紅塵秘抄』の中から抜粋
ちょうどこの頃でした。父の通と親しかった神戸財界の武岡豊太が、孟を自宅に呼んで、いきなりこう言いました。「なあ、池長君、これはあんたが買うたらどや。あんたに持たせよう思てとっておいたんや」武岡が買うように勧めているのは、歌川広重の「東海道五十三次」保永堂版。「この宝物、しっかりつなぎ止めとくんが社会に対するわしらの務めや、人間それぞれの持ち分で社会に奉仕するこっちゃで」という武岡の言葉は、後の池長の「蒐集(しゅうしゅう)人生」の大義になりました。この時、孟31歳。
池長孟
(神戸市立博物館所蔵)
「君、洋行しないか?」
孟は中学の同窓生、畑 徳二郎から声をかけられました。「洋行しないか」とは「欧米に旅行に行かないか」という意味です。飛行機が主流の現在の感覚では、ちょっと事の大きさが想像できないかもしれませんが、大正時代の海外旅行は船。大変な時間とお金がかかる大事だったのです。徳二郎の友人、品川良造が洋行したがっているが「1人では淋しいから」一緒に行ってくれる人をさがしている、というのです。ようやく除隊して、やっと子供と妻と一緒に暮らし始めたばかり。普通だったら断る話だと思うのですが…、お察しの通り孟は大正11年(1922)4月、神戸港を出航しました。ホノルル、ロサンゼルス、ニューヨーク、ロンドン、パリ、スイス、イタリア、オーストリア、ドイツ、ベルギーを巡りパリに戻った時、妻から「もうすぐ子供が生まれる」との知らせが手紙で届きました。それで孟は急遽帰国、日本に着いたのは11月でしたから、8ヶ月にも及ぶ大洋行でした。孟にとってこの経験は、これからの人生において、大きな意味を持つことになりました。各国の一流美術館を巡り、数々の世界的名画を鑑賞したことで「芸術と共に生きる」今後の進むべき道が見えてきたのです。この時、孟32歳。
大正12年(1923)10月。孟は私立育英商業学校の校長に就任しました。どうして、そんなことになるのでしょう。創立者で前校長の庄野一英(かずひで)が急逝したことで学務委員だった孟に、お鉢が回ってきたのです。孟自身「人間の運命というものがいつどんな風に展開するものであるか全くわからないという事を今度しみじみと味わった」と語っています。嫌々引き受けた仕事でしたが、次第に学校教育にのめり込んでいきました。しかし孟の教育はかなり自己流。実業学校には一般教養が欠けているとして、自ら授業を受け持つのですが、その内容というのが丸々1年かけてフランス革命だけを教えたり、全校生徒を講堂に集めてレコードで名曲をかけながら1曲1曲解説したり。朝の朝礼にしても「きょうはめでたい天長節である。陛下の万歳を三唱する。バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ」とわずか30秒で終わり、「近代人になろうと思えば、ダンスをしなさい。映画を大いに見なさい」と補導されそうなことを生徒に勧めます。極めつけは昭和10年の甲子園決勝戦のエピソード。ラジオで試合経過を聞く孟の口から出た言葉は「勝ったら困る、勝ったら困る」。優勝してしまうと、校長として祝勝会に駆けつけなくてはならないことが嫌だったのです。試合は9回相手校が得点して育英が敗れました。池長はホッとした顔をして「さあ、これからダンス行こ」と周りの友人を誘ったといいます。いやはや、なんとも型破りな校長先生ではありませんか。この時、孟33歳でした。
「帝国在郷軍人会」をご存知でしょうか。つまり、有事の際は軍人として軍に駆けつける、在郷している軍人のことです。陸軍大臣だった田中義一の意向で、軍人会に「新たな使命」がもたらされました。青少年の訓練です。子どもの頃から、軍人としての心得と体づくりを教育せよというお達しです。帝国在郷軍人会の会員であり、育英の校長であった孟に、その具体案が任されました。孟は、剣道の教練所をつくることを思いつきます。適当な建物が無かったことから、自らの土地とお金を使って、鉄筋コンクリート3階建ての教練所の建設に乗り出します。孟の頭のなかには、現在身ごもっている妻の正枝に、男の子が生まれるであろうことも予測していたのかもしれません。大正14年(1925)9月21日、予想通り次男の廣(ひろし)が生まれました。しかし同時に、予測できていなかった事態も起こりました。正枝の産後の体調が悪化したのです。病状は回復することなく12月2日正枝は死去。孟は、生まれたばかりの乳飲み子と3歳と5歳、3人の子どもを抱え「呆然とした」といいます。
正枝の初盆が終わった頃、剣道の教練所が完成。剣道の道場に、図書室を備えた鉄筋3階建てで「蒼松館(そうしょうかん)」と名付けられました。孟は自ら、毎日のように竹刀をふるって後進を指導し、ただただ剣道に打込む孟を見て「心の痛手は尋常なものではないことが推察された」と友人の小穴忠実は後に語っています。孟が美術品の蒐集に興味を持ったのはこの時期。買っていたのは、気に入った有名作家(デュフィ・林重義・藤島武二他)の洋画で、まだ集め方に一貫性はありませんでした。
大正15年(1926)、1人兵庫の家を出て、神戸の山の手にある上筒井(かみつつい)に引っ越しました。後添えの件で、母のしまと喧嘩になってしまったのです。その後、1年以上かけて家を建てるべく土地を探します。そして野崎通4丁目の屋敷町に理想の場所を見つけました。そしてこの時期、淀川富子という女性と知り合います。富子は当時、神戸の福原口で「オリオン」という喫茶店を経営していましたが、元々は柳原の芸者の娘でした。親が決めた結婚が気に入らず直ぐに離婚。芸者をするも、客と喧嘩してわずか5日でやめてしまったそうです。実弟の長治は、「この姉は男ならヤクザになっていたかもと思うほど気の強いところがあった」と自伝のなかで回想しています。もう、お気づきでしょうか。そうです、富子の弟は「それでは次週をご期待ください。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」でお馴染みだった、映画解説者の淀川長治(ながはる)。そんな富子と孟は出会い恋に落ちました。この時、孟36歳。
魯西亜船
(神戸市立博物館所蔵)
長男の澄の扁桃腺が腫れていたので、孟は大阪の病院に入院させることにしました。夕食後、病院の近所を散歩していた時のことです。「べにや美術品店」という古美術屋のショーウインドーに陳列されていた絵が、孟の目に矢のように刺さりました。肉筆の「蘭船」「唐船」です。すぐにも店に飛び込みたかったのですが、あいにく閉まっており、翌日もう一度出直しました。その時のことを孟はこう書き記しています。
「ここで見せられたのが、バッテイラ渡海図と魯西亜(ロシア)船図であった。長崎絵なるものが私の目に触れた始めである。併し当時私はまだ長崎版なるものを知らず、これが長崎版であることも知らなかった。又(べにや美術品店の)親爺もそんなことを説明もしなかった。値段を聞くと二十五円に三十円だという。糞高い無茶なことをいう奴だと思った。そう思いながらも買い取ったのはどういうわけであったか。…これが昭和二年八月十一日の出来事であった。…これが抑々南蛮紅毛趣味の病菌に感染した最初であった」
<自筆備忘録>
購入した長崎絵の金額を現在の価値に換算すると、二十五円は約1万6千円、三十円は約1万9千円になります。孟は「糞高い」と言いましたが、現在、肉筆の長崎絵を買おうとしたら、とてもとてもこんな金額では買えません。まだ南蛮美術が美術界で評価される前の、幸運な買い物でした。
在郷軍人の孟は9月から「勤務演習」に召集されて、大阪師団司令部の経理部に通う事になりました。そんなある日、道頓堀の方へ歩いていたところ「杉本梁江(りょうこうどう)堂」という古書店のショーウインドーに、何やらエキゾチックな絵が陳列されているのを発見。孟は軍服姿のまま直ちに入店し、店の主人である杉本に「南蛮・紅毛関係の絵はないか」と訊ね「長崎見聞録」「三国通覧図説」を購入しました。杉本が「またすぐにそろえる」と言うので翌日また行ってみると、そこには長崎版の「蘭船図」「蘭人饗宴図」が用意してあったのです。これで、長崎版(長崎版画)が多数存在することを知った孟は「もっと長崎絵を集めてくれ」と要求。杉本はあらゆる人脈を使って多くの「長崎版」を集め、孟は片っ端から買いあさっていくのです。
「私の蒐集慾(しゅうしゅうよく)は勃然とここにそのハケ口を見出し、且つ統一されて、主として長崎絵に熱中することになったのである。九月の十一日までほんの僅かの間に千六七?百円の買物をしたのだから、杉本にしてみれば、これは奇妙な兵隊さんだと思ったのも無理はなかろう。実に昭和二年の勤務演習は、師団司令部に通ったというよりも、古本屋杉本に通ったのである」
<自筆備忘録>
千七百円を、現在の価値に換算すると約110万円。南蛮美術の蒐集家(しゅうしゅうか)がここに誕生しました。この時、孟37歳。
昭和3年(1928)12月、野崎通に「紅塵荘」と名付けたスパニッシュ・ゴシック様式の豪邸が完成しました。設計は住友の技師、小川安一郎。孟がこだわり抜いた鉄筋3階建てです。子ども達も全員兵庫から呼び寄せ、新しい母になる富子と5人の暮らしがはじまったかと思いきや…。翌年の2月、孟と富子はささいなことで喧嘩になり、富子は紅塵荘から出て行ってしまいました。
「新宅に三年もかけ、この豪邸の出来上りとほとんど同時に姉のいっぽう的な喧嘩別れというあわただしい勝手きままの別れがやってきた。三人の子供は姉になつき姉のいうがままの豪邸であったのに、姉はこの屋敷がいんきで暗いと怒り自殺未遂事件までおっぱじめ、池長氏にさんざんめいわくかけて二人は別れたのであった」
<淀川長治自伝>
富子と別れた痛手を、孟は「戯曲(ぎきょく)集」の執筆にぶつけました。昭和4年(1929)に『荒つ削りの魂』、翌年に『開国秘譚』の2冊を出版。この頃、作家になる野望も持っていたようです。神戸の著名人が集まる「アカデミー」というバーで谷崎潤一郎と親しくなり、著作を進呈しあう仲になったのもこの頃。孟40歳の時です。
戯曲を書いている間も、着々と「長崎絵」の蒐集は行われ、昭和6年(1931)にはほぼコレクションが完成しました。そもそも「長崎絵」とはなんでしょうか。文字通り「長崎を題材に書かれた絵」なのですが、作者が直接筆をとった「肉筆画」もあれば、「木板」や「柿渋紙」を用いて「版」を彫り摺って量産した「版画」もあります。いわゆる「長崎版画」。孟は、長崎絵の定義について『南蛮美術総目録』の中で次のように解説しています。
1、江戸絵が「歌舞伎俳優」や「遊女」などを題材としたのに対して、長崎絵は異国趣味に基調をおいている。
2、板元では「針屋」が起源だが。明和期(1764-71)から「富島屋(豊島屋)」、享和期(1801-04)から「文錦堂」「大和屋」が活躍し沢山の作品をつくった。その他にも「扇屋」「島原屋」「今見屋」「牛深屋」「梅香堂」「縄屋」などの板元も存在した。
3、絵の原作者は署名のないものが多いため不明なものが多いが、僅かであるが川原慶賀や磯野文齋の佳品がある。
4、初期のものは支那版画と区別がつかないほど類似している。中国から「絵師」「彫師」「摺師」が来たと考えられる。特に「富島屋」の版画。
5、江戸の絵に比べて長崎絵は、技巧が稚拙であるが、却ってそこに味わいがある。色版のズレや、更紗のような色彩感覚に愛すべきものがある。
6、染物屋のように厚紙をくりぬいたところに、刷毛で色をすりつける「合羽摺り」は、江戸絵には絶対ないが、上方絵には見られる。
7、大和屋の主人、磯野文齋は、長崎版画に江戸絵の精巧な技術をもちこんで、長崎絵の面目を一新したものの、それ故にあの特殊な味わいが失われた。
8、絵の種類は400種類ほどあろうか。大部分は入手困難な珍品である。
神戸大丸長崎絵展覧会
(神戸市立博物館所蔵)
昭和6年(1931)、蒐集に一定の目処がついたと判断した孟は、神戸の大丸デパートで3日間、長崎絵の展覧会を開催しました。この展覧会がきっかけになって、新村出(言語学者)、黒田源次(心理学者・美術史家)、西村貞(美術史家)らと出合うことに。広辞苑の監修者としても有名な新村出から、まだ蒐集できていなかった長崎絵の絶品「針屋版三枚」を譲り受ける幸運にも恵まれました。これで「長崎絵」はほぼコンプリート。蒐集も打ち止めか…。いえいえ、孟はさらに上のステージに進んでいったのです。西洋人を描いた長崎版画は、先にも述べた通り明和期の作品ですから18世紀に描かれたものです。ところが、日本に西洋人がやってきたのはもっと昔の16世紀。「この時代には、どのような絵画作品があったのだろう」と考えたのです。孟はそこから時代を遡っていきました。新たなターゲットは「初期洋画」「南蛮屏風」そして「長崎系」に定まったのです。この時、孟41歳。
泰西王侯騎馬図
(神戸市立博物館所蔵)
さて、ここから「教科書で見たことある!」というような絵が出て来ますのでご期待ください。まず初期洋画についてご紹介します。文字通り「洋画の技術が日本に入ってきた最初期に、日本人によって描かれた絵」のこと。はじめて洋画の技術を持ち込んだのはイエズス会の宣教師たちでした。ザビエルが鹿児島に上陸したのが発端になります。カトリックの宣教師たちは安土や九州各地にキリスト教の学校「セミナリオ」「コレジオ」をつくります。ここで選ばれた日本人の子供たちが、絵画技術を持ったヨーロッパ人から洋画技術を学びました。このような洋画導入期に描かれたもので有名な絵画が「聖フランシスコ・ザビエル像」と「泰西王侯騎馬図(たいせいおうこうきばず)」です。
南蛮屏風(狩野内膳)
(神戸市立博物館所蔵)
南蛮屏風とは、日本画の絵師が南蛮人を描いた絵を屏風に仕立てたもので、大名らが鑑賞用に一流の絵師たちに描かせました。現在、70近い南蛮屏風が確認されていますが、その中で「南蛮人がバンザイして走る姿」が描かれた、私たちがよく見慣れた南蛮屏風は、孟の看板コレクションの1つです。作者は、日本画の頂点である狩野派に所属していた狩野内膳(ないぜん)。
長崎蘭館図
(神戸市立博物館所蔵)
せっかくセミナリオで習った洋画の技術を持った人材も、秀吉以降のキリシタン弾圧によって、いなくなってしまいました。ところが、今度は中国経由で洋画技法が入ってきました。中国に伝わった洋画技術を身につけた、黄檗宗(おうばくしゅう)の黄檗画僧の逸然(いつねん)門下から「渡辺秀石」が登場したのです。秀石は初代の唐絵目利(からえめきき)に就任。唐絵目利とは、長崎奉行直轄の官職で、中国から輸入されてきた画書や物品の善し悪しを鑑定して、買値価格を決定する職業です。また報告のため、それらを写生することもしました。現在のようにカメラがあれば簡単な作業ですが、当時はいちいち手書き。報告のための写生でしたから、デフォルメは出来ません。こういう洋風の写生画を取り入れた「渡辺」「荒木」「石崎」「広渡」唐絵目利4家は、長崎系画家の代表格です。
もう1人、注目すべき長崎系画家が川原慶賀(かわはらけいが)。慶賀は唐絵目利のような官職ではなく、出島のオランダ人に雇われた町絵師でした。出島の商館員フィッセルや商館医シーボルトの意向に従って多くの絵を描きました。その過程で、洋画の技法も身につけていったと思われます。
神戸市立博物館発行の『南蛮堂コレクションと池長孟』の巻末に、孟の年表が掲載されています。この年表が面白いのは、孟の人生の出来事と一緒に、絵の購入日と金額が記録されているところです。
昭和5年(1930)9月20日 荒木如元(じょげん)『瀕海都城図(ひんかいとじょうず)』を七百五十円で入手
昭和6年(1931)12月 『都の南蛮寺』などを含む永見(ながみ)徳太郎蒐集品を入手。その代金として翌年に二万七千円を支払う。
といった具合です。因みに七百五十円は、現在の約60万円。二万七千円は、約2,560万円です。それにしても目を見張るのが「昭和7年」の買いっぷり。『眼鏡絵6枚・異国風景人物図(司馬江漢)』『眼鏡絵十枚(円山応挙)』『風流なくてななくせ(葛飾北斎)』『ドゥーフ像(川原慶賀)』『わらびに虻図(小野田直武)』『椿に文鳥図(佐竹曙山)』などビッグネームが並んでいるのですが、極めつけは以下の3点。
六月八日、上村益郎の仲介で、奈良の上村耕作から狩野内膳の『南蛮屏風』を一万九千五百円で入手。
六月十三日、萩の前原家より『泰西王侯騎馬図』を二万二千五百円で入手。
十一月三日、京都の富田熊作から『四都図・世界図屏風』を一万八千円で入手。
現在の価格にすると1,670万円、1,900万円、1,540万円。3点で5,000万円を越えます。長崎絵にはじまった蒐集は、同じように洋画の影響を受けた江戸、秋田、須賀川、上方の作家にも広がり、同時に16世紀の初期洋風画にも遡りました。お気づきでしょうか。孟は、ただやみくもに名作を買いあさっているのではなく、「南蛮・紅毛美術」を系統立てて蒐集しているのです。まだほとんど誰も注目していなかったジャンルを、孟は猛然と開拓していったのです。この時、孟41歳。
昭和8年(1933)、南蛮・紅毛美術品の蒐集に「ひと区切り」ついたと判断した孟は、その集大成としてコレクションの図録を出版しました。それが『邦彩蛮華大宝鑑』(ほうさいばんかだいほうかん)です。どんな内容なのか、本人に紹介してもらいましょう。
「私は最近『邦彩蛮華大宝鑑』という書物を刊行した。この表題では一寸判りにくいかも知れないが、それは南蛮、唐、紅毛の異国趣味のゆたかな、日本美術品の集大成である。しかも私個人の蒐集にかかり、日本に於けるこの種美術の代表作家の、代表作品を一堂に網羅してしまったので、この点だけでも正に奇跡的な驚異に値する。実に一大博物館が構成される。本邦における最も有意義なるコレクションである」
「私の著書があまりに大きすぎたためか、時代から進み過ぎていたためか、世間ではなりをひそめている。下界とは没交渉に大空高く唸っているのは一寸いい気なものである」
『育英 三七号』に掲載の「燈下紙魚記」から
「なんて上から目線の傲慢な言い草だろう」という意見もあると思いますが、実際に『邦彩蛮華大宝鑑』を前にすると、その存在感に圧倒されてしまいます。ページをめくる度に、孟が「時代から進みすぎていた」のは間違いないという確信がわいてきます。
本の見方ですが、ページを開いて左側に美術品が、右側に解説が載せられています。南蛮屏風などの大傑作は数ページに渡って掲載されていますが、基本的には「見開きに一作品」100点で1冊です。これが2巻ありますから約200点の作品が紹介されていることになります。「初期洋画」の狩野山楽からはじまって、狩野内膳(かのうないぜん)の南蛮屏風、丸山応挙。次に「江戸系」の司馬江漢、大久保一丘(江漢の門人)。「須賀川系」の亜欧堂田善(あおうどう でんぜん)、安田田騏(やすだでんき)。「秋田系」の小田野直武。「黄檗像」「長崎系」と系統に沿ってダイナミックに展開していきます。孟のこの分類法はいまでも「合理性」を失っていません。孟は「南蛮・紅毛美術」というテーマを絞って、作家と作品を調べ尽くし、洋画に影響され約300年間に生み出された作品を、日本全国から探し出しては購入、現物を手にした上で分類していったのです。
そういう意味で『邦彩蛮華大宝鑑』は美術史上、重要な「南蛮美術カタログ」なのですが、もう1つ画期的だったのが孟の解説です。いえ、解説という言葉は適切ではありませんね。これはもはや「名画」と「孟」のコラボレーション。本を開いて最初に見る絵は、内膳でも江漢でもなく「孟」。孟が描いた「花瓶と花」と「ダンスする男女」の版画がトビラ絵なのです。これから重要文化財級の絵画が控えているというのに…。次のまえがきなど、どういうわけか神様と孟の会話劇になっています。
神様「お前は誰だ」
私「私です」
神様「私とは誰だ」
私「巡礼です」
神様「そして、何処へ行く」
私「この道を、奥の方へ、深く、深く、この坂を、峯の方へ、高く高く……」
(中略)
私「私は、美の巡礼者なのです」
神様「そうだったか」
私「そして、私は芸術の殿堂に、参拝するのです」
という具合で話が展開していき、これが10ページも続き、ようやく図録に入ります。孟の解説はすべて口語調で、作者や絵のことだけでなく、時代背景についても丁寧に解説されています。これだけなら、ごく普通の図録なのですが、孟の「解説」は、その範ちゅうを越えていきます。ページ左側の絵から得たインスピレーションによる「ポエム」「謡曲」「戯曲」「エッセイ」「今様」といった「孟ワールド」が縦横無尽に展開。もはや絵とはまったく関係のない、例えば「長崎版画」の隣で「茶人罵倒録」という批評文で茶道をこき下ろします(あまりの内容なので、ここでは紹介できません)。あくまで、いちコレクターであり、文筆家としても自費出版の域を出ない孟が、重要文化財級の作品の隣で猛毒を吐いている姿は「独りよがり」にも見えます。しかしながら、「独りよがり」も本気で、かつ徹底してやると「本物」に昇華するのではないでしょうか。実際、どの名画の隣でも、孟は「同等」に渡り合っているように見えます。孟と付き合いがあった、阪急電鉄の創始者で、茶道家でもある小林一三(いちぞう)は次のように『邦彩蛮華大宝鑑』を評しています。
「私にとって希有のこの本は、著者蒐集の心持ちや、理想や、権威や、その時々の感想を、詩歌俳句、脚本謡曲の形式を借りて、思うままに大胆に喝破しているから痛快である。学者肌の専門家から見れば、御本人『独りよがり』の非難があると思う。然し私は此の『独りよがり』が、著者独特の見識があって、美術品を蒐集せんと志す人達は、先ず第一にあらゆるものに研究的態度を持って、此の著者のごとくに、自己の信念を固める必要があると思う。茶人畑の人達は、兎角『独りよがり』に対する批評をするだけの芸はあっても『独りよがり』をする度胸がないので、現状維持と凝視停滞とで終始しているが、如何にも卑怯で物足らぬと思うのである」
『美術・工芸』1?8(逸翁<小林一三>「ひとりよがりのこと」)から抜粋
この時、孟43歳。
美術館外観
(神戸市立博物館所蔵)
『邦彩蛮華大宝鑑』を出版した後も、孟の蒐集は続きました。『南蛮堂コレクションと池長孟』の巻末の年表には、延々と購入した絵画が列記されています。
さて、数々の名画を蒐集した孟ですが、決して「自分で探し歩いた」のではありません。孟が欲しいと思うモノを探し、しかも「家宝だから売る気はない」とごねる持ち主を説得する、そんな役割を担った人たちがいました。その中の1人、高見澤忠雄は「内膳の南蛮屏風」「泰西王侯騎馬図」を探し当てた人物です。その日も、高見澤は新しい「南蛮屏風」を手に入れて、孟の自宅に持ち込みました。ところが孟は、空を見上げながら「お金が欲しいのう、高見澤くん」と言ったのです。無限にあると思われた財産は、ついに底が見え始めたのです。高見澤は「もうここまでやれば十分じゃないですか。あとは美術館を建てるお金を残しておきなさい」と助言したといいます。
高見澤の助言通り、昭和13年(1938)、熊内町にアールデコ調のモダンな「池長美術館」が竣工しました。今回も小川安一郎の設計。竣工を記念した集合写真が残っていました。孟は3歳くらいの女の子と手をつなぎ、隣には1歳くらいの男の子を抱っこした女性が写っています。孟は「植野とし子」という女性と再婚していたのです。とし子が抱いている三男「潤」は、後にカトリックに入信、平成9年(1997)から平成26年(2014)までカトリック大阪大司教区大司教を務めることになる人物。潤氏は「幼い頃から孟の蒐集した美術品にふれていたことも、キリスト教に興味を持つ要因になった」と回想しています。
さて美術館は、昭和15年から一般公開をはじめて、19年まで年1回のペースで、計5回の展覧会を開きました。しかし昭和20年(1945)の展覧会は開催できませんでした。そうです、戦争です。米軍の大空襲が神戸の町を襲い、孟は家族と共に疎開しました。膨大な美術品は持ち出すことはできず、館に置きっぱなし。孟は疎開先から、爆撃されて赤々と燃える神戸の町をただ呆然と見ていたといいます。しかし奇跡が起きました。周辺が火につつまれながら、美術館は無事だったのです。ところが戦後、美術館は進駐軍の施設に使用されて、ようやく手元に戻って来たのは昭和22年(1947)のことでした。この時、孟57歳。
昭和23年(1948)、孟のもとに恐るべき通知が来ました。「財産税」の通知です。戦後の財政難につき、個人の財産に1回限りかける臨時税。目録をつくって公開していた孟の財産は「ガラス張り」、周知の事実です。「社会公益のためにこれ程尽くして来た私には、絶大なる感謝の意を表し、何らかの報償を捧げてもよかりそうなものを、日本ではすべてが逆だ」と憤りましたが、税務署は容赦しません。追加税があったり、滞納金があったりで、紅塵荘など持てる財産ほとんど売ってしまいました。財産税を払い終わった頃には、もはや美術館存続は不可能な状況に陥りました。こうなると一番恐ろしいのは、系統立てて集めたコレクションの散逸です。これを防ぐための方策として「大原美術館との合併」「長崎市へ売却」などの話がありましたが、どれも実現しません。最終的に取られたのは「神戸市に引き取ってもらう」という方法でした。
孟は神戸市役所の経済局長 宮崎辰雄を訪ね「このままでは1点ずつ手放さざるを得ない。市でなんとかしてくれないか」と相談します。戦後のこういう時期ですから、神戸市に美術品を買い取る余裕は当然ありません。そこで宮崎のとった対応は「美術品を市に寄付していただく代わりに、毎月の生活を保証しましょう」というものでした。孟が案を受け入れたので、宮崎は決済をしてもらうべく担当助役に書類を持って行きましたが「いま皆が食いかねているようなときに、いくら大切なものか知らんが、そんなもんに金使うなんてバカなことするな」と突っ返されます。市庁舎自体が女学校の校舎を間借りしている状況ですから、目の前の現状を直視すれば、助役の言うことは決して間違ってはいません。しかし、宮崎はもっと先の、神戸の未来を見据えていました。直接、原口忠次郎市長に「これは神戸市に残さなきゃならない貴重なものです」と直談判、無事、市長のハンコをもらい池長コレクションは守られたのです。昭和26年(1951)、美術館とコレクションは神戸市に委譲されました。この時、孟61歳。(因みに18年後、宮崎は原口を次いで、第13代目の市長になります)
南蛮美術総目録
(個人蔵)
『南蛮美術総目録』が発行されたのは、池長美術館が市立神戸美術館になって4年後の昭和30年(1955)。その間、東京、名古屋、福岡、長崎、大阪で「南蛮美術展」が行われ好評を得ました。池長は胃がんを患いながらも、各地に赴きコレクションの解説をして、南蛮美術の周知に務めたといいます。
神戸市の美術館として、カラー写真を沢山使った豪華なものにしたいと考えていましたが、まったく予算がもらえず、孟は憤慨し「さじを投げました」。しかし、思い直してもう一度「さじを拾い上げ」ます。もう自分の命は長くない、いまの内に、出来るだけのことはしておかなければならないという心境に達したのです。最終的に出来上がった目録は、あの『邦彩蛮華大宝鑑』とは比べようも無い祖末なものでした。大宝鑑の時は「高級和紙」をふんだんに使用しましたが、今回は「ザラ紙」。美術品の目録なのに写真1枚ありません、全編美術品データと孟の解説のみ。しかしその膨大な文字には、孟の情熱が満ちており、大宝鑑とは別の意味で圧倒されます。孟の人生そのもののような目録が出来上がって約4ヶ月後、孟は自宅にて死去しました。享年65歳。
最後に、孟のコレクター道「十戒」をご紹介します。大宝鑑の第100図『南蛮火鉢』の右ページに、火鉢そっちのけでコレクターの正しい在り方を訴えています。
十戒
1、自分に趣味もなく、分りもせぬものを、集めるべからず。
2、もしにせものをつかまされても、自分の不明を深く恥づべし、決して人を怨むべからず。
3、よきものは、比較的高価にても、買うべし。悪きものは、いくら安くとも、買うべからず。
4、売買の場合以外にては、芸術品には、価額無きものと知れ。
5、箱書付などは、たきつけにすべし。初期のすぐれたるは、多く筆者不詳なり。
6、博識の人に教えらるるはよし。然も、最後の鑑定家は、わが眼力なり。
7、系統をたてて集めるべし。雑駁(ざっぱく)な集め方は無意義なり。せぬ方がよろし。
8、よきものが、よき人の手に納まりたるは、嬉しきことなり。
9、二枚とはなき逸品が、外人の手に買われて、異国に持ち去らるるは、悲しきことなり。防ぐべし。
10、自己のものに非ず。国家の宝と心得て、その保存には綿密なる注意を要す。防火の事、言はずもがな。
【池長孟ゆかりの場所】
『南蛮堂コレクションと池長孟』の年表の昭和7年(1932)7月に「古賀十二郎に会う」、また昭和15年(1940)12月には「古賀十二郎より<長崎画人伝>他五冊を百二十円で入手」(約5万2千円)と明記されています。同書の48ページに、荒木如元の墓を発見した時の集合写真が掲載されていますが、この中に孟は写っていませんので、この場にはいなかったのかもしれません。写真の解説には「古賀が孟の蒐集に協力した代わりに様々な援助を与えた」と書かれていますが、どのような援助かは不明。
孟は、南蛮美術蒐集の先輩であり、自分の蒐集品を丸ごと譲ってくれた永見に対して感謝していたといいます。『南蛮美術総目録』にも、わざわざ「永見徳太郎蒐集品」という項をつくっています。永見の蒐集品で最も孟が気に入っていたのは狩野元秀(宗秀)筆「都の南蛮寺図」。もとは屏風に貼られていた京都名所60数枚の中の1枚で、京都における南蛮寺の形態を知るにあたり、ほとんど唯一の重要な資料です。ヴァリニャーノが最初に来日した際の報告書に、 「ここに四っの修院があるが、その第一は都の街にあり、イエズス会士が非常によく設計した美しい日本風の建築である。ただしその建物は小さい。それは我等の地所が狭いからであって、その為に三階建となった」『日本巡察記』 という記述だけがあり、どのような建物かはわからなかったのですが、この発見によって明らかになったのです。 「都の南蛮寺図」を最初に古美術店で発見したのは、孟の右腕だった高見澤忠雄で、その後、永見の手に渡りました。ちなみに高見澤は『のらくろ』の作者 田河水泡(本名高見澤仲太郎)と親戚筋。
孟は、長崎の寺々から「黄檗画」を購入していますが、これらの絵を探し出したのは長崎の人。山口雅生は、料亭花月の跡取りでした。高見澤が長崎に調査に行った際に知り合い、以来長崎方面の美術品発掘を担当することになったのです。山口が禅寺を1軒1軒訊ね歩き「黄檗画」を見つけ出したといいます。『南蛮美術総目録』には、美術品の旧蔵先も明記してあるのですが、それによると「即非像」「江外像」は崇福寺、「悦峯像」は興福寺と記録されています。山口はその後、長崎を離れ池長美術館で孟を手伝いました。
1597年、有馬セミナリオの日本人学生が作製したと立証されている、銅版画で最古のものが「セビリアの聖母子像」です。この絵をプチジャン神父がマニラで発見し、法皇ピオ8世に献呈します。法皇は「汝の母たることを示せ」と署名、神父に授けました。この絵をプチジャンは大浦天主堂に持って来たといいます。キリシタン史的にも貴重なこの絵が、どういう訳か売りに出ました。孟は昭和15年(1940)に3,300円(現在の約145万円)と、司馬江漢の銅版画2点と交換に「セビリアの聖母子像」を手に入れました。それから2年後のある日、新聞を見た孟は驚愕しました。「大浦天主堂に飾られていた聖母子像の絵が写真とすり替えられ、盗まれていた」というのです。結局、孟は同額と引き換えで天主堂に返還しました。
聖母子像
(カトリック長崎大司教区所蔵)
神戸市立博物館発行の『南蛮堂コレクションと池長孟』には、散逸した池長コレクションを追跡した興味深い項目があります。この中に元々池長コレクションにあった物で、現在は長崎歴史文化博物館が所蔵している南蛮美術品が3点紹介されていました。
漢洋長崎居留地図巻
(長崎歴史文化博物館所蔵)
「漢洋長崎居留地図巻」
昭和6年(1931)、永見徳太郎から手に入れたコレクションの中に、同種の絵があったため、元々もっていたこの絵を手放しました。収納箱に「池長蒐集」のラベルが今でも貼ってあるそうです。
平安福寿図
(長崎歴史文化博物館所蔵)
「平安福寿図」伝荒木如元筆
最初に手に入れたのは、兵庫の医者からの寄贈によるもの。戦後、手放しますが理由は不明です。この絵が荒木如元の筆と推定したのは孟。
唐人図
(長崎歴史文化博物館所蔵)
紅毛人
(長崎歴史文化博物館所蔵)
「紅毛人・唐人図」双幅 川原慶賀筆
昭和6年に750円で購入、戦後に売却されました。軸の巻留める部分にそれぞれ「川原慶賀 紅毛人」「川原慶賀 唐人」と孟の筆文字で書かれています。紅毛人は、シーボルトの像と言われることもあるそうです。
孟は川原慶賀の絵を好んで蒐集しました。「ブロンホフ家族図衝立」「長崎港図衝立」は今でも神戸私立博物館の所蔵品です。慶賀は、出島にいたオランダ人のお抱え絵師。特にシーボルトと関わりが深く、彼のためにたくさんの絵を描いています。シーボルトは、日本で採取したアジサイをヨーロッパに持ち帰り、新種として発表。学術名に自分の日本人妻だった「(ハイドロランゲア・)オタクサ」の名を付けた話は有名です。では「オタクサ」が「お滝さん」のことである、と最初に発見したのが誰だかご存知だったでしょうか。実は、孟が援助した植物学者、あの牧野富太郎博士です。牧野を師と仰ぐ理学博士中村浩は、著書『植物名の由来』に次のように記していました。
「牧野先生は、シーボルトがアジサイの学名にお滝さんの名を付したことについて〝神聖な学名に自分の情婦の名をつけるとはけしからんことだ〟と憤慨しておられたが、その牧野先生自身も、笹の新種に自分の愛妻の名を付してスエコザサ(寿衛子笹)と命名し、学名もササ・スエコアナとされている。愛妻や恋人や情婦の名を後世に残しておきたいというのは人情であろうが、後世の人にとっては、無縁の人の名を憶えさせられることは全く迷惑なことといわなければならない」
『邦彩蛮華大宝鑑』は池長孟の最高傑作です。500部限定のこの希少本は、現在でも中古市場で10万円を下回ることはほとんどありません。個人で買うには高すぎるので、図書館に頼るほかないのですが、こういう地方の自費出版本が長崎の図書館にあるはずがない…、と思いきやありました。池長孟の著書本では、唯一この本だけあったのです。なぜ、このようなマニアックな本が収蔵されていたのでしょう。巻末を見ると「平成4年度 松田皜一寄贈」と明記されていました。松田氏は、長崎商工会議所第18代会頭も務めた長崎経済界の重鎮です。また長崎の歴史にも造詣が深く『松田皜一の長崎今昔物語』という本も出版されています。松田氏寄贈本のお陰で、この特集記事を書くことができました。この場を借りて感謝申し上げます。