川原慶賀/蘭館絵巻/宴会の図
(長崎歴史文化博物館蔵)
「洋食」といえば、どんな料理をイメージするでしょうか?
「クリームシチュー」「スパゲッティー」「サンドイッチ」など、さまざまなメニューがありますが、やはり「ステーキ」「ハンバーグ」「ポークソテー」などの「肉料理」を思い浮かべた方が多かったのではないでしょうか。日本人にとって、洋食といえば「肉」というイメージにつながるのはなぜでしょう。理由はハッキリしています、「肉食文化は西洋から入ってきた」からです。「えっ、日本にだって肉食文化はあっただろうに?」と疑問に思われたかたもいるでしょう。その通りです。縄文時代、鹿や猪を捕って食糧にしていたことを私たちは学校で学びました。日本人も元々は獣肉を食べていたのです。ところが、ある時期を境に肉食文化は途絶えました。天皇が肉食の禁止を命じたのです。
初めて肉食が禁止されたのは飛鳥時代のこと。天武4年(675)、壬申の乱を勝利した大海人(おおあまの)皇子(おうじ)こと天武天皇が「牛・馬・犬・猿・鶏の獣肉を食うことなかれ」という勅令を発布したのです。理由は「仏教信仰」に熱心だったからです。五戒の一つ「不殺生戒(生き物を殺すなかれ)」を根拠に、人民の肉食を禁止してしまいました。聖武天皇の後も、6人の天皇が合計10回の「肉食禁止令」を出していますが、中でも繰り返し「6回」禁止されているのが「牛」。農耕や輸送と、人の生活に密着していることもあって「殺してはならない」「食べてはならない」対象になったのです。ただし、家畜ではない「猪」「鹿」「狐」「犬」「鳥」などは一部で食されていたようですが、いかんせん野生動物ですので捕獲できる数に限りがあります。したがって、日本人のタンパク源の中心は安定して捕れる「魚」になりました。和食といえば「魚」、洋食といえば「肉」という私たちの持つイメージの定着には、こうした歴史的理由があったのです。
「肉食禁止令」はこの後、明治5年(1872)の解禁まで、延々1200年に渡って執行され続けました。解禁直前、日本人が持っていた肉食のイメージは次のようなものでした。
「獣肉はけがれているから、食べると身も心も衣服も住居もけがれる、人前に出ることもできなくなる、禁を犯した者は遠島(えんとう)などの厳罰に処せられる」
『とんかつの誕生~明治洋食事始め/岡田哲著』から抜粋
こういう価値観で千年以上生活してきた国民に対して、明治政府は突如として「肉を食べよ」と方針転換をしたのです。気になる解禁理由ですが、第1には「近代国家」の仲間入りをするためでした。来日した欧米の要人や使節団に対して、日本料理ばかりで接待するわけにはいきません。第2に「欧米人との体格差・体力差を無くすため」です。江戸時代の日本人男子の平均身長は155~156.5センチ。欧米人の見上げるような身長差への劣等感もあったようです。
獣肉を「けがれたもの」と考える国民に対して、いきなり「やっぱり食べなさい」といってもうまくいくはずがありません。そこで政府は作戦を考えました。飛鳥時代に「肉食禁止」を宣言したのは天皇です。ならば、「肉食解禁」も天皇にお願いしようというのです。かくして明治5年1月24日、宮中にて西洋料理の晩餐会が開かれました。参加したのは後藤象二郎・副島種臣・江藤新平・寺島宗則・井上馨(かおる)ら、肉食を推進する政府関係者たち。この模様が新聞で「日本では昔から肉食が禁止されてきたが、これに正当な根拠は無いとして、天皇自ら肉を食べられた」と報道されたことで、正式に肉食が解禁されたのです。とはいうものの、実は明治天皇は洋食嫌いでした。「肉食は養生のためよりも、外国人との交際に必要だから食べたのである」と大久保利通にグチをこぼしたそうです。「肉食推進作戦」には当然反発も起こりました。解禁から一ヶ月後、御岳行者10名が皇居に乱入し「万民の上に立ち、穀物の稲を祭司し、古代以来肉食を禁止した歴代の天皇をさておいて、外国の勢力に押しながされて獣肉を解禁するなど、とんでもないことである」と訴え出たほか、明治10年(1877)4月の朝野新聞では「大久保利通が無理矢理天皇に洋食を食べさせている」「洋食洋医を宮中から斥けよ」と糾弾する記事が掲載されました。
明治天皇も食した肉ですが、それでも庶民には受け入れられませんでした。実際に食べて美味しさを実感すれば、口コミで広がっていきそうなものですが、そうはならない大きな理由がありました。それは「調味料」。西洋の肉料理は「スパイス」や「バター」を使って調理されますが、これがいけませんでした。ちょっと時代を遡りますが、フロイスが、天正13年(1585)にまとめた『日欧文化比較』の中にはこう書いています。
「われわれ(西洋人)は乳製品、チーズ、バター、骨の髄などをよろこぶ。日本人はこれらのものをすべて忌み嫌う。かれらにとってそれは悪臭がひどいのである」
遣外使節団の1人としてフランスに派遣された奉行池田筑後守長発(ながおき)が、船の中で出された洋食に苦悩している様子を、同行した理髪師の青木梅蔵が記録しています。
「パン・牛肉の焼もの様々、ことごと歎息なしたり、パンは別段臭気なけれども何とやら気味悪く、牛はなおさらなり、さればとて二日三日このかた食事とては一切いたさず、空腹もまた堪え難し。(中略)折からこの処へ御奉行様お一人にて、色青ざめ、ひょろひょろと致しお出ありし有り様、さながらこの世の人とも思われず」
NHKの大河ドラマ『八重の桜』にも登場した明治期の物理学者山川健次郎。学生時代、アメリカに留学するために乗った船中で食べた洋食について『山川老先生六十年前外遊の思出』で以下のように回想しました。
「何しろ西洋の食物なんて云うものは食べた事がない。あの変な臭いがするのがまず第一に困って、船に乗っても食わないで居ると、船の医者が飯を食べにゃいかんと勧めて呉れたが、しかしどうしても食う気になれない」
「スパイス」や「バター」を使った料理は、当時の日本人の口に合わなかったのです。しかし、ある日本の調味料がきっかけで、一転して「肉が大好き」になりました。その魔法の調味料は「味噌」と「醤油」です。普段から馴染みのある調味料を使って、獣肉の臭みを消すことに成功。かくして牛肉にネギ・コンニャク・豆腐などを入れて、味噌・醤油・砂糖で煮込んだ「牛鍋」が誕生、大流行しました。明治8年(1875)、牛鍋屋は東京で100軒を越え、2年後にはなんと558軒と激増。大正時代になると、焼いた牛肉を醤油・みりん・砂糖で煮込み、溶いた生卵につけて食する、関西発祥の「すき焼」が主流になり、現在に至っています。岡田哲氏は「なぜ日本人に肉食が浸透したのか」について、以下のように考察しました。
「肉鍋の調理形態は、獣肉から牛肉へ、そして、味噌から醤油と砂糖へ移行していく。換言すれば、米飯に合うおかずとして発展しはじめる。しかし、欧米の肉料理に共通する、香辛料(スパイス)の使用はまったく見られない。つまり牛鍋は、日本人の食卓を欧風化したのではない。洋風素材の牛肉を、和風鍋に取りこんだ」
『とんかつの誕生~明治洋食事始め/岡田哲著』から抜粋
日本人は、西洋料理をそのまま受け入れることはせず、自分たちの主食である「御飯」に合うように日本風にアレンジしていったわけです。小菅桂子氏も著作で「カレー」にまつわる面白いエピソードを紹介しています。
「かつてインド料理店のインド人のコックが『ボンカレー』を食べて、「これはなかなかおいしい日本料理だ。なんていう料理か教えてくれ」と真顔で訊いたという嘘のような本当の話も伝わっている」
『にっぽん洋食物語大全/小菅桂子著』から抜粋
南蛮屏風
(長崎歴史文化博物館蔵)
これまで「日本」に洋食(肉食)の伝わる過程を説明してきましたが、ここからは「長崎」というエリアだけにフォーカスして洋食の伝来をご紹介します。「長崎も日本なのだから、変わらないのでは?」と思われるかもしれませんが、戦国期以降の長崎は他の地域とずいぶん様子が違っていました。元和3年(1617)、長崎に滞在していたコロウス神父が、イエズス会本部に送った手紙をご覧ください。
「すべての神父の中で長崎の町に住んでいる神父たちは一番楽しく生活している。それは町中の建物はヨーロッパ風であるし、牛を殺したり、パンを焼いたりすることのできる人たちが多く町中にいるので、ポルトガルやスペインに住んでいるのと同じような生活ができるからである」
もう一人、アビラ・ヒロンというスペインの貿易商も、慶長16年(1611)頃の長崎の肉食を次のように記録しています。
「かれらはこの家畜(牛)を以前には食わなかったので、私が一五九四年にこの王国へ来たときは、一頭の牛が四.五レアールの値であって、骨を除いた牛肉三五カテ(二一・八七五グラム)を一マス(一匁)で売っていたが、それは四〇リブラ(ポンド)あまりである。今日では、一マスで厳格に目方をかけて四カテもくれない。つまり現在ではこの住民がみな牛を食うからであり、この以前はこの都市には三〇〇〇の住民だったのに、今では二万五〇〇〇以上いるからである」
アビラ・ヒロンの記述どおりであれば、最初に来た時点では、まだそれほど牛肉の肉食は浸透していませんでしたが、もう20年もすると「みな牛を食う」状況になっていました。なぜ「肉食禁止令」が出ている日本で、長崎人だけが食していたのか。そして、なぜその事実をヨーロッパ人がリポートしているのでしょうか。
南蛮屏風
(長崎歴史文化博物館蔵)
コロウス神父は「ポルトガルやスペインに住んでいるのと同じような生活ができる」と長崎がまるで「ヨーロッパ」であるかのように報告しています。実は、「まるで」ではなく「本当に」長崎が教会の領地だった時期があったのです。といっても、決してポルトガルに侵略され「植民地」になったということではありません、教会に「頂いてもらった」のです。
大村純忠は、大村・長崎を治める大名でした。直轄領が少なく台所事情が安定しない純忠は、政治的にも不安定で周辺の「深堀氏」「西郷氏」「後藤氏」から常に領土を狙われていました。そんな純忠にとって、大きな利益を得られる「南蛮貿易」は経済基盤を安定させるビッグチャンスだったのです。ところが「南蛮貿易」をするにあたって、ポルトガル人から「条件」が出されました。それは「キリスト教(カトリック)の布教」。「“貿易”と“布教”はセットでなければならない」ということです。当時、ヨーロッパ全土を揺るがしていた宗教戦争。新興勢力「プロテスタント」の勢いに押されていた「カトリック」は、信仰の「世界展開」という大きな目的をもってアジアに進出していたのです。
純忠は自ら洗礼を受けて、日本で最初の「キリシタン大名」になり、ポルトガル人の信頼を得たことで「長崎」が南蛮貿易の拠点になりました。元亀2年(1571)海の突き出した岬の先に、貿易業務をおこなう拠点として、純忠らは6つの町をつくりました。教会も次々に建てられ、各地から人々が集まってきました。その多くは日本人のキリシタン。仏教徒の領主から迫害を受け逃げてきたのです。このようなキリシタンの町をよく思わない人もいました。周辺のライバル大名たちです。長崎の町に攻撃をしかけられ、窮地に立った純忠は「長崎を教会に寄進」という奇策にでました。長崎をイエズス会に寄進して「教会領」にすることで、「長崎」と「貿易の利権」を守ろうとしたのです。ところがこの作戦、“天下人”には通用しませんでした。豊臣秀吉です。
キリスト教に不信感を持った秀吉は、イエズス会に対して4つの質問状を送りつけました。「なぜ人民にキリスト教を強制するのか」「なぜ寺社を破壊するのか」「なぜ奴隷貿易するのか」という内容でしたが、残りの一1つに「肉食」に関する質問がありました。
「汝らは何ゆえに馬や牛を食べるのか。それは道理に反することだ。馬は道中、人間の労苦を和らげ、荷物を運び、戦場で仕えるために飼育されたものであり、耕作用の牛は百姓の道具として存在する。しかるにもし汝らがそれらを食するならば、日本の諸国は、人々にとってははなはだ大切な二つの助力を奪われたことになる。汝らをふくめ、シナから船で渡来するポルトガル人らが、もし牛馬を食べずに生きられぬものならば、全日本の君主である予は、多数の鹿、野猪、狐、大猿、その他の動物狩りを命じ、それらを一つの囲いの中に入れておくから、汝らはそれを食べるがよかろう。もしそれを不服とするならば、予はむしろ(南蛮)船が日本に来航せぬことを望む」
この秀吉の質問に対しイエズス会は次のように返答しました。
「我らの出身国においては、馬(肉)とか、日本人が食べる他の動物、すなわち大猿、ネコ、鼠、狐、その他これに類する動物を食べる習慣はない。だが仰せの通り、牛(肉)食べることは確かである。これは世界でもっとも古い習慣だからで、そこでは国家になんら損失を及すことも農業に害を与えることもなく、この習慣が保たれている。……日本に来るポルトガルの商人らに対しては、この件で(我ら)司祭から(牛肉を食べぬよう)注意を喚起するであろう。ただし、日本人が彼らに(肉を)売りに来る以上、彼らが(牛)を用いるのを止めるかどうか保証の限りではない」
『豊臣秀吉と南蛮人/松田穀一著』から抜粋
この質問状が出た直後の天正15年(1587)「伴天連(ばてれん)追放令」が出され、全国の大名にキリスト教布教の禁止が通達されました。翌年、「教会領」は秀吉に取り上げられ、長崎は秀吉の「直轄領」になり、佐賀の鍋島直茂が長崎代官に任命されました。天正20年(1592)秀吉の命令で長崎の多くの教会が破壊され、そしてついに慶長元年(1597)あの「二十六聖人の殉教」が起こったのです。この事実だけ見ていると長崎の「キリスト教」及び「南蛮文化」は「一掃」されてしまったかのように感じます。ところが南蛮貿易にはお咎めはなく、長崎での「ポルトガル人居住」も以前の通りでしたので、洋食も続けられていました。布教に関しても、キリシタン版と呼ばれる宗教書が出版されるなど、むしろキリシタン文化が謳歌された時代になりました。
寛文長崎図屏風
(長崎歴史文化博物館蔵)
時代の潮目が変わったのは、豊臣氏が滅亡した慶長の終わり頃です。徳川幕府のキリシタン禁教は徹底したものでした。すべての教会は破壊され、次々に各宗派の寺院が建てられました。長崎の自治を担っていたキリシタンの町年寄りたちは棄教させられ、長崎代官だった村山(むらやま)等安(とうあん)は江戸で斬罪。ここに至って「牛肉」と「パン」を食することは禁止されたのです。どちらも「キリスト教に関係深い食物である」と長崎奉行が判断したのです。幕府は、キリスト教の布教を防止するために、寛永13年(1636)、岬の突端前の海に人口の島「出島」を造り、ポルトガル人を民から完全に隔離しました。翌寛永14年(1637)勃発した「島原の乱」が決定打になり、寛永16年(1639)ポルトガル人は日本から退去させられることに。これをもって「南蛮人による洋食伝来」は終わりを告げました。
2年後の寛永18年(1641)、出島に新しい住人たちが引っ越して来ました。それまで平戸に商館を置いて貿易をしていたオランダ人たちです。ポルトガル人と同じキリスト教徒ですが、「カトリック」ではなく「プロテスタント」でした。あくまでも「貿易」だけで「布教」はしないことを幕府に約束したので、新しい貿易相手に選ばれたのです。
さあ、今度は「オランダ人による洋食伝来」が始まると思いきや、出島に引っ越して来たオランダ人もポルトガル人同様に「隔離」されてしまいました。「布教しない」と約束したにもかかわらず、幕府は出島からの外出を許さなかったのです。町中で一緒に生活することで「一般の人たち」に広く伝わった洋食は、今度は出島に入る事ができた「少数の関係者」だけに伝わる限定的なものになりました。
オランダ人たちの食事を垣間見ることができる「少数の関係者」とは、どういう人たちでしょうか。まずは長崎奉行所の「役人」、通訳係の「通詞」、人の出入りを監理していた「乙名(おとな)」、丸山の「遊女」、見学に来た「大名」や「知識人」も出入りしました。こうして見聞されたオランダ人の「洋食」は、見聞録などの「書籍」になって出版、世に知らされます。平賀源内の門人で蘭学者の森島中(ちゅう)良(りょう)は、著書『紅毛雑話』の中で、大槻(おおつき)玄沢(げんたく)が天明5年の「オランダ正月」に参加した時の献立について記録しています。オランダ正月とは、オランダ人が太陽暦の1月1日(旧暦ではだいだい12月上旬)を祝う行事で、日頃世話になっている日本人関係者を招待した「ニューイヤー・パーティー」です。スープからデザート菓子まで19種類もの豪華メニューで、それぞれの料理の材料まで明記されていました。中でも肉料理は多く、「牛」「鹿」「猪」「鶏」を煮たり焼いたり8種類もありました。玄沢は、江戸に戻って蘭学研究者の集い「新元会」を発足、元旦に召集し「オランダ正月」を再現しています。これが江戸における洋食の先駆けになりました。
ところで、オランダ正月には、面白い習わしがありました。食事がはじまって、まず一同がスープを飲み始めます。ここまでは普通です。問題はその後。以降のメニューには一口、二口「味見をする程度」で丸々食べ残します。するとタイミングよく「一枚の皿」が用意され、各料理が詰め込まれます。西洋料理でいっぱいになった皿には「宛先」が記された紙が貼られて、家族や知人に届けられるのです。届いた料理はどうなったのでしょう。もちろん食されるのですが、「食事」としてではなく「薬」としてでした。出島の商館医だったツンベリーは『日本旅行記』に次のように書いています。
「日本人は肉、バター或は塩で加工された食品は普通食べないのであるが、このような品は或る病の治療薬として貯えておくのだそうである。例えば塩バターの団子をつくって、これを肺病の薬として毎日飲むのである」
キリスト教的だということで、牛肉を食する事が禁止されたことは先述しました。にもかかわらず、出島ではオランダ人も日本人も躊躇なく牛肉を食していたのはなぜでしょう。まずオランダ人に関しては、古くからの習慣ということで、牛肉を食べる事は許されました。日本人に関しては、まだ禁止中だったのですが「抜け道」があったのです。それが「薬喰(ぐ)い」という方法。病人の「体力回復」「養生」のために「薬」として肉を食べるのです。すでに飛鳥・奈良時代から「薬猟(くすりがり)」は行われており、特に江戸期には薬喰いが盛んでした。仏教に帰依した「貴族」「大名」も、何かと理由をつけて肉食を楽しんでいたのです。動物の種類としては主に「猪」と「鹿」でした。確かに猪を表す「牡丹」は、俳句の冬の季語にもなっています。牡丹鍋といえば「味噌」と「醤油」での味付けが一般的。この調理方法が、後の「牛鍋」のルーツになるのです。
川原慶賀/蘭館絵巻/動物園の図
(長崎歴史文化博物館蔵)
大槻玄沢が参加した「オランダ正月」のメニューの中に「ブラートルボツク(野牛の又丸焼き)」という料理がありました。この牛はどこから「調達」して来たのでしょう。牛肉とパンを食することは禁止されているわけですから、日本国内で調達することはできません。であれば国外から持って来るしか方法がないわけです。オランダ人が出島に引っ越してきてからというもの、年に1回(4~5月頃)バタビアから入港するオランダ船に「生きたままの牛」が運ばれてきました。船が「風待ち」で停泊している約半年の間は、船に貯蔵している牛肉を分けてもらうとして、10~11月に出航した後、次に入港するまでの半年間はこの牛で持たせなくてはなりません。出島商館を描いた絵をよく見てみてください。オランダ人たちの周りを、やたらと動物たちがウロウロしています。「オウム」や「猿」、「犬」などはペットだったのでしょうが、そのほかはみんな食用です。出島内に広い調理室があって、ここで屠殺(とさつ)して食用に加工していました。このような「牛肉事情」は安政の開港まで続きました。
牛と同じく禁止された「パン」でしたが、さすがにオランダ人の主食になるものですから、特別に長崎奉行から許しが出て、日本人の職人が焼いて出島に届けることになりました。一軒だけ認められたパン屋さんは、樺島町にあったそうです。
川原慶賀/蘭館絵巻/調理室の図
(長崎歴史文化博物館蔵)
出島のオランダ人が食べる料理は、誰がつくっていたのでしょう。シーボルトのお抱え絵師、川原慶賀が調理場を描いた絵が残っています。オランダ人と、彼らがバタビアから連れて来た黒人、そして日本人で料理しています。オランダ人が6人がかりで豚肉を切り刻んでいる横で、日本人の料理人が煮込み作業をおこなっています。洋食だというのに、オランダ人は「材料の仕込み」をおこない、最終的な味を決定するであろう「煮込み作業」は日本人が担当しています。日本人は立派に「洋食」を調理できていたのです。ツンベリーも『日本紀行』の中で日本人の料理人が「オランダ風の料理をうまくつくるのに慣れている」と記しています。
安政5年(1858)、そんな出島の台所に「新人コック」が入りました。農家の出の草野丈吉です。出島に出入りしていたコンプラドール(出島で必要とする食糧の買い物係)の増永文治の紹介で、出島で仕事をすることになったのです。オランダ人に雇われ、主に洗濯やコックの見習いとして働きました。丈吉はこの出島で「歴史的」瞬間に立ち会いました。安政6年(1859)5月28日の「長崎開港」です。幕府は、嘉永6年(1853)、黒船の浦賀来航をきっかけに「鎖国」から「開国」に舵を切り、遂に「アメリカ」「イギリス」「フランス」「ロシア」「オランダ」5ヵ国に対して開国しました。それでも「日本のどこの港にでも入港してよい」というわけではありません。「神奈川」「函館」、そして「長崎」の3港に限定しての開国でした。
開港の翌年の2月、丈吉の雇主が変わりました。オランダ総領事デ・ウィットです。丈吉は「ボーイ」兼「洗濯屋」兼「料理人」として、ご主人の複数回の出張にお供しました。江戸・神奈川・函館などに行って見聞を広めたものと思われます。
草野丈吉
(長崎市歴史民族資料館)
文久3年(1863)、デ・ウィットの帰国を期に丈吉は独立。実家に戻って、熊本出身のユキと結婚しました。この時、丈吉24歳。約5年間、オランダ人と寝食を共にして身につけた「特別なスキル」を活かす時がきました。まずは「洗濯」です。西洋人が着る「洋服」を洗う専門職、ターゲットは外国船の乗組員たち。しかし、入港する船がまだ少なく、商売はうまくいきませんでした。丈吉の持つもう一つのスキルは「西洋料理」。これに賭けるしかありません。料理店を開くようにすすめてくれる知人もいました。デ・ウィットを通じて知り合った薩摩藩の五代友厚です。
文久3年(1863)、日本初の西洋料理専門店「良林亭(後に自遊亭に改称)」を開業。場所は山の中腹、伊良林若宮稲荷神社の下あたり。「日本初」と書きましたが、実は既に洋食メニューがある料理店は長崎に何軒もありました。ただし、どこも「日本料理」と「西洋料理」の兼業店。この時点では、どれだけ需要があるか分からない「西洋料理の専門店」を出す勇気は誰にも無かったのでしょう。良林亭は、自宅を改造した僅か六畳一間の店舗で、店先に張り出した紙には次のように書かれていました。
「料理代 御一人前金参朱 ご用のお方は前日に御沙汰願上候 但し六人以上の御方は御断り申上候 以上」(料理代は、お一人様約1万8千円。料理ご希望の際は、前日にご予約お願いします。但し6人以上はお断りさせていただきます)
材料が輸入食材ということもあってかなり高額ですし、立地的にも山の上で行きづらい上に人数制限もある。「これではお客さんは来ないだろう」と思いきや繁盛しました。翌年の元治元年(1864)もっと山を下った若宮神社参道の中ほどに移転。料理の一人前価格が「金一分(1万5千円~2万5千円)」とさらに高額になりましたが、それでもお客さんは絶えません。どのような客層だったのでしょう。
佐賀藩の元藩主、鍋島直正と佐賀藩士、佐野栄寿左衛門が来店したという記録が残っています。栄寿左衛門は、後に日本赤十字社を創設する佐野常民で、この時は海軍伝習所の一期生として長崎に来ていたのです。この常民の助言で屋号を「自由亭」と再度改称しました。さて、鍋島直正が長崎に来た理由ですが、オランダ軍医ボードインに診察してもらうためでした。ボードインの診断は、胃腸が衰弱しているが、これは薬よりも日頃から消化がよく滋養分の高いものを飲食することが大切、それには「肉が一番」というアドバイスでした。直政は診断後、西洋料理でボードインをもてなしました。調理を担当したのは丈吉で、その日のメニューの記録が残っています。「鶏スップ(スープ)」「牛ヒイトリ」「豚フラート(焼き肉)」「野菜ヲートルストーフ(蒸し野菜)」「コラールストーフ(蒸した海藻)」「ハーエル(ワッフル?)」「マンス(杏)」「コヲヒイ(コーヒー)」「パン」というフルコース。注目すべきは肉料理です。これらの肉、特に牛肉はどこから仕入れたのでしょうか。
安政6年(1859)の開国以降、ぞくぞくと長崎にやってくる外国人たちが住む場所として「大浦外国人居留地」を造成しました。この大勢の外国人は、当然肉を食べます。鎖国期のオランダ人が食する牛肉は「バタビアから運んできた」ことは先述しました。開国したわけですから、幕府も何かしらの対応をしないわけにはいきません。文久2年(1862)、ついに公式の「牛解場(屠殺場)」を、現在の浪の平海岸の古河町のところに建てました。すでに肉の専門店もできており、長崎では肉の入手が徐々にできるようになっていたのです。丈吉が直政とボードインに肉料理を振る舞ったのは元治元年(1864)のこと。国産の牛肉だったのかもしれません。
慶応4年(1868)大阪が開港され、巨大な居留地ができます。長崎の規模を遥かに越える外国人たちがここに集まりました。この川口居留地の世話人である五代友厚は「川口居留地外国人止宿司長(外国人向けホテルの責任者)」に丈吉を指名。丈吉は長崎の店を閉めて、新天地大阪で明治2年(1869)、「自由亭ホテル」を開業しました。オランダ語が話せて、西洋料理をつくれる丈吉は適任だったのです。その後、自由亭は「神戸」「京都」そして「長崎」に支店を出し、大いに繁栄しました。
明治10年(1877)京都と神戸間に鉄道が開通。明治天皇を招いて開業式と記念式典が京都でおこなわれました。この時の昼食を丈吉が担当、詳しいメニューが残っています。その中に「シャロイン、ビフロース(牛肉の蒸し焼き)」がありました。自ら肉食を解禁して5年、和食好きの天皇陛下は、丈吉の西洋料理をどう味わったのでしょうか。
長崎阿蘭陀出島の図<漢洋長崎居留図巻の内>
(長崎歴史文化博物館蔵)
長崎は「洋食」の発祥の地です。丈吉のように、長崎で「西洋料理」と出会い技術を習得した者が、後に日本全国に散らばっていき「洋食」の普及に寄与したであろうことは容易に想像できます。あるいは大槻玄沢のように、長崎で体験した「オランダ正月」を江戸で再現したり、あるいは司馬江漢のように「紀行文」を出版したりして広めた人もいました。いずれにしても情報の出所は「長崎」です。
寛永20年(1643)に発刊された『料理物語』には南蛮料理のレシピが紹介されているのですが、その中に「鶏の水たき」という料理があります。長崎の名物家庭料理だったそうですが、これが福岡に伝わり「博多名物 鶏の水炊き」になりました。幕末に流行した「シャモ鍋」も同じルーツです。坂本龍馬が暗殺される晩、食べようとしていたのがこの鍋でした。長崎との縁の深さを感じます。
【西洋は長崎から~「洋食」ゆかりのスポット】
平成3年(1991)、長崎家庭裁判所建て替えにともなう発掘調査で、ポルトガルから伝来したのは宗教だけではなく、西洋の食文化もいっしょに持ち込まれたことを裏付ける発見がありました。場所は現在の万才町。慶長年間(1596~1615)に作られた陶磁器といっしょに動物の骨類が発掘されたのです。特に牛が多かったのですが、「四肢骨」ばかりで、「背骨」と「顎骨」が無かったことから、別の場所で屠殺、解体されてから運び込まれたと考えられます。砕かれた骨もあり、これはスープのための「だし取り」に使われたようです。
長崎家庭裁判所
出島で行われたパーティーは「オランダ正月」だけではありません。クリスマス・パーティーも行われました。といっても「キリスト教」を表に出せませんから「オランダ冬至」と題して、冬至を祝うという建前で、実は「クリスマス」を祝ったのです。冬至は、旧暦だとだいたい11月中ですが、太陽暦では12月後半になり、極めてクリスマスの日に近かったのです。
この時の豪華な料理は現在、出島カピタン部屋二階に再現されています。
出島オランダ商館
文久3年(1863)、本邦初の洋食屋「良林亭」を草野丈吉が開業。翌元治元年(1864)若宮神社参道の中ごろに移転しました。さらにその翌年、ある人物がすぐ近所に引っ越してきました。坂本龍馬です。慶応元年(1865)、薩摩藩の援助を受けて、同士たちと「亀山社中」を結成したのです。歩いて数分のところに、評判の西洋料理店があるのですから「龍馬が行かなかったはずはない」と思うのですがいかがでしょうか。
良林亭(自遊亭)跡
明治11年(1878)、「長崎自由亭」が約十年ぶりに復活しました。最初は本大工町、同年の11月に馬町に新築移転。オープン日には、各国の領事が招かれ、玄関でロシア軍楽隊12名が演奏したそうです。この建物は、明治20年(1887)に長崎地方裁判所に売却され「検事正官舍」として使用された後、昭和49年(1974)にグラバー園に移築されました。現在は喫茶室になっていて、コーヒーやケーキが飲食できます。建物の傍らには、昭和52年(1977)「西洋料理発祥の碑」もあります。
自由亭
明治期、長崎の三大西洋料理店として名を馳せていたのは「自由亭」「福屋」「清洋亭(西濱町)」です。「福屋」の創業者中村藤吉は、持病を治すため食事療法を研究した結果「西洋料理」に行きつき、長崎にやってきました。実際、洋食は美味くて滋養があったことから「これを万人に知らしめたい」という思いから西洋料理店を開業。名物料理の「牛の頭」は、なんと眉間に穴をあけて、スプーンですくいだして食べたそうです。
福屋跡