日本三大中華街のひとつ、新地中華街の程近くにある唐人屋敷跡。現在、住宅地に溶け込むこの場所には、かつて日唐貿易で往来する唐人(中国人)たちを住まわせた屋敷がありました。もともと長崎と唐との貿易の歴史は古く、長崎の町がポルトガルとの貿易で開港する以前からとも言われています。はじめは、市中の民衆の家に散宿していた唐人たち。江戸幕府は、密貿易を防ぐため、あるいはキリスト教を禁じるために一カ所に集め収容する屋敷の建設を命じます。そして元禄2年(1689)、十善寺郷幕府御薬園であった土地に、広さ約9400坪の唐人屋敷が完成したのでした。この広大な敷地には、1度に2000人前後もの唐人たちを収容することができる二階建ての瓦葺(かわらぶき)長屋十数棟が建ち並んでいました。また、周囲は高さ約2mの練塀(ねりべい)や竹垣などで囲まれ、その周囲に水堀や空堀を設置。さらにその外周には通路を配し、竹矢来(たけやらい)で二重に囲んでいました。入口には2つの門が設けられ、唐人や一部の限られた日本人以外は出入り禁止。出島と同じように、長崎奉行所の支配下で町年寄(まちどしより)など、地役人により厳しく管理されていました。179年もの長きに渡り、海外交流の窓口として機能したこの唐人屋敷跡は、明治元年(1868)に解体。その後は廃屋となり、明治3年(1870)に焼失。町は外国人居留地として活用されました。
現在、唐人屋敷跡がある館内町には、土神堂・天后堂・観音堂の遺構に加え、解体の翌年の明治2年(1869)に長崎華僑が設立した商工団体「福建会館」が創設した旧八びん会所、福建会館(星聚堂)が点在しています。また、近年、新たに唐人屋敷の範囲を示すモニュメントをまちの四隅に配置し誘導門・大門を設置して長崎にかつて存在した唐人屋敷の範囲を示しています。
多くの観光客が唐人屋敷跡を訪れるようになったのは、1994年以降。もともと華僑の人々が旧正月を祝う中国の春節の行事が規模を拡大し「長崎ランタンフェスティバル」としてスタートしてからです。中国提灯、ランタンのあかりに灯された唐人屋敷跡の通りや四堂は幻想的で、長崎のなかの中国を強く感じさせます。
今回おすすめするのは、そんな唐人屋敷跡。長崎の文化に多大な影響を与え、長崎ならではの古い町並みにも出会える場所。石畳、急な石段、迷路のような古い路地……実に撮影ポイントにあふれています。ぜひ、気ままに散策しながら、絶好のポイントでシャッターをきってみてはいかがでしょうか?
長崎名物 ちゃんぽん発祥の中華料理店「四海楼」は、明治32年(1899)創業。開業当初は、唐人屋敷大門の西側水路側にあった番所の近くに店を構えていました。つまり、唐人屋敷跡はちゃんぽん発祥の地。現在、新地中華街から眺めると大きな門が立っています。唐人屋敷象徴門です。近年完成したこの新たな門が、唐人屋敷跡の存在を強くアピールしています。
土地や家を守り、豊作の神様として信仰される「土神」を祀(まつ)る「土神堂」、航海の神様 天后聖母(媽祖(まそ))、関帝を併祀する「天后堂」、観世音菩薩と関帝を祀る「観音堂」。唐人屋敷時代に建立された建物を明治期に華僑の人々が再建し、今に至っています。それぞれ趣き深いものばかり。ぜひ足を運んで実感してください。
天后堂裏の側溝や、川底に石が敷き詰められた「森橋」「森伊橋」「榮橋」付近では、今も唐人屋敷時代の堀の跡を見ることができます。複雑な石組みが施された「榮橋」の橋下の石張りも唐人屋敷時代の堀跡です。
江戸時代、長崎から旧野母崎町へ至る六つの道のひとつ、野母崎方面、観音寺へ向かう唯一の道が御崎道(みさきみち)。中華街、湊公園横の広馬場から野母崎脇岬にある観音寺へ至る旧道の始まりの碑が、唐人屋敷跡エリア、十人町に建っています。碑は、文政6年(1823)に今魚町(現 魚の町)の住人によって建立されたもの。かなりの風化から文字を読み取ることは不可能ですが「みさ起みち 今魚町 文政六年」と刻されているそうです。
長崎の中に息づいた中国と、古い町並みの中に、長崎らしさを発見。ぜひ、あなたが出会ったベストショットを撮影してみてください。
【 館内町界隈 】