文・宮川密義


今回は新地の中華街から唐人屋敷跡を“歌さるき(歩き)”してみましょう。(本文中の青文字はバックナンバーにリンクしています)

(1) 新地中華街
  チャンポン、皿うどんで有名な新地の中華街は地名の通り、元禄15年(1702)に梅香崎の海面を埋め立てて在留中国人の荷物蔵「新地蔵所(しんちくらしょ)」を造りました。中華街の中心に新地蔵跡の石碑が建っています。長崎の歌の中にもこのあたりの風情や名物チャンポンが数多く歌われています。
(2) 湊公園
  中華街を抜けた所にランタンフェスティバルのメーン会場にもなる湊公園があります。昭和13年(1938)に開設、平成2年(1990)に開かれた長崎旅博に合わせて中華門や中国風の庭園も造られ、平成6年に再整備されました。
(3) 福建通り (4)唐人屋敷跡石碑
  湊公園から広馬場商店街を抜けて十字路の隅に「唐人屋敷跡」の石碑が建っています。名物チャンポンの元祖・四海楼があった所。左側の十善会病院との間の坂道が福建通り。右手に独特のムードをたたえた館内市場が見えます。
(5) 土神堂
  館内市場の上に地主神をまつる「土神堂(どじんどう)」があります。元禄4年(1691)、唐船の船頭たちの願いで建立されたといわれます。
(6) 福建会館
  明治元年(1868)に福建省出身者が創設した八(はちびん)会所(交流のための集会所)。火災で消失した後、明治30年(1897)に再建、福建会館と改称しました。
(7) 観音堂
  天文2年(1737)に建立され、火災消失後に数回改修され、大正6年(1917)に改築。堂内には観世音菩薩と関帝像が安置されています。
(8) 天后堂
  唐人屋敷の南京地方出身者たちが天文元年(1736)に航海の安全を祈願して建立しました。船神様・媽祖(まそ)である天后聖母像と関帝像がまつられています。

【新地〜唐人屋敷跡周辺マップ】


*このエリアにちなんだ歌

ランタンフェスティバルのメーン会場
としても賑わう中国風の「湊公園」

長崎には中国から様々な文化がもたらされましたが、音楽の分野では明楽(みんがく)と清楽(しんがく)があります。明楽が伝えられたのは唐人屋敷が出来る20年前の寛文6年(1666)のことでした。
文化文政年間(1804〜1829)になって長崎で清楽が盛んになり、次第に明楽・清楽を折衷した新音楽・明清楽(みんしんがく)が形成されます。その代表曲が「九連環(きゅうれんかん)」で、この旋律を基にした「かんかんのう」や「梅ヶ枝節」など多くの替え歌が幕末から明治、大正、昭和にかけて流行し、日本の流行歌謡に大きな影響を与えました。(「明清楽『九連環』の軌跡」
ここでは、バックナンバー「“長崎の中国”を歌う」で紹介できなかった歌の中から、中国船や中国人、中華街を取り入れた歌を年代順に紹介します。
なお、新地中華街にちなんだ歌“チャンポンの歌”はバックナンバー「長崎の食べ物賛歌」「長崎言葉の歌(下)」で紹介しています。

1.「唐人船」

(昭和16年=1941、松坂直美・作詞、佐渡暁夫・作曲、三根耕一・歌)


長崎に中国の船“唐船(とうせん)”が最初に来航したのは、約440年前の永禄5年(1562)のことでした。場所は港外の戸町浦(今の深堀町付近)だったそうです。
この歌は、ポルトガルやオランダ、中国と貿易をしていた鎖国時代の、長崎の賑やかな様子を描写しています。
“南蛮寺(教会)”の鐘の音が流れる新地中華街の石畳を歩く人の下駄のひびきが、夕方の静かな町の様子が感じられます。
作詞の松坂直美(まつざか・なおみ)は壱岐の出身。戦後ヒットした「緑の牧場」や「楽しいハイキング」「名月佐太郎笠」なども作詞しています。
吹き込んだ三根耕一(みね・こういち)はディック・ミネの別名(本名は三根徳一)です。「三根耕一」は昭和13年から短期間使った後、昭和15年には内務省からの指示で終戦まで使い、戦後に「ディック・ミネ」に戻りました。
長崎の歌は、戦後まもなく、映画「地獄の顔」に挿入された「長崎エレジー」や「夜霧のブルース」も歌っています。


明末清初期の中国船を復元した
「飛帆(フェイファン)」=出島岸壁で


2.「唐人夜船」

(昭和25年=1950、吉川静夫・作詞、吉田 正・作曲、竹山逸郎・歌)


昔は中国からの船のほかに、ベトナムやタイ方面からやってくる船も含めて“唐船”や“唐人船”と呼んでいました。初めは悲壮な気持ちで荒海を越えて来ていたでしょうが、次第に長崎に溶け込み市中に住む人も多くなります。
長崎は地理的にも中国に近く、同じ東洋人。キリスト教徒でもなく鎖国時代でも中国人の来航は寛大な態度で迎えられ、長崎市民と次第につながりを深めていきます。
この歌は荒海を越えてやってきた唐人船と、異国の夜を過ごす乗組員の心を歌ったもので、作詞は青江三奈さんの「長崎ブルース」を書いた吉川静夫。作曲は当時ベテランの吉田正。歌も当時「泪の乾杯」「熱き泪を」「流れの船唄」などで人気のあった竹山逸郎(たけやま・いつろう)でした。


新地中華街の中心に建つ
「新地蔵跡」の石碑



館内町の上り口に建つ
「唐人屋敷跡」の石碑


3.三条町子の「長崎夜曲」
(昭和25年=1950、西岡水朗・作詞、利根一郎・作曲、三条町子・歌 )


チャイナタウンの華やかな賑わいと、可愛いクーニャン(中国娘)の恋人との別れの哀愁を歌っています。
長崎出身の作詞家、西岡水朗(にしおか・すいろう)の作品ですが、このころの水朗は結核を病み、娘の嫁ぎ先・伊東市に転地療養していました。
この作品は療養先で書いたのか、それ以前、再起を目指して疎開先の秋田から東京に戻ったころの作品なのかは分かりませんが、「ギャマンコップに黄金の酒」や「花の蘭燈」など、水朗らしいエキゾチックな描写が多く見られます。
歌っている三条町子(さんじょう・まちこ)は昭和23年に宮野信子でデビュー。三条町子に改名して24年に吹き込んだ「かりそめの恋」がヒットしました。声の質から悲しい歌が多かったようですが、この歌は芯のある声で歯切れ良く歌っています。


独特のムードで観光客に人気の
新地中華街


4.「青いガス灯のチャイナタウン」
(昭和27年=1952、山本逸郎・作詞、織戸光次・作曲、瀬川 伸・歌)


青いガス灯がともる中華街で、外国から帰った恋人と束の間の逢瀬を楽しむ中国人の娘さん。ガス灯は確かに青白く見えますが、最近のランタンフェスティバルのイメージでは赤いランタンがふさわしいように思います。
これを歌っている瀬川伸(せがわ・しん)は、今の演歌のベテラン瀬川瑛子さんの父親。作曲家の江口夜詩(えぐち・よし)に師事して、昭和14年「春の港は」でデビュー。戦後は昭和24年に「祖国の灯」で再デビュー。「上州鴉」など“鴉もの”5曲のほか、マドロスもの、股旅もので活躍した人です。
長崎の歌も「青いガス灯のチャイナタウン」のほかに(1)オランダ船の船長さん(昭和25年)、(2)バッテン港の蒼い船(昭和27年)、(3)さらば長崎港街(昭和27年)、(4)長崎の黒船祭り(昭和28年)、(5)長崎のマドロスさん(昭和30年)と5年間に合わせて6曲をレコードで発表しています。

ランタンフェスティバルのメーン会場
(湊公園)
娘の瀬川瑛子さんも「長崎の夜はむらさき」を筆頭に、合わせて10曲も歌っており、長崎に縁が深い父娘です。


5.「長崎のチャイナタウン」
(昭和28年、山本逸郎・作詞、上原賢六・作曲、平野愛子・歌)


この歌は「“長崎の中の中国”を歌う」で紹介ずみですが、新地中華街のムードにふさわしい歌なので、改めて紹介します。
ここで歌われている“ランタン”は「ランタンフェスティバル」でともされる赤いランタンに通じるイメージがあり、“ほのかに揺れる”娘ごころ、“切なく燃える”恋ごころ、そして霧の夜に“にじんで溶ける”ランタンの灯りが見事に描かれ、歌われています。
金の耳輪、中国料理、そしてチャルメラの音…、中国ムードを深める小道具も十分です。ランタンフェスティバルのイメージ・ソングとして推薦したい歌です。
歌っている平野愛子(ひらの・あいこ)は戦後「港が見える丘」でデビュー、「君待てども」「白い船のいる港」などのヒットで知られる人です。


「長崎のチャイナタウン」
の歌詞カード


長崎のチャイナタウン入り口にある中華門
(銅座川に面する北の「玄武門」)


6.岡田ゆり子の「長崎夜曲」
(昭和35年=1960、石本美由起・作詞、万城目正・作曲、岡田ゆり子・歌)


サボン色に輝く月が見える窓辺で、中国娘が寂しげに歌っている、のどかな長崎の夜の風景です。大ヒット曲「長崎のザボン売り」を作詞した石本美由起の作品。
昭和35年の正月に上映された東映映画「旗本退屈男・謎の幽霊島」に挿入され、レコードは映画に1カ月遅れて発売されました。
映画は、額に三日月形の刀傷のある、おなじみ市川右太衛門扮する『退屈男』のカッコいい立ち回りで人気を集めましたが、主題歌はあまり印象に残らなかったようです。


唐人屋敷跡の天后堂前で行われた龍踊り
(2006ランタンフェスティバルで)


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