文・宮川密義

元亀2年(1570)の開港以来、長崎には外国文化が押し寄せました。
特に中国文化は市民に浸透。
音楽の分野では明清楽(みんしんがく)が伝授され、現在でも長崎明清楽保存会(山野誠之会長)によって、大切に受け継がれています。

〈長崎明清楽保存会の皆さん〉


江戸、大坂で大流行
なかでも「九連環(きゅうれんかん)」は明清楽の代表曲として有名になりました。
「九連環」は“九つの環でできた知恵の輪”のことで、次のような中国語の歌詞があります。



意味は
「見ておくれ、わたしがもらった九連環。九とは九つの連なった環のことよ。両手で解こうとしても解けません。刀で切ろうとしても切れません。ええ、なんとしょう」

「どなたかいませんか、解いてくれる人。その人がいたら夫婦になってもいい。その人はきっと好い男」という意味。

「九連環」は、次の替え歌「かんかんのう」を生みました。



意味不明の歌ですが、女性が恋人をほめあげる気持ちを中国風の歌詞で表現しています。
「九連環」の情緒的な歌詞とは似つかぬ卑わいな歌に変わりましたが、これに合わせて踊る「看々(かんかん)踊り」は文化、文政(1804〜1830)の頃、江戸、大坂で大流行。
江戸では町奉行が禁止令を出す騒ぎにまで発展しました。

長崎名勝図絵に描かれた
「看々(かんかん)踊り」



明治から昭和まで替え歌続出

「かんかんのう」は明治(1868〜1912)になって、さらに「ホーカイ節」(春風に 庭にほころぶ梅の花、鶯(うぐいす)とまれやこの枝に ホーカイ、そちがさえずりゃ 梅がモノ言う心地する ホケキョ ホケキョウ…)や「さのさ節」「むらさき節」「くれ節」「鴨緑江節」「満州節」「とっちりちん」などと形を変えながら、はやり続けます。

明治には“梅ヶ枝の手水鉢(ちょうずばち) 叩いてお金が出るならば、 若しもお金が出た時は その時ゃ 身受けをそうれ頼む…”の「梅ケ枝節(うめがえぶし)」が生まれ、昭和12年(1937)には“もしも月給が上がったら、私(あたし)はパラソル買いたいわ、僕は帽子と洋服だ…”の「もしも月給が上ったら」(林伊佐緒、新橋みどり・歌)になります。

昭和29年に作られ、宴会での余興に歌い踊られ、お座敷ゲームでも楽しまれた“野球するなら こうゆう具合にしやしゃんせ…”の「野球拳」もこの流れを酌むものです。

このように、長崎発の明清楽「九連環」は日本流行歌謡の源流の一つとして、最近まで生き続けているわけです。


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