文・宮川密義

戦後間もないころは“百万ドル”とうたわれ、その後“一千万ドル”に格上げされた長崎の夜景は歌の素材にぴったりです。
1,534曲ある長崎の歌の大部分が夜を舞台にしています。
特に戦後、演歌、ブルース時代を迎えてからは、昼間の歌を探すのに苦労するほどです。
タイトルに「夜」が付けられた歌は53曲、「ナイト」が6曲、「長崎夜曲」が7曲、ほかに「南蛮夜曲」や「長崎小夜曲」などが6曲。
また「長崎の夜」という同じタイトルが6曲。
そのほかの「…の夜」まで含めると19曲になり、「…夜船」も4曲、「夜霧の…」は3曲あります。


1.「長崎夜曲」
(昭和16年=1941年、矢島寵児・作詞、島口駒夫・作曲、東海林太郎・歌)




鍋冠山展望台から見た長崎の夜景
(松ヶ枝地区埋め立て前)

昭和16年(1941年)といえば、12月に太平洋戦争が始まりますが、この歌が出たのは1月で、戦争に向けて国民の精神を鼓舞するために出された「戦陣訓の歌」と同時期でした。
2年前の昭和14年に出た「長崎物語」のヒットで長崎に関心が高まっており、長崎情緒あふれた「長崎夜曲」が登場したわけですが、レコード発売から11ヵ月で太平洋戦争に突入。
歌も「そうだその意気」「出せ一億の底力」「進め一億火の玉だ」などの軍歌や戦時歌謡が幅を利かせ、「長崎夜曲」のような叙情歌謡や悠長な歌の出る幕はなくなってしまいました。


2.「長崎の夜」
(昭和26年=1951年、門田ゆたか・作詞、竹岡信幸・作曲、藤山一郎・歌)




「長崎の夜」と名付けた歌は6曲あります。
同じ題名の歌が多いというのも、長崎ならではの現象ではないでしょうか。
また、昭和26年から30年までに3曲出ています。戦後「長崎のザボン売り」や「長崎の鐘」などのヒットで、一躍、長崎にスポットが当てられたことを物語ります。
ここで紹介する藤山一郎(ふじやまいちろう)さんのこの歌も「赤いランプ」「紅の窓」というような長崎の異国情緒に、「夢の夜恋の夜」とロマンチックなムードを盛り込み、ゆっくりしテンポで聴きやすい歌になっています。
門田(かどた)ゆたか・竹岡信幸(たけおかのぶゆき)コンビは、4年後の昭和30年にも同名異曲の「長崎の夜」を霧島昇(きりしまのぼる)さんの歌で発表しています。
よほど長崎の夜が気に入ったのでしょう。


3.「長崎の夜」
(昭和53年=1978年、吉川静夫・作詞、渡久地政信・作曲、金沢明子・歌)




吉川静夫(よしかわしずお=作詞)・渡久地政信(とくちまさのぶ=作曲)コンビは、昭和43年に青江三奈(あおえみな)さんの「長崎ブルース」(後述)で大ヒットを飛ばしました。
この作品も、どことなく「長崎ブルース」に似ていて情緒があり、歌としても親しめるものがあります。
歌った金沢明子(かなざわあきこ)さんは、この歌とA面の「ながさき踊り」のキャンペーンで長崎にやって来ましたが、その直後からNHKテレビの民謡番組に毎週出演、一躍茶の間の人気歌手となりました。


ライトアップされた眼鏡橋

4.「長崎ナイト」
(昭和31年=1956年、矢野 亮・作詞、林伊佐緒・作曲、若原一郎・歌)




歌詞には「サンタマリヤのミサの鐘」「色ガラス」「坂の丸山、石だたみ」といった長崎の良いところを盛り込み、長崎言葉の「ばってん」を巧く組み合わせています。
曲調も今までの長崎の歌にはなかったルンバ調です。
作曲の林伊佐緒(はやしいさお)さんは歌手で有名でしたが、作曲もこなした人。
長崎ものでは「南蛮夜曲」、「長崎の女(ひと)」を作曲、「バテレン夜曲」は自ら歌いました。
若原一郎(わかはらいちろう)さんは昭和33年の「おーい中村君」のヒットで知られます。
抜けの良い伸びやかな声が、この「長崎ナイト」にぴったりで、特に「よかばってん」が印象に残ります。



5.「長崎ブルース」
(昭和43年=1968年、吉川静夫・作詞、渡久地政信・作曲、青江三奈・歌)




「思案橋ブルース」に1カ月遅れて出たこの歌は、翌44年の「長崎は今日も雨だった」とともに話題を集め、これら3曲が競い合って歌謡界に“長崎ブーム”を巻き起こしました。
「思案橋ブルース」と同じく、夜の思案橋から丸山あたりの情緒をしっとりと歌っており、夜の歌を代表する作品といえます。
作詞の吉川静夫さんは取材に長崎にやって来ましたが、市の観光課などには立ち寄らず、独りで街をそぞろ歩きして、土地の空気や人情を酌み入れて作詞したそうです。
一方の渡久地政信さんは18歳の時から3年間長崎に住み、鯛のデンブ工場で働いたことがあります。
吉川さんの詞を見て、夜の丸山を冷やかして歩いたことなどを思い出し、そのころ感じていた長崎の色っぽさを出そうとして作曲したということです。


「長崎ブルース」のレコード

6.「長崎の夜はむらさき」
(昭和45年=1970年、古木花江・作詞、新井利昌作曲、瀬川映子・歌)




「思案橋ブルース」「長崎ブルース」「長崎は今日も雨だった」の大ヒットで“長崎ブーム”たけなわの昭和45年に出ました。
レコード発売直前、発表会が「思案橋ブルース」を生んだ長崎市銅座町の「クラブ十二番館」で開かれました。
瀬川映子(せがわえいこ)さんのほか、作詞家の星野哲郎(ほしのてつろう)さんも介添え役でやって来ました。
この歌を作詞した古木花江(ふるきはなえ)さんは星野哲郎夫人、作曲の新井利昌(あらいとしまさ)さんは星野さんの一番弟子でした。
このときの瀬川さんはすらりとしたスタイル(168cm)、当時流行していた紫色のパンタロンを着て、エキゾチックなムードで“長崎の夜”を歌っていました。


「長崎の夜はむらさき」の発表会で
歌う瀬川映子さん

「長崎の夜はむらさき」のレコード


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