全国で中華街があるのは、横浜、神戸、長崎の三都市。いずれも中国との交流が街の造成に大きく関わっていることが共通点です。横浜、神戸の両都市に比べ、規模が小さい長崎の中華街ですが、その歴史は、安政の開国により開港し、明治期に発展した2都市より遥かに古く、成り立ちも実に独特。それはポルトガル船の来航により長崎港が開かれ、町が誕生した元亀2年(1571)ごろまで遡ります。その当時、明王朝は日本への渡航を認めていませんでしたが、実際には中国人海商により日本との貿易は絶えず行われており、長崎にも多くの中国船が来航していました。江戸時代に入り、徳川幕府により中国船の入港が長崎港に限定され、舳先に龍や瑞鳥といった吉祥文様をあしらった唐船が春、夏、秋の3回、多くの富を運んできました。長崎市中に家を構えた住宅唐人の多くは日本女性を妻に持ち、帰化するなどして永住権を獲得。後に幕府は、密貿易防止などを理由に、唐人屋敷を造成し来航する中国人たちを収容しますが、彼らは、自国の文化、慣習を長崎に持ち込みました。今も長崎の町に息づく中国テイスト満載の祭り、食、慣習は、長きに渡る中国との交流の歴史の賜物なのです。
さて、江戸期に描かれた長崎港図を目にすると、見慣れた扇型の「出島」に並び、港に突き出す長方形の築島があります。実はこの築島こそ、現在の長崎新地中華街の場所。以前の荷蔵が火災で焼失してしまったことから、唐人屋敷前の海面を、3年の月日をかけ海を埋め立て造成された中国貿易の輸入品を納める倉庫(新地蔵)です。敷地は東西に70間、南北に50間、総坪数3,500坪のほぼ長方形。当時は12棟60戸の土蔵が建てられていました。
安政の開国により日本で唯一の貿易港の特権を失った長崎。やがて、賑わいを極めた唐中国貿易の施設であった唐人屋敷も廃止され、来航した中国人たちは大浦の外国人居留地に居住しましたが、新地(現中華街)が外国人居留地に編入されると、中国人たちは新地に進出し、次々に貿易商社が建設されました。それに加え、横浜、神戸と同様に、明治・大正・昭和時代と、「上海航路」にて海を渡り、長崎に新天地を求めて来航した中国人たちも多数いました。現在の長崎新地中華街は、長崎の歴史とともに歩んで来られた長崎華僑の子孫の方々が、全力で盛り立てておられます。
では、そんな歴史ある「長崎新地中華街」でのシャッターポイントを見つけてみましょう。
中国の旧正月、春節祭を祝う「長崎ランタンフェスティバル」では、輝くランタンで埋め尽くされた長崎新地中華街。頭上を彩る無数の灯りは毎年多くの人々を魅了しています。かつては海に浮かんでいた築島も、現在は陸続き。昭和61年(1986)、中華街中心、十字路の延長、四方入り口に、牌楼(パイロウ)と呼ばれる色鮮やかな中華門が完成しました。この東西南北、四方に建つ中華門は、風水に基づき建てられているので、きちんと意味を持っています。銅座川に面する北の玄武門は水を、湊公園へと開かれた南の朱雀門は火を呼び込むとされていて、鬼門の北東には華僑の菩堤寺、崇福寺があり邪気を封じているのです。ここは、いわば吉祥スポットですね。門の裏側には、東門は青龍、西門は白虎、北門は玄武(亀と蛇)、南門は朱雀と門を守る神が彫られています。北門の玄武門正面は、長年暗渠となっていましたが、近頃は、長崎港へと注ぐ銅座川が姿を現し、いい雰囲気の景観が誕生しました。朱色の「新地橋」も中国色満点! 橋上からもいいショットが狙えそうです。
中華街には、中華料理、中国雑貨、中華食材などの店が軒を連ねていますが、その店舗の装飾にも注目です。福禄寿、松竹梅、龍などなど、中国で吉祥の意のある意匠が施されていたり、店頭で中国風の狛犬が出迎えてくれたりします。 ここでパチリ! というのもアリですね。
通りを歩いていると、あちらこちらでたなびく湯気と甘い香りに出会います。江戸末期から明治にかけ、福建省から来た唐人たちにより伝わった点心をひとひねりさせた卓袱料理の一品、いわば長崎飲茶の店頭販売です。エビのすり身をパンにはさみ、油でこんがりきつね色に揚げた「ハトシ」や、トロットロに煮込んだ東坡煮(とうばに)をはさんだ「角煮まんじゅう」は、長崎人のソウルフード。ほかにも「よりより」の愛称で親しまれる揚げ菓子や、中国カステラ「マーラカオ」など、名物の中華菓子を頬張りながら、通りで撮るのも旅の記念になりそうです。
中国と長崎の長い交流史が凝縮した長崎新地中華街。いろんな物に目を配り、あなただけのベストショットを撮影してみてください。
【長崎市新地中華街】