文・宮川密義

長崎にとって中国はオランダよりも近くて密接で、文化的・経済的影響は比較にならないほど唐人からのものが多く、特に漢学、漢画のほか、風俗・生活・食物など、各方面に影響をもたらしました。

長崎の歌の中にも、中国の人たちへの親しみ、あこがれを込めたものなど、数多くあります。
ここでは『唐人』をタイトルに付けた歌の中から選んでみました。


長崎古版画に描かれた「唐船入津の図」


1.「恋の唐人船」

(昭和12年、久保田宵二・作詞、竹岡信幸・作曲、霧島 昇・歌)




昭和12年(1937)といえば、7月に日華事変がぼっ発、「露営の歌」を皮切りに、「愛国行進曲」などの軍国歌謡競演時代の開幕となった年です。
しかし、事変の4ヵ月前の3月に出た「恋の唐人船」は戦争への暗さはまだ感じられず、中国ムードをしっとりと描写しています。
吹き込んだ霧島昇は福島県の出身。
前年の11年にデビューしたばかりで、12年の「赤城しぐれ」で将来性が期待され、13年の「旅の夜風」、それに続く「愛染かつら」三部作で不動の地位を築いた人です。
この「恋の唐人船」は霧島昇が大歌手として名を上げる直前の歌で、初々しさも感じさせます。


2.「長崎唐人ばやし」
(昭和10年、西岡水朗・作詞、古関裕而・作曲、ミス・コロムビア・歌)




長崎出身の作詞家、西岡水朗(すいろう)らしい軽妙なリズム感あふれる歌です。
長崎の中国街とその周辺のさんざめきが聞こえてくるようです。
「唐から唐子(からこ)が欣来来(きんらいらい)」というハヤシが効いています。
当時“覆面歌手”で話題を集めたミス・コロムビア(松原操=昭和14年に霧島昇と結婚)の美声が一層ムードを盛り上げています。
水朗の作品には『鶴の港』という表現が良く使われました。
鶴の港は長崎の港の形を表すもの。
今の港からは想像できませんが、県庁から市役所までの細長い高台を『鶴の首』、その両側に海が入江となって入り込んでいたので、稲佐と五島町付近の陸地を『翼』に見立てた説と、逆に稲佐と五島町付近に入り込んだ海、つまり港が『胴体』で、首は竹の久保付近までの浦上川が『くちばし』を突っ込んだように見えたことから、鶴の形をした港という説がありました。


「長崎唐人ばやし」の歌詞カード


3.「長崎のチャイナタウン」
(昭和28年、山本逸郎・作詞、上原賢六・作曲、平野愛子・歌)




新地の中華街で、かわいい笑顔を見せる姑娘(クーニャン:中国語で少女の意)を、親しみを込めて歌っています。
最近の「ランタンフェスティバル」のイメージにぴったり。
平野愛子は戦後、「港が見える丘」でデビュー、「君待てども」「白い船のいる港」などのヒットで知られる人で、デビューから6年、ベテランらしい魅力的な歌唱がこの歌をヒットさせました。


ランタンフェスティバルで
にぎわう新地の中華街



4.「長崎の唐人娘」
(昭和31年、野村俊夫・作詞、古関裕而・作曲、関 真紀子・歌)




「長崎のチャイナタウン」もそうですが、中華街や中国人を取り入れた歌の中には、かわいい中国の娘さんがよく登場します。
中国娘を『姑娘(クーニャン)』と呼びますが、この歌は長崎の『姑娘』を歌った代表的な歌です。
歌詞も「花の前髪ゆらゆらと」「青いヒスイの耳飾り」と独特のムードを漂わせています。
歌の中のクーニャンは前髪を下げ、繻子(しゅす)の靴を履き、青いヒスイの耳飾りを付けて夢を見るような表情をしています。
さらに、窓辺には鳥籠が下がり、赤い花が散っている…なんともエキゾチックな雰囲気です。


5.「長崎の唐人祭り」
(昭和28年、吉川静夫・作詞、吉田 正・作曲、渡辺はま子・歌)




中国盆を直接歌ったものはありませんが、この「長崎の唐人祭り」にはペーロンや銅羅、花火、切子灯籠などが出てきます。
特定の祭りを描写したものではなく、中国街の全体的なムードで書かれているようですが、長崎の人たちには中国盆に映るのではないでしょうか。
長崎のお盆が済み、秋の気配を感じるころ、中国盆が始まります。
中国盆は鍛治屋町の崇福寺で、毎年旧暦の7月26日から3日間(新暦では9月の初め=今年は9月3日〜5日)行われます。


中国盆(崇福寺)のフィナーレ

境内には線香の煙やにおいが立ち込め、爆竹が鳴り、中国服の娘さんたちもいて、異国ムードいっぱい。
最終日の夕刻には、丸ゆでの豚、アヒル、山羊、鶏や伊勢エビ、果物など山海の珍味、中国のお菓子などの供え物が境内せましと並べられます。
夜10時ごろになると「金山」「銀山」を山積みして火が付けられ、立ち上る炎が夜空を焦がします。


※註=歌以外の中国に関しては、「特集:長崎でチャイナに出会う」を参照して下さい。



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