“異国情緒豊か”が代名詞の長崎の町ですが、1999年に発刊され直木賞を受賞した、なかにし礼著の小説『長崎ぶらぶら節』や、その映画化により、花街「丸山」は一躍有名スポットに。これまで眠っていた長崎の中の“和”の文化が表舞台へと登場しました。花街とは、かつて遊郭が建ち並んでいた町のこと。「丸山」は、今から約370年前の寛永19年(1642)、市中に散在していた遊女屋を官命により1ケ所に集めたのがはじまりといわれ、丸山町と寄合町を合わせた花街エリアを「丸山」と呼んでいた名残から、今もこの界隈は総称して「丸山」と呼ばれています。長崎の花街の歴史は、町の誕生から間もなくして来崎した博多の商人が市街地のはずれに博多町(現在の今博多町)を開き、そこに博多柳町の遊女が連れてこられ、ポルトガル人の船乗りを相手にした遊女屋が置かれたのがはじまりだといいます。以降、全国数ある花街と比べても、外国人を相手にした花街として栄えた「丸山」は異色の花街でした。
♪遊びに行くなら 花月か中の茶屋
梅園裏門たたいて 丸山ぶらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう
小説『長崎ぶらぶら節』の題材となった長崎の民謡『ぶらぶら節』の歌詞です。『長崎ぶらぶら節』は、実在する長崎学の祖である古賀十二郎と、丸山芸子衆・愛八とが、古くから唄い継がれてきた長崎の唄を探す旅に各地へ出向き、この『ぶらぶら節』を探し当て、これ以上の唄は探せないだろうと旅を終える物語です。
それでは、そんな『長崎ぶらぶら節』の舞台、『ぶらぶら節』の唄に歌われる「丸山」で、写真に収めたくなる花街風情を探してみましょう。
周知の通り、芸子(芸者)は、遊女と違い売色行為を行なわず、芸のみを売るのが本分。長崎では、旅芸子の刺激を受け発生したじげ(地元)芸子が、文化14年(1817)以降に活躍していきました。ちなみに長崎では芸子のことを「芸子衆(げいこし)」と呼び、愛八は芸子衆です。
「丸山」という地名の由来には、ゆるやかな傾斜だったからという説と、かつて平戸が開港地として栄えた頃、丸山という所に遊女屋を置いていたことから長崎も丸山と呼ぶようになったという2つの説があり、「丸山」は、別名“山”とも呼ばれ、当時「山に行く」といえば遊郭に遊びに行くということを意味したといいます。そのため、丸山の入口付近は「山の口」(現在の丸山交番付近)、寄合町の坂を登りきったあたりは「山頭」。今も「山頭温泉」という銭湯名にその名を残しています。さて、花街風情をその名に残すのが〈思案橋〉。流行歌『思案橋ブルース』などに歌われ、現代では長崎随一の飲屋街として知られていますが、戦前まで思案橋の入り口には川が流れていて、そこに橋が架かっていました。花街時代、“男たちが行こか戻ろか”と思案したといわれることから、その名が付いたといいます。そしてこの橋を渡り、いよいよ思い切って花街へ行こうかと心を決め渡ったのが〈思切橋〉です。これ対し、花街からの帰り道、遊女への未練から男たちを振り返らせたといわれる場所には〈見返り柳〉と呼ばれる柳がありました。カステラの老舗・福砂屋本店の小路の脇に、今も橋の欄干と柳が残っています。
交番横、緑豊かな「丸山公園」との間の道を突き当たりにあるのが〈史跡料亭 花月〉。もともと由緒ある丸山の妓楼「引田屋(ひけたや)」の離れの茶屋だった花月。現在はその歴史的背景から全国的にも珍しい県指定の史跡料亭となっていて、当時の丸山の貴重な写真や資料を展示する「集古館」も併設されています。
この花月前の丸山本通りを左へ行くと、築100年以上、かつて外国人専用の遊郭だった「松月楼」の建物〈長崎検番〉があります。ここでは、花柳界の芸子衆が稽古を行うとともに、芸者の手配や統括が行われ、ときに風流な三味線の音が聞こえ、料亭へと向かう芸子衆に出会える確率の高い場所でもあります。また、通りの突き当たりには石段横にツタに覆われた風格漂う石垣があります。現在、〈料亭青柳〉であるこの地は、かつて「杉本家」という料亭で、その風情を今も引き継いでいます。昔ながらの風情は道幅にも感じられます。
長崎検番脇の道はそんな小路。この道を進むと、シャッターチャンス第11回でも、映画『長崎ぶらぶら節』のロケ地として紹介した元禄13年(1700)創建、丸山町の氏神様〈梅園身代り天満宮〉があります。このお宮は、昭和40年頃までは丸山の芸者衆も多く参拝していたそうで、彼女たちの信仰の様子を示す「梅塚」も残されています。また、その名の通り、節分前後には美しい梅が咲き誇り、節分の行事も行われるので、訪れるにはその頃が最適です。境内には「歯痛狛犬」「恵比須石」など縁起物もいっぱいで、その姿もいわれも実にユニーク(第11回「梅園身代り天満宮」参照)。恋の歌にはじまる“恋みくじ”は若い人に人気です。
さらに坂道を上がると、〈中の茶屋〉があります。江戸時代、遊女屋に付属した料亭は茶屋と呼ばれ、丸山には遊女屋「中の筑後屋」に付属した「中の茶屋」と、遊女屋「引田屋」に付属した「花月楼(現在の花月)」の2軒がありました。筑後屋の遊女・冨菊が奉納した手水鉢が残る中の茶屋の庭園は、今も長崎庭園の面影を残した風格ある佇まい。静寂に包まれています。丸山遊女の場合は、最大の特徴は「日本行き」「唐人行き(唐人屋敷へ行く遊女)」「オランダ行き(出島へ行く遊女)」の3種があったことでしょう。
市電が通る思案橋入り口から、終点正覚寺下方向へ向かった場所に丸山に抜ける28段の石段〈丸山オランダ坂〉があります。この坂は、「オランダ行き」の遊女が出島に向かうとき、丸山の表門を通らずこの階段を下だった先に流れる川を小舟で出島に向かっていたため名付けられたのだという説が残されています。ただの石段のように見えるこの小路も、かつての花街「丸山」を彷彿とさせる物語を秘めています。
長崎の中の和の風情、歴史あふれる「丸山」の地で、ぜひ、長崎の新たな一面を切り取ったベストショットを狙ってください。
【長崎丸山町】