唐通事と阿蘭陀通詞

日本文化に影響を与えた
唐通事という仕事


唐通事の創設
唐通事が創設されたのは、江戸幕府が長崎を直轄支配地とした直後の慶長8年(1603)。初代長崎奉行の小笠原一庵為宗(ためむね)着任早々だったという。一庵はまず、山西省出身と伝わる住宅唐人の馮六(ほうろく)を唐通事に登用した。彼ら一世の住宅唐人の多くは中国姓を称し、こうえん(林/りん・こうえん)などの諱(いみな)や、一官、二官など、排行(はいこう)と呼ばれる通称を名乗る者が多かった。しかし、二世になると、日本人妻方の姓(馮六の二代は平野姓)や、父の出身地にちなんだ日本風の姓、あるいは姓はそのままでも藤左衛門や庄左衛門など、日本風の名を名乗り出した。当時の日本人にとって、文化度の高い中国人は憧憬の的。唐通事自身もその中国人を祖先に持つ家柄を誇りとし、中国の文化、風俗、慣習を重んじ代々受け継いでいった。また、彼らは儒学に通じ、書画、詩文などに長けた人物も多く、人々から尊敬を集めた。そして、そんな中国人の血を引く唐通事は、阿蘭陀通詞よりも格上とされていた。

唐通事の構成と世襲
初期の慶長、元和の頃は、2、3人の小規模構成だったのが、寛永期に入って鎖国政策が進むと唐船貿易の重要性が増し、定員は徐々に増員されていく。寛永17年(1640)の構成を見てみると、大通事4人、小通事2人という二階級制だが、翌年には大通事5人、小通事2人とその下部組織も誕生。その後、万治元年(1658)には大通事4人、小通事4人、寛文12年(1672)には大通事4人、小通事5人となり、この大・小通事が「本通事」といい、「唐通事九家」として定数化し、幕末まで受け継がれた。この間、承応2年(1653)に稽古通事が設置されたり、私的な通訳「内通事」が公認されたり、はたまたそれらから分化して、様々な役が新設されたりしたが、唐通事の基本構成は、大・小通事に稽古通事が加わった「唐通事三役」だった。そして、他の地役人と違わず、唐通事の家系も世襲制。唐通事の家筋である70数家は、常に11、12席程度の地位を目指し精進していたわけだ。

唐通事の文化的貢献
職務とも密接に関わってくるため、中国文化との接触や受け入れなどの面において文化的貢献を果たしたのも唐通事の特徴だ。

詩文麗しく、長崎奉行のお気に入り
唐通事 林道栄
 
唐通事の家筋のうち、前述した林こうえんを始祖とする林家。そのこうえんの息子が名通事、文筆の人として名高い林道栄(どうえい/1640〜1708)だ。明末期に渡来した父・こうえんと大村藩士の娘との間に誕生した道栄は、小通事から大通事、唐通事目附、唐船風説定役などにのぼりつめた。父・こうえんは唐通事ではなく、長崎奉行下の唐年行司という役。道栄の代以後、代々唐通事の職を世襲し通事屈指の家筋となった。そんな道栄と双璧を成し、隠元禅師の通事を務めた先輩通事・彭城仁左衛門宣義(さかき にざえもんのぶよし/1633〜1695)と詩文の交友を持っていたが、当時在任していた名奉行で知られる長崎奉行・牛込忠左衛門は、二人の詩を愛してやまなかったという。忠左衛門は、日夜奉行所に二人を招き楽しみ、また、宣義へ東閣(とうかく)、道栄へ官梅(かんばい)の号を与えた。また、隠元禅師が興福寺、崇福寺に入山した頃まだ少年だった道栄も、隠元禅師に可愛がられたという。かつて“道栄が浜”と呼ばれた大村藩領だった大浦海岸は、大村藩と関係の深かった道栄に下賜されたことにちなみ、名付けられたといわれている。

※2006.9月 ナガジン!特集「長崎・時代を駆け抜けた人物の墓」参照
※2010.12月 ナガジン!特集「犯科帳が教える江戸期の長崎」参照

文化人が集うサロンを建立
唐通事 何兆晋
 
文化人として名高い唐通事といえば、万治元年(1658)、小通事4人のうちのひとり、何仁右衛門(が にえもん/1628-29?〜1686)。
彼は、崇福寺大檀那で隠元禅師招致の中心人物のひとりである何高材(が こうざい)の長男で、諱を兆晋(ちょうしん)といった。興福寺の心越(しんえつ)禅師から教わった七弦琴(しちげんきん)の名手でもあり、文化人としても知られる存在。兆晋は小通事の職をわずか10年で退き、その約10余年後の延宝年間に、心越禅師ほか著名人が集う別荘「心田菴(しんでんあん)」を建立。今も市内に現存するそこは、当時の文化サロン的な場所だったという。兆晋は、唐通事を退いた同年、父・高材、弟・兆有とともに清水寺本堂を寄進している。 清水寺本堂
何兆晋が寄進した清水寺本堂

※2011.10月 ナガジン!特集「きよみずさん―京の名残りと唐の香りを感じて。」参照
 

文化に通じ財力を持つ、尊敬の的であった唐通事は、地域貢献にも大いに力を注いでいたことが今の世にも伝わる。それは、寄進の品がいまだ存在したり、その痕跡を残していたりするからだ。市内の寺社を巡っていて見かける燈籠には、かつての偉人たちの名が刻まれていることも多い。

ゆかりの寺社に残る寄進品
唐通事 頴川彌藤太
ザボン発祥の地として知られる西山神社で、陳九官(官兵衛)を祖とする頴川氏家系の五代、頴川彌藤太(えがわやとうた/1680〜1742)が寄進した燈籠を見つけた。陳九官は、隠元禅師招致の際、唐三ヶ寺の檀越代表の筆頭に名があげられた人物。三代で唐通事職を世襲できず四代が稽古通事に採用されたが早死。この五代目彌藤太は昇進し、大通事までのぼり、家名を挽回した。この燈籠の寄進された年を見ると「享保四年巳亥」とあり、当時は小通事末席の職だった彌藤太。唐人ゆかりの西山神社に、お家の繁栄を祈願したのだろうか。

西山神社の燈籠1

西山神社の燈籠2

西山神社の燈籠3
頴川彌藤太が寄進した西山神社の燈籠

※2011.11月 ナガジン!特集「長崎の気になる木」参照

隆盛を伝える各地に残る寄進品
唐通事 頴川藤左衛門
唐姓の陳を日本姓に変え、頴川(えがわ)姓を名乗った「住宅唐人」には十家程の家系があったといわれている。そのうち6つが唐通事の家系。開祖・陳冲一の長男の陳道隆、初代・頴川藤左衛門(えがわとうざえもん/1616?〜1676?)は、唐三ヶ寺のひとつ、福済寺随一の大檀越だった。前述した何兆晋が寄進した清水寺本堂に、福済寺住職、木庵禅師が書いた「清水寺」の扁額を奉納したのは藤左衛門だった。また、最も有名なのは、江戸時代「長崎十二景」のひとつと呼ばれた絶景を成した蛍茶屋と中島川の風景。長崎街道の重要地点であるその川に架けられた唐風石橋「一ノ瀬橋」は、承応2年(1653)、現在の橋は、藤左衛門が寄附したもの。現存する橋は、明治20年頃に架け替えられたものだが、その場所と、いちばんはじめのところという“一ノ瀬”の名は今も受継がれている。
清水寺の扁額
木庵禅師が書いた「清水寺」の扁額

中島川と一ノ瀬橋
明治期までは樹木が生い茂り、川のせせらぎが聞こえてくる風情ある名勝地だった
<長崎大学附属図書館所蔵>

※2007.8月 ナガジン!特集「古写真にみる遠い昔の長崎」参照
 
 
 日本事始めニュース!「唐通事の功績」
☆ 「中国の高僧・隠元禅師」を日本に招く
日本への隠元禅師招致運動にも、絶大な支援を行なった唐通事たち。彼らの支援なくしては、現在の日本中にあふれる中国伝来文化は存在しなかった。
☆ 「万国公法」の翻訳
欧米の近代の国際法「万国公法」を中国語に翻訳されたものを、唐通事が和訳。後に坂本龍馬が「いろは丸事件」の賠償交渉で用いたともいわれている。
☆ 英和辞書「附音指図・英和字彙」を出版
林道栄の子孫・林道三郎は、英語も堪能で、明治6年、緊急を要していた本格的な英和辞書を出版。それまで和英辞書はあったが英和辞書は初めてだった。


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