唐通事と阿蘭陀通詞


出島への唯一の出入り口だった表門を望む

鎖国時代、長崎と交易のあったオランダと中国には、それぞれの貿易に不可欠だった言語の相違を補う通訳を仕事とする人がいた。当時、現代の通訳兼外交官的役割をも担っていた唐通事と阿蘭陀通詞という職業について調査!


ズバリ!今回のテーマは
「彼らの仕事ぶりに向上心を学ぶべし!」なのだ



 
異国情緒を代名詞とする長崎の街には、建物に、祭りにと中国文化があふれ、すっかり定着している。

 龍踊り
 諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」の奉納踊り「龍踊り」

また、昨年2011年は、平戸から長崎出島にオランダ商館が移って370年の記念の年であり、ナガジン!でも、長崎にありながら異国と日本が混在する扇形の特別な島であった出島での出来事あれこれを紹介してきた。※「出島370年物語」参照


 出島図
 出島図<長崎歴史文化博物館所蔵>

中国とオランダ、このふたつの国は、いずれも古くから貿易を通じて結ばれた長崎と縁深い国。しかしその縁は、国家間を隔てる大きな障害「言葉の壁」を解消しなければ、決して成立することはなかったことだろう。「唐通事と阿蘭陀通詞」……日本と中国、日本とオランダ。互いの国を結び、長崎の異国情緒、国際色を形成してきたこの職業に迫ってみたい。
 

唐通事と阿蘭陀通詞の
決定的な違いとは?


外国人?日本人?
ふたつの職業は、当然、国家間の言葉の壁を取り払う「通訳」が基本的な仕事。しかし、唐通事と阿蘭陀通詞に決定的な違いがあることに気づいた。それは、唐通事のほとんどは、中国から来航した貿易商人らが日本に移住し、帰化した中国人家系の地役人で構成されたのに対し、阿蘭陀通詞は地元長崎か平戸から移住した通詞、つまり生粋の日本人である地役人が務めていたということだ。

それには、以下のような背景がある。

かつての出島の住人であったポルトガル人は、長期滞在して日本語を操り、キリスト教の布教と貿易活動を行なったのだが、オランダ人にはそれが許されなかった。逆にポルトガル人との間で起きたトラブルを考慮し、キリスト教布教と密貿易を厳しく取り締まるため、商館長(カピタン)の一年交代をはじめ、滞在を短く制限したのだ。そうなれば、当然日本語を身につけるヒマはない。しかし、日本側としても貿易業務は円滑に行なわなくてはならない訳だから、通訳を用立てなければならない。ということで、常に人員を確保すべく、オランダ語の通訳官“阿蘭陀通詞”の養成がすすめられ、年々、組織立てられていった。

一方、中国との繋がりは、そのポルトガル船来航よりも早く、長崎港が開かれた元亀元年(1570)、すでに福建周辺の貿易商人は禁止されていた日本への渡航を試み密貿易を行なっていたという。やがて鎖国に入り、長崎港が正式な対中貿易港と定められると、来航した貿易商人たちは市中に家を構えた。彼らは「住宅唐人」と呼ばれ、長崎奉行によって屋敷取得が許され永住権を獲得。多くは日本女性を妻に持ち、帰化する者も多くいた。実は当時の中国は明朝時代。しかし、明人たちは密貿易時代から自らの素性をあやふやにするために「唐人」と名乗り来航していたため、中国人=唐人となり、中国にまつわるものには「唐」の名が付いた。かくして通訳官も“唐通事”と命名されたわけだ。

唐通「事」と阿蘭陀通「詞」
注目すべきは、唐通事の「事」と、阿蘭陀通詞の「詞」、同じ「つうじ」でも漢字が違うところ。オランダ貿易において通訳や翻訳を主な仕事としていた阿蘭陀通詞が「詞(ことば)」に通じたのに対し、唐通事は「事(こと)」全般に通じる……つまり、通訳はもちろん、長崎に在住する中国人たちの管理、貿易許可証である「信牌(しんぱい)」の発行など、唐貿易全体の業務を仕事とした。何せオランダの場合は、オランダ東インド会社という企業一手の貿易だったわけだが、中国に関しては、中国各地からやってくる民間の貿易商人たち。きっと同じ中国人でしかこなせない業務があったに違いない。
 

〈1/3頁〉
【次の頁へ】


【もどる】