唐通事と阿蘭陀通詞

日本近代化の立役者
阿蘭陀通詞という仕事

阿蘭陀通詞の構成
16世紀の貿易用語はポルトガル語だった。ゆえに、オランダ人と日本人が最初に会話をしたときも、ポルトガル語の通訳が介在した。そして、ポルトガル人が国外追放されると、次はオランダ語が日本における第一外国語となり、オランダ語を使えることが通訳や翻訳者にとって不可欠の条件となっていった。鎖国時代、出島のオランダ人と最も接触の機会に恵まれていたのが、この「阿蘭陀通詞」という仕事。日本人地役人の世襲制に基づき、多い時にはその数150人にのぼった。

彼らは出島勤務を通じ、通商、外交、そして文化交流の事務役を務めると同時に、天文学や医学、化学、物理学を学んだ。江戸時代の蘭学の発達はもとより、西洋科学を広め日本が近代化の道を進む上で、彼ら阿蘭陀通詞が最も重要で大きな役割を果たしたといえる。

阿蘭陀通詞の代表格といえば、長崎生まれの吉雄耕牛(幸左衛門/1724〜1800)。彼は、14歳で稽古通詞となり、25歳で大通詞に昇進。50年余りも年番大通詞として活躍した。彼はオランダ語だけではなく、天文、地理、医学などにおいても指導的立場にあったといわれ、吉雄流外科を打ち立て、杉田玄白、前野良沢、平賀源内、司馬江漢をはじめとした数多くの門弟を指導。蘭学の発展に多大な功績を残した。杉田玄白らによる『解体新書』の序文を書いたのは、彼、吉雄耕牛だ。

※2009.7月 ナガジン!長崎往来人物伝 幕末篇「前野良沢」参照

吉雄耕牛画像
<長崎歴史文化博物館所蔵>


吉雄耕牛宅跡
長崎県庁前、国道34号線沿い長崎県
警察本部敷地内にあった吉雄耕牛宅
さて、彼の例を見てもわかるように、阿蘭陀通詞は稽古通詞にはじまり、小通(こ)詞、大通詞へと、その実力によって出世していく。その構成は、大通詞4名、小通詞4名、稽古通詞若干名が基本で、その下に私的な通訳を担う内通詞の一団があって、すべての通詞の監督を担う通詞目付2名があった。時代が下るに連れ、大通詞―小通詞―小通詞並―小通詞末席―稽古通詞―内通詞の職階があり、通詞の補助員として通詞付筆者、稽古通詞付筆者、内通詞付筆者、通詞付小使、通詞付筆者小使……とそして、吉雄耕牛が50年余りも勤めた年番大通詞という役職が、名実ともに通詞の代表、阿蘭陀通詞集団の実力者だった。

阿蘭陀通詞の仕事あれこれ
阿蘭陀通詞の仕事にもいろんなものがあり、江戸参府の同行など、大掛かりなものから遊女代の計算まであった。遊女屋からのひと月分の請求書を阿蘭陀通詞が日本文に蘭訳文を添えて書き改め、商館長に渡すのだ。残された当時の文書からは、商館長ブロムホフ、11日間、糸萩を代82匁5分で、9日間、糸萩を代135匁で、7日間、左門太を代105匁で呼び寄せていたことが伺える……商館長は、ひと月30日のうち、27日間も遊女を側に置いていたことになる……その間の通訳も、阿蘭陀通詞の仕事だった、ということだろうか。

阿蘭陀通詞と商館医

商館医ケンペルが育てた
阿蘭陀通詞 今村源右衛門
 
「私が出島入りをした直後、私から薬物学を学ぶために従僕として与えられたのである」とケンペルが明記する人物は、後に大通詞となる今村源右衛門。 ケンペルは、まだ青年だった源右衛門に直ちにオランダ語の文法的に教え込み、「幸いかれは早くもその年の終わりにはオランダ語で一応文書を書き、日本の通詞といわれる連中が足許にも及ばぬほどよく話せるようになった」と、その上達を喜ぶまでに鍛え上げた。

ケンペル帰国後、元禄8年(1695)、出島カピタン部屋において日本人の青年たちがオランダ語の会話と外科医学についての通弁の試験が行われた。今村源右衛門は、好成績をおさめ、試験からわずか4日後、直ちに稽古通詞に任命された。ケンペルが出島の地を踏んだ1690年からちょうど5年目のことだった。以来、それまで内通詞の家系だった今村家は、正規の阿蘭陀通詞の家になった。ケンペルがヨーロッパにはじめて日本という国を総合的に観察し紹介した『日本誌』の刊行は、この今村源右衛門の協力なくしては成し得なかった功績だったのだ。
ケンペル
ケンペル
<出島ホームページより>

商館医ツュンベリーに師事
阿蘭陀通詞 吉雄幸左衛門耕牛
 
出島三学者の一人、商館医ツュンベリーは、杉田玄白らによる『解体新書』が公刊された翌年、安永4年(1775)に来崎。1年4ヶ月、出島に滞在した。ツュンベリーが来崎に備えて準備した荷物の中には、ケンペルの著書『日本誌』も入っていて、彼もケンペルに習い、植物採集の目的を果たすためにも通詞と親しくなろうと試みた。見るに阿蘭陀通詞たちの大部分は、通詞職の傍らオランダ流医学を身につけ名を高めている……ツュンベリーは、通詞らに医学や診療技術を教えるかわりに近郊の植物標本の収集を依頼した。この植物採集でツュンベリーの片腕となったのが、草花をことさら愛した阿蘭陀通詞の茂節右衛門。彼もまた、後に年番小通詞を勤めるほどに出世している。 ツュンベリー肖像画・模写
ツュンベリー肖像画・模写
<長崎歴史文化博物館所蔵>

また、彼のお眼鏡荷叶ったのが、吉雄流医学ですでに名声を誇っていた名門吉雄家の吉雄耕牛。ツュンベリーの著作『日本貨幣考』は、耕牛がツュンベリーにせっせと贈り続けた日本の貨幣あって完成したものだった。

※2003.11月 ナガジン!特集「出島回想録〜出島が日本と世界にもたらしたもの〜」参照
※2008.12月 ナガジン!特集「西洋の風が吹く―長崎の医学史を支えた人物」参照
 
 日本事始めニュース!「阿蘭陀通詞の功績」
☆ 本木良永の「地動説」
コペルニクスが説いた「地動説」を日本で初めて伝え、〈惑星〉という日本語を生み出したのが本木良永(もとき りょうえい)。
☆ 志筑忠雄の「万有引力の法則」
ニュートンの物理学を日本で初めて伝えたのが志筑忠雄(しづき ただお)。後に〈鎖国〉という日本語を生み出したのも彼だった。
☆ 蘭和対訳辞書「ドゥーフ・ハルマ」
オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが編集した約5万の単語と約2万の例  文が載る蘭和辞書は、11人の阿蘭陀通詞の協力を得て約20年をかけ作成した。
※2010.2月 ナガジン!特集「長崎の印刷物」参照

ドゥーフ・ハルマ
ドゥーフ・ハルマ
<長崎歴史文化博物館所蔵>
 
 
最後に−−。
唐通事と阿蘭陀通詞の仕事場はいかに。唐人屋敷の通事部屋、出島オランダ商館の通詞部屋のほかに、長崎奉行の監督のもと、元禄10年(1697)、八百屋町(現 上町)に設置された唐商とオランダ商館に対する貿易機関「長崎会所」と同様に、それぞれ会所なるものがあった。宝暦元年(1751)、唐通事仲間の業務、連絡の中心となる機関として「唐通事会所」が今町(現 金屋町)に設置。やがて手狭となり、宝暦12年に本興善町(現 興善町)に移転。現在、長崎市立図書館の片隅に「唐通事会所跡」の標柱があり、その地を示している。

長崎会所跡

唐通事会所跡

楢林鎮山宅跡
阿蘭陀通詞であり紅毛外科楢林流の
祖・楢林鎮山の邸宅は、出島に面した
長崎県庁の裏門横にあった。

県庁と出島の間
長崎県庁と出島の間を通る道路。
楢林鎮山宅は、阿蘭陀通詞会所前にあった。

では、阿蘭陀通詞会所跡はどこに? 現在標柱は見当たらないが、出島に架けられた橋近く、江戸町に存在していたことが資料から分かっている。唐通事と阿蘭陀通詞たちは、唐人屋敷や出島とそれぞれの会所を行き来しながら、膨大な仕事をこなし、長崎の町の繁栄に一役も二役も買ってくれていたのだろう。

阿蘭陀通詞会所跡付近
 
 

参考文献
『平成蘭学事始――江戸・長崎の日蘭交流史話』片桐一男(智書房)
『長崎唐通事――大通事林道栄とその周辺 増補版』林陸朗(長崎文献社)
『唐通事家系論攷』宮田安(長崎文献社)
『年番阿蘭陀通詞史料』片桐一男、服部匡延(近藤出版社)
『開かれた鎖国――長崎出島の人・物・情報』片桐一男(講談社)

〈3/3頁〉
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