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滞在期間/明和7年(1770)、長崎游学が許可され、48歳で吉雄耕牛の門に入る。1774年、再び来崎(医術、算術に関する蘭書を購入)
連れ/なし
目的/オランダ語修得のため


前野良沢●まえの・りょうたく
/亨保8年〜享和3年(1723〜1803)。
蘭学者、豊前国中津藩(現在の大分県中津市)藩医。明和6年(1769)、47歳にして蘭学を志し、晩年の青木昆陽に師事。翌年藩主の参勤交代について中津へ下向した際、長崎へ。長崎通詞の吉雄耕牛、楢林栄左衛門らに学んだ。日本初の本格的な翻訳書『解体新書』の主幹翻訳者の一人。



『解体新書』の真の翻訳者
医学発展の功労者、前野良沢

誰もがきっと、歴史の教科書にラインを引いた記憶がある『解体新書』の文字。後世に残る歴史的な医学書だ。しかし、『解体新書』と聞いて前野良沢を思い浮かべる人はいたって少ない。翻訳者は杉田玄白と教えられたからだ。良沢は訳者の欄に名を連ねていないのだ。中津藩医の前野良沢は、オランダ語習得のために48歳にして長崎に留学。幕府公式の通訳、長崎通詞であり蘭方医としてその名を馳せていた吉雄耕牛の門に入った。その時、出会ったオランダ語に翻訳されたドイツの医学書『ターヘル・アナトミア』の詳細な解剖図絵に感動し、良沢は訳出を試みる。一説には、翻訳の中心は良沢で、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周らは彼の手伝い程度の存在だったという。その証拠に玄白は後に回想録で、自身はオランダ語のアルファベットさえ分からず、翻訳を思い立った翌日、良沢の家に集まってその本を前にして「誠に艪舵(ろかじ)なき船の大海に乗り出せし如く」、つまり途方に暮れるだけだったと記しているのだ。
満足な辞書もない時代、基本的には、オランダ語習得に情熱をかけた良沢1人が訳出を行い、玄白らは訳出された文章の整理と、訳出が順調に進む環境に心を配る日々。やがて3年5ヶ月に及ぶ訳出を終え、『解体新書』と名づけた本書が世に出た。二人のその後の人生は、どうもそれぞれの性格に左右された節がある。良沢が『解体新書』の翻訳刊行の訳者に連なることを拒んだのは、自らの翻訳の不備を理解し、これを恥として許すことができなかったためという説がある(もちろん、当時の日本の語学水準からすればかなりの完成度!)。つまり、良沢は、人間嫌いの偏屈で理想主義、学者肌の気難しいタイプ。

長崎歴史文化博物館に常設された
『解体新書』
一方の玄白は、人間好きで現実主義の順応性に富んだ世渡り上手。玄白は『解体新書』の訳者として名をあげ、江戸一番の蘭方医に、良沢は81歳で亡くなるまでの一生をオランダ語研究に捧げた。
しかし、『解体新書』の序文は、オランダ語の師である、吉雄耕牛が記している。そこには、「オランダは最先端の科学をもっています。オランダ語を習得するために長崎に来て勉強に励みますが挫折した者も多く、まして専門書を翻訳するのはとても大変なことなのです。この本を翻訳し完成させた前野良沢と杉田玄白は立派です。そして、医者を志す人たちがこの解体新書から得た知識で治療にあたれば、多くの人々の命が救われるかもしれません」。時が過ぎて明らかになる歴史も多い。だからこそ前野良沢の偉大さが、今も語り継がれているのだ。良沢は、完璧な訳を追求し、玄白が出版を急いだ。どちらも譲らなかったという二人の姿勢は、決して自分の名誉のためではなく、幕末の志士同様に、刻一刻と進歩している諸外国に比べ、取り残されているわが国に対する愛国心の現れだったのだろう。

良沢もこの辺りを行き交ったに違いない
万才町の吉雄耕牛宅跡




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