残念ながら今はもう形をとどめていないかつての長崎名物がある。語り継がれる風景、思い出の味、記憶……。そんな時を経ても人々の心に残る長崎名物の数々を古写真の中にみ〜つけた! さて、紹介する古写真の中にアナタの知っている長崎はあるのでしょうか?


ズバリ!今回のテーマは

「現在の長崎スタイルのルーツに迫る!」 なのだ



長崎大学附属図書館蔵の古写真「中島川の古町橋と光永寺」
長崎大学附属図書館古写真データベース
http://hikoma.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/index.html



今回は明治、大正、昭和初期の長崎の様子をとらえた古写真に着目! 現代の風景と照らし合わせて見てみると、その時代を知らない世代にも新たな発見があることだろう。また、今年4月に発売され大きな話題を呼んでいる昭和30年代前後の長崎風景を見事にとらえた写真集『長崎昭和レトロ冩眞館「ガマンせんば!」だれもがそんな時代だった。』。今回、この貴重な写真の中からも長崎名物をピックアップ! 当時の長崎の表情を紹介させていただいた。

『長崎昭和レトロ冩眞館  「ガマンせんば!」だれもがそんな時代だった。』



写真・堺屋修一
文・永松実
長崎新聞社発行

モノクロームの懐かしい昭和30年代の長崎風景116点と、時代背景を綴った解説文で構成された写真集。『踊り子』『紙芝居のある通り』『年中行事』『籠で遊ぶ子』など、テーマはごく日常の一場面。はな垂れ、おかっぱ、坊主頭……子ども達のえも言われぬ表情に、読後、思わず笑顔になってしまう一冊。

堺屋修一(さかいや・しゅういち)昭和2年(1927)長崎市生まれ。昭和20年(1945)、満州の阜新炭砿に入社。敗戦後、満州より引き上げ、翌年三菱電機入社。中学3年生の時から父のカメラを手に写真制作を始める。戦争によって中断するものの、昭和30年代を中心に会社勤めの傍ら写真に没頭し、多くの公募展で受賞。昭和37年(1962)退職後、亀山社中ば活かす会、(財)長崎平和推進協会写真資料調査部会などで活躍中。

永松実(ながまつ・みのる)昭和25年(1950)島原市生まれ。長崎市教育委員会に入り、深堀遺跡や出島史跡などの発掘を担当。長崎市立博物館、シーボルト記念館を経て、2002年より長崎市歴史民俗資料館館長。著書に『川原慶賀と弟子の作品について』『秘蔵浮世絵大観』第8巻(講談社)などがある。



遠い昔の憩いの場
長崎情緒の原点


◆今はなき、幻の蛍茶屋に大感動!!

■中島川と一ノ瀬橋
明治期までは樹木が生い茂り、川のせせらぎが聞こえてくる風情ある名勝地だった。/長崎大学附属図書館蔵

現在の一の瀬口
一の瀬橋を中心とする旧長崎街道の一部は一の瀬口と呼ばれ、現在、市の史跡に指定されている。

路面電車の終点として長崎人なら知らない人はいないお馴染みの蛍茶屋。江戸時代、この辺りに茶屋があり、蛍の名所だったことから“蛍茶屋”と名付けられた……と、聞いたことある方も多いと思うが、その実在する茶屋を目にする機会は少なかった。この写真は、幕末の写真家F.ベアトが元治元年(1864)、来崎した折に撮影したもの。写真中央の橋は、唐通事をしていた陳道隆(日本名:頴川藤左衛門)が、承応2年(1653)に架設した唐風石橋・一の瀬橋。現在の橋は明治20年頃に架け替えられたものだ。“一瀬”とはいちばんはじめのところという意味で、その傍らの茶屋は“一瀬の茶屋”といった。しかし、清流が流れる蛍が乱舞する名勝地だったことから、いつしか誰もが蛍茶屋と呼ぶようになったのだという。蛍茶屋は日見峠を越えて長崎を訪れた者や長崎から旅立つ者の歓送の地。長崎街道ができた頃に架けられたこの橋は、数々の人間ドラマを目撃したに違いない。現在、写真と同じ方向からカメラを向けると、蛍茶屋があった場所には“螢茶屋跡”の石碑が建っている。当時のような木々に覆われた風情はなく、どちらかといえば、橋よりも路面電車の車庫の方が目立っている。それでも、後方を振り返れば緑豊かな自然も残されていて、長崎街道を往来した人々が目にした風景が目に浮かぶようだ。

※2004.6月ナガジン!特集『越中先生と行く 長崎街道〜市内編〜』参照
 

◆外国人の影響を受けたハイカラ公園

長崎公園の丸馬場
着物姿の子ども達。きっと木々に覆われた公園を多くの人が散歩したことだろう。/長崎歴史文化博物館蔵。

現在の丸馬場
公園内には、長崎の歴史の積み重ねの証である歌碑や記念碑が数多く建っている。

明治7年(1874)に諏訪の森の中に築かれた長崎公園(またの名を諏訪公園)。園内にはその当時外国人が多かった長崎ならではの遊歩道や噴水池が設けられ、この時代、とってもハイカラな公園だった。この写真は、今もその名で親しまれている通称・丸馬場。左下に写る石門は現在も同じ位置にあるので、現在の写真と比較してみるとオモシロイだろう。この石門は幕末までこの地にあった安禅寺内の徳川霊廟(東照宮)に寄進建立されたもので、正面に葵の御紋が刻まれている。そして、丸馬場といえば円形のステージが印象的。これは当時、入港した外国軍艦の音楽隊の演奏などを行う野外音楽堂として使用されていたものなのだそうだ。現在の長崎公園には復元された噴水池をはじめ、名物のぼた餅で有名な月見茶屋やどうぶつひろばなどがあり、昔と変わらない老若男女の憩いの場となっている。

諏訪公園月見茶屋
大宮司の屋敷跡に建てられた和風の茶店。客や使用人らしい女性の日本髪姿が時代を物語っている。/長崎大学附属図書館蔵。

現在の月見茶屋
現在も多くの人で賑わう月見茶屋。夏でも心地よい風が吹く涼みどころだ。

※2007.3月ナガジン!特集『モニュメントで巡る長崎 前編 鎖国以前〜明治の近代化編』参照
 
 
★堺屋ショット!


東山手の洋館
(昭和34年2月22日)
 『長崎昭和レトロ冩眞館「ガマンせんば!」
だれもがそんな時代だった。』より


昭和30年代、住居として使用されていた頃の東山手洋風住宅群。洗濯物や布団が干してあったり、窓が開け放たれていたりと生活の匂い漂うショット。あれから約50年。下は、老朽化のため建て替えられ、すっかりこぎれいになった現在の写真。


現在の東山手洋館



◆桜の名所で“いい湯だな〜!”

中川カルルス
中島川河畔に桜に包まれた人工温泉があったなんて、今となってはうらやましい限り。/長崎歴史文化博物館蔵。


現在の桜橋辺り
中川カルルスがあったと思われる現在の桜橋辺り。

中島川の上流にあたる中川町に、明治から昭和の初期まで桜の名所として親しまれた中川カルルス温泉。カルルスという、その時代にしてなんともハイカラなネーミングは、明治の中期、この地にチェコスロバキアのカールスバードの湯の華(鉱泉の結晶)を輸入して、人工温泉を造ったことに由来しているのだそうだ。つまり、ここは長崎市民にとっての憩いの場だったわけだ。現在は、桜はもちろん、長崎大水害後の防災工事のために当時の風情は失われてしまっているし、住宅は川縁まで接近しているので、果たしてどこがカルルス跡なのか写真と比較してもなかなか探し当てることは難しかった。しかし、当時の風景を彷彿とさせるものを発見! その名も“桜橋”。当時この辺りは長崎村伊良林郷。明治20年(1887)当時の県令(知事)日下義雄は伊良林から日見にかけて数千本の桜を植樹し沿道を整備。そして明治33年(1900)安田伊太郎と上長崎村の有志が伊良林付近(一ノ瀬渓流)に浴場を設けた。その後も安田伊太郎は敷地内を整備し料亭なども建て皆花園と命名。敷地は1300坪、龍吟橋や桜雲閣などがあった。現在、中川町にある料亭橋本庭園内にある桜はカルルス時代の桜といわれている。夜には川沿いにぼんぼりを点けて夜桜見物もしていたという名勝地・中川カルルス。現在の長崎にもあったら、素敵なのになぁ〜!
 

◆夏休み恒例の水泳教室はねずみ島!

長崎市に育ったおそらく45歳以上の多くの方の記憶に残るこの風景。明治36年(1903)にできた長崎における最初の海水浴場、鼠島(ねずみじま)海水浴場行きの団平船と曵き船の崎陽丸の写真だ。ねずみ島と呼ばれるこの島は、本来神功皇后伝説が残る皇后島。現在は小瀬戸との間が埋め立てられ陸続きとなったためよくわからないが、江戸時代に深堀の真北(十二支の子)の方角にあたるため、子角島(ねずみじま)、あるいは作物ができないほど、ねずみが多かったのでこう呼ばれたといわれている。この溢れんばかりの乗船者の数に注目! 活気、熱気が伝わってくる! ねずみ島は、昭和47年(1972)の閉鎖まで、長崎の子ども達の夏休みの水泳道場として市民に親しまれ、毎年大いに賑わいをみせた。今も参加した多くの人々の大切な思い出の場所となっていることだろう。

ねずみ島行
いったいどれくらいの人が乗っているのだろう? 重量制限はあったのだろうか? と心配になってしまう写真。/長崎歴史文化博物館蔵。

 
 
★堺屋ショット!


ねずみ島の大名行列
(昭和34年8月23日)
 『長崎昭和レトロ冩眞館「ガマンせんば!」
だれもがそんな時代だった。』より


江戸時代、細川藩の参勤交代の行列が大井川を渡る様子を再現した総勢200名にもおよぶ勇壮な大名行列の様子。明治44年(1911)から始まり、大正2年(1913)頃から行事化されたこの夏の風物詩は毎年大勢の見物人で賑わった!大名とお姫様を乗せた輿をこの日だけの入れ墨姿の雲助が水しぶきを上げ進む迫力ある1枚。



食べる長崎名物!

◆寺社で味わう餅あれこれ
元々お餅は日本文化のハレ事に使われ、行事には欠かせない食材ということで全国的に各寺社の祭事でふるまわれる餅がそこの名物になってきた。では、長崎の例をあげてみよう! まず今も健在のなのがお諏訪さんのぼた餅。定着している毎月の1日、15日詣りでは参拝した後にぼた餅を食べるのが正式な参拝法。手を合わせただけでは“半詣り”なのだという。そして明治元年(1868)に廃寺となった大徳寺の跡地公園内にある梅香崎神社(天満宮)の名物・梅ヶ枝焼餅も今も多くの人に親しまれている。また、中島川のほとりに現在中島天満神社がある。ここには以前臨川院(りんせんいん)という寺院があり、ここの名物は桜餅だったのだとか。遠い昔の人々も、餅を頬張りながら長崎の四季や風情を愛でたことだろう。


大徳寺菊水の梅ヶ枝焼餅


月見茶屋のぼた餅

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