遠い昔の交通
人々に愛された“市民の足”

◆長崎駅の変遷に見る長崎物語
明治30年(1897)、長崎に初めて鉄道が敷かれた時の長崎駅は今の浦上駅の所にあった。当時、現在の長崎駅の場所はまだ海で、長崎港の埋め立て工事が完成した翌年の明治38年(1905)に西の終着駅である現在の長崎駅ができたのだった。写真上の駅舎が建ったのは大正15年(1926)。残念ながら原爆で焼失してしまった。
明治の長崎駅
明治時代の長崎の風景にとけ込んだに違いない洋館造りの駅舎。/長崎歴史文化博物館蔵。

かわって右の写真は昭和30年代の終わり、そろそろ街に自動車が増えはじめてきた頃の長崎駅前の風景。この後、昭和41年に県下で初めての横断歩道橋が駅前にでき、44年には全国でも珍しい駅前高架広場が完成した。被爆後の昭和24年(1949)に建てられた駅舎は教会風のデザインで、内部のステンドグラスと三角屋根が長崎のシンボルとして多くの人に親しまれた。

戦後の長崎駅
長崎名物!駅前の高架広場は、路面電車の電停やバス停への重量な通路でもある。


そして、時代は変わりミレニアムで世間が賑わった2000年。惜しまれつつ姿を消した三角屋根に変わって、駅と一体化したショッピング・アミューズメント施設“アミュプラザ長崎”が誕生! 列車の利用客以外の人々も利用するエンターテイメント空間として新たなスタートをきった。そんなこんなの最西端の終着点、長崎駅。現在の長崎駅は、創設から随分と様変わりしたものだが、この駅にも長崎の歩んできた歴史や人々の思い出など、たくさんの長崎物語がつまっているのだ。



現在の長崎駅
近代的に変貌した長崎駅だが、車道の幅、路面電車の石畳、おおまかな印象は変わらないような気もする……。


◆時代を感じるレトロ電車と道幅

路面電車
心なしか時間の流れもゆったりしていそう。その中を、路面電車がガタゴトガタゴト。/長崎歴史文化博物館所蔵。

現在の賑橋電停辺り
何より違うのが交通量だと実感!

“どこまでいっても100円でうれしい!”“車内で流れるレトロなコマーシャルがいい味出してる!”などと、長崎の町を縦横無尽に走る路面電車は、その役割、風貌、センス、あらゆる面をとってもまさしく長崎名物! 長崎に路面電車が開通したのは大正4年、築町〜大学病院下間の区間。翌年に千馬町〜大浦間、大浦〜出雲町(現在の石橋)へと次々に路線が拡大されていった。当時はまだ人力車が走っていた時代。路面電車は、新しい市民の足として急速に浸透していったのだそうだ。だが、昭和19年の大橋車庫の火災、翌年昭和20年の原子爆弾投下で路面電車は壊滅的な被害を受けた。しかし、市民のためにも一刻も早い復旧をとわずか3ヶ月で運転を再開。驚異的なこの早期復旧によって長崎の復興に大いに貢献した。路面電車は時代と共に移り変わる長崎の街の中を走りまわり、今も変わらず子どもからお年寄りまで愛され続けているのだ。この写真は現在の栄町付近で、左側の建物は長崎無尽(現在の長崎銀行)。今よりも随分道幅が狭いことに目がいってしまう。

 
★堺屋ショット!


思案橋界隈
(昭和34年3月22日)

 『長崎昭和レトロ冩眞館「ガマンせんば!」
だれもがそんな時代だった。』より


路面電車のまるっこいフォルムが時代を物語っている。浜屋と岡政(現在の大丸)をのぞいては高いビルはなく、低い家並みの商店街のため後方の山並みがきれいに見える。現在と比べると……屋根もない丸裸の電停の位置も違った!

現在の思案橋界隈


◆バスやマイカー以前、人々は船で行き交った!
市営交通船が、バスや自家用車の普及により昭和44年(1969)に廃止されて今年で38年。現在、長崎港内を運行するのは、朝夕、大波止と香焼工場を結ぶ三菱重工長崎造船所の交通船のみだ。長崎港内交通船は、かつて長崎市内の陸路がまだ不便だった頃、長崎港周辺の各地域を結び、市民の足として重要な役割を果たしてきた長崎名物。そのはじまりは明治時代で、当時は“一銭渡し”と呼ばれる6人乗りの小舟が長崎市中心部と、対岸に点在する数ヶ所の地区を結んだ。お察しの通り、船賃がひとり一銭だった。この船は中国語で小舟を意味する“サンパン”という舟で、今のタクシーなどのように、乗り込めばすぐに目的地に運んでくれるものではなく、個々にやってきた乗客が6人になるのを待って漕ぎ出していたのだとか。その後、民間の蒸気船も営業を始め、さらに長崎港内にあった三菱長崎造船所も従業員の通勤のための会社専属の船を出すようになった。なんと!大正時代には路面電車の長崎電気軌道も “電鉄丸”という船を就航させていたというから驚きだ。そして、大正13年(1924)、長崎市が民間の港内交通船の会社から経営を譲り受け、運航を開始したのが“市営交通船”だった。前年からは長崎丸、上海丸による上海航路も始まっていて長崎港は船の往来で大賑わい。渋滞知らずのゆったりした船の旅をかつての長崎人は味わっていたのだ!


大波止乗船場風景入口
写真集団ながさき資料(長崎歴史民俗資料館 昨年の企画展『なつかしの長崎港内交通船展』)より。
 


長崎市営交通船船室風景
写真集団ながさき資料(長崎歴史民俗資料館 昨年の企画展『なつかしの長崎港内交通船展』)より。
 
 
★堺屋ショット!


山の口
(昭和31年6月16日)
 『長崎昭和レトロ冩眞館「ガマンせんば!」
だれもがそんな時代だった。』より


かつて京都の島原や江戸の吉原と共に日本三大花街として栄えた丸山。ここは市街地南端の傾斜地のため、人々は花街である丸山町と寄合町を合わせて“丸山”と呼び、その入口を“山の口”と呼んでいた。丸山遊郭が320年の歴史に幕を下ろす前年に撮影されたこの写真に写るはネオンに彩られた大門。今見るとまるで幻のよう。こんな時代があったんだ!


現在の山の口



食べる長崎名物!
◆バンザイサイダー

安政の開国以降、東山手・南山手・大浦海岸通りに造成された外国人居留地には、世界各国の商人がビジネスチャンスを求め移り住み、様々な国の文化が混在一帯となった異人街を形成した。そしてこの時、いろんな舶来品が長崎に上陸!ラムネや炭酸水(サイダー)もその一つ。外国人居留地にはこれらを製造販売する外商があった。そのうちの一つ、グラバー園内に移築されたウォーカー住宅の持ち主、英国人商人ロバート・ニール・ウォーカーが明治36年(1904)、下り松(現在の松が枝町)に創立したのがバンザイ炭酸水製造所。明治期にこのウォーカーが製造販売したのが“バンザイサイダー”だ。
実はこの復刻版が約100年ぶりに昨年11月から販売されている。当時の長崎人が興味津々で口にしたに違いないハイカラドリンクを一度お試しあれ。
問い合わせ■長崎県酒販本店 TEL.095-823-1171



約100年ぶりに復活したバンザイサイダー

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