遠い昔の記憶
まぶたの奥に焼きついた風景

◆時代時代の中島川石橋群風情


中島川の石橋群
石橋が連なるこの風景も、周囲の変化と共に少しずつ表情を変えていく。


現在の石橋群
平成の世に昭和の石橋。いつの時代もこの橋たちは、人と人、時代と時代をつなぐ架け橋となってきた。


この写真は昭和57年7月の長崎大水害の4ヶ月前に撮影された中島川に架かる石橋群。写っているは手前から古町橋、一覧橋、すすき原橋、東新橋で、このいずれも水害で流失してしまったが、それぞれ新しい石橋に架け替えられ、“昭和の石橋”として復旧された。もともと中島川に架かる全ての石橋は1600年代に架設されたもので、300年余り、実に江戸時代から昭和後期という長い年月の間、多くの人々が行き交い生活道路として親しんできた。奥にはビルが立ち並ぶこの写真も、広くいえば現代に近い風景なのだが、石橋はもちろん、川べりの佇まいなどにはやはり昭和の薫りが漂っている。


中島川の古町橋と光永寺
江戸時代から3度の水害に遭い流出と再建をくり返してきた古町橋と光永寺。/長崎大学附属図書館蔵。


現在の古町橋と光永寺
光永寺と石橋の風景には、今も江戸時代の情緒が感じられる。

 
 
★堺屋ショット!


エゴバタ
(昭和34年9月27日)

 『長崎昭和レトロ冩眞館「ガマンせんば!」
だれもがそんな時代だった。』より


エゴとは大きな溝のことで、バタは端。居留地界隈で見かける三角溝(オランダ側溝)と同じ仕組みのもので、長崎には今もこのテの溝がいくつも点在している。写真は寺町通りと平行に流れる古川町の鹿屠川(ししとき川)。現在は石畳がアスファルトになったものの、道幅が変わらないからか今もなかなかの風情。


現在のエゴバタ


◆精霊流しの危険な打ち上げ花火
初盆を迎えた遺族が先祖の霊を送る、長崎の伝統行事“精霊流し”は、精霊船と呼ばれる船に個人の霊を乗せ練り歩いた後、長崎港へと辿り着いたところで船に乗せた霊と訣別する儀式。その起源については諸説あるが、時代時代で進化してきたものだ。昔の船は竹や藁を縄で結い実際に海へ流していたので、浮かぶようにできていたが、海に入った担ぎ手が亡くなったり、海上で船が燃えたりするなどの事故も多く、明治4年(1871)には船を海に流すことが禁じられた。その後は、流し場まで船を担いで行っていたが、担ぎ手不足からか、昭和24年頃、車輪を付けた船が登場。現在のように爆竹をとどろかせ、お祭り騒ぎの様相が濃くなったのは、昭和30年代以降のことで、長崎くんちの川船などを回転させる風習からか、メインの県庁坂では精霊船を回転させたり、矢火矢(ロケット花火)などが高らかに打ちあげられたりと年々賑やかになっていった。この精霊船にかかる花火代は、なんと毎年1億円を超すともいわれているほど。しかし、打ち上げ花火が路面電車の電線にあたって出火するなど度重なる事故のために昭和50年前後に自主規制となった。

精霊流し
ハデに爆竹を鳴り響かせる精霊流しは、まるでお祭り騒ぎ。しかし、その爆竹も故人を思う気持ちの表れ。遺影をはずす最終地点の大波止では悲しみにくれる家族の光景を目にする。
 
 
★堺屋ショット!


新地の通り
(昭和28年3月25日)

 『長崎昭和レトロ冩眞館「ガマンせんば!」
だれもがそんな時代だった。』より


明治20年代に建てられた、中国との貿易品を保管していた赤レンガ倉庫群。戦後はデパートやマーケットの倉庫、飲食店として利用されていたが、昭和50年代に解体された。通称“十軒蔵”と呼ばれていたこの場所は、現在の銅座観光通り。現在もおいしい長崎中華が味わえる“喜楽園”の看板を左手前に見つけた!


現在の新地の通り


◆長崎ならではの馬を使った職業
車が通らない坂の上に建築資材などの荷物を運ぶ際に頼りになるのが、お馬さん! 今ではほとんど見ることもないが、かつて長崎の坂道ではよく見かけた風景だ。対馬に生息する対州馬(たいしゅうば)が、坂の多い長崎には欠かせなかった。対州馬は、小柄だが性格は温順で力持ち! 粗食に耐え山の悪路を登り降りするのが巧いため、対馬では“農家に1頭!”という割合で農耕馬として重宝されていた。この対州馬、現在では数少ない日本の在来馬5品種の1種なんだとか。その頼もしい対州馬がつぶらな目をしてモクモクと荷物を運ぶ愛おしい姿、懐かしい!



対州馬を使った運搬業。
これぞ斜面都市長崎ならではの職業。
長崎名物だ!


食べる長崎名物!
◆大正時代、菊水といえばかき氷!
藤の花の名所として、また長崎港を一望できる景勝地として、丸山が最も栄えた頃に芸者さんたちの憩いの場として人気を呼んだのが大徳寺周辺の茶店だった。当時数件の茶店があったが、現在は、大ぶりモチモチの“梅ヶ枝焼餅”で今も多くの人に親しまれている明治初期創業の菊水1軒のみだ(1ページ参照)。この菊水の大正時代の名物がカンナで削ったかき氷。特に宇治金時が人気を集めていたという。残念ながら、今から40年程前にメニューから消えたが、50歳以上の方の中には、藤棚の下で宇治金時を味わった方もいるのでは?

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