どの街を訪れても観光スポットや公園の片隅などで様々なモニュメントを目にするもの。それらは郷土が誇る偉人や、歴史上のドラマに関するものが大多数。そういう意味で長崎の地には果たしてどんなモニュメントがあるのだろう? そこで、いざ!モニュメント探しの旅!


ズバリ!今回のテーマは

「モニュメントは長崎の歩みそのもの!」 なのだ



モニュメントを探しながら町中をぶらり歩く。見つけたモニュメントひとつひとつにもやっぱり長崎の街のあゆみが反映されていることに気づかされる。すると、あら不思議! 3つのテーマに分類することができたのだ。まずは、ある時代で活躍した人物ゆかりのモニュメント。特に現在の長崎、いや日本文化の基礎を築いたといっても過言ではない「鎖国以前〜明治の近代化編」に着目! そして、長崎特有の歴史ともいえる「信仰編」。最後に、決してあの日を忘れてはいけないという思いから数々のモニュメントが建立されている「被爆編」。町中にひっそりと建つモニュメントに出会うたび、それはまさしく長崎の歩みを表す記念碑なのだと実感する。今回は「モニュメントで巡る長崎 前編」と題し「鎖国以前〜明治の近代化編」のテーマに沿ったモニュメントを紹介していこう。

◆Pick upモニュメント鎖国以前〜明治の近代化編
・ 郷土先賢紀功碑(長崎公園丸馬場 map 1)
・ ケンペル・ツュンベリー記念碑(出島和蘭商館跡内 map 2)1681年 ケンペル来日、1775年 ツュンベリー来日
・ フレンドシップメモリー(出島和蘭商館跡内 map 3)1549年 ザビエル来日
・ ルイス・フロイス記念碑(西坂公園内 map 4)1563年 来日
・ 長崎甚左衛門像(長崎公園丸馬場中央 map 5)1570年 開港
・ 長崎開港先覚者之碑(丸川公園内map 6)
・ 長崎開港記念碑(長崎市役所横 map 7)
・ 黙子如定禅師像(眼鏡橋横 map 8)1614年 眼鏡橋架設
・ 大波止の鉄砲ン玉(夢彩都横 map 9)1638年島原の乱
・ シーボルト胸像(シーボルト宅跡 map 10)1824年鳴滝塾開設
・ 若き日のシーボルト像(シーボルト記念館前 map 11)
・ 施福多君記念碑(長崎公園入口 map 12)
・ 本木昌造翁像(長崎公園内 map 13)1851年 流し込み活字鋳造に成功
・ マクドナルド顕彰碑(上西山町 map 14)1848年 長崎通詞に英会話指導
・ 杉亨二先生之像(長崎公園入口 map15)1871年 我が国初人口調査実施
・ ツュンベリー記念碑(長崎公園入口 map16)1784年『日本植物誌』出版
・ 古賀十二郎翁碑(長崎県立図書館内 map 17)1919年参与編纂主任として『長崎市史』発刊
・ 上野彦馬翁銅像(長崎公園入口 map18)1862年スタジオ上野撮影局開業
・ トーマス・ブレーク・グラバー之像(グラバー園内 map 19)1859年グラバー来日

●地図はこちら


モニュメント、それはその人(もの)と
それを建てた人達のでっかいメッセージ!
後世に伝えたい!長崎のすっごい人、歴史!

まずは現在の長崎の基礎を築いた人物を知るのに最適なモニュメントの一つに足を運んでみよう。それは、諏訪神社横の長崎公園の丸馬場に建つ郷土先賢紀功碑(きょうどせんけんきこうひ)。この碑は長崎に貢献した先賢者を後世に伝えるため、長崎市小学校職員会が大正天皇のご即位記念(大正4年(1915))に建立したもの。諏訪神社境内や丸馬場を含める長崎公園一帯には、江戸から明治時代に長崎を往来した文人墨客の記念碑や句碑などが数多く点在しているが、この碑に近づいてみると、超がつく程有名な人から、何となく聞いたことある! というような人まで数多くの人名が刻まれているのですぐにわかるだろう。郷土が生んだ優れた業績を残した昔の人々! 刻まれた名前を少しピックアップしてみよう。


郷土先賢紀功碑

朱印船貿易で莫大な利益を得た長崎代官の末次平蔵や熊本出身の商人・荒木宗太郎、儒医で長崎聖堂(中島聖堂)を創建した向井元升と、元升の次男で蕉門十哲のひとりである向井去来、『長崎夜話草』で知られる天文地理学者の西川如見(にしかわじょけん)、彭城宣義(さかきのぶよし)や林道榮(はやしどうえい)などの唐通事、森山多吉郎(栄之助)や堀達之助などの長崎通事(英語)。南画で知られる木下逸雲や春徳寺の14代住持の鐵翁(てつおう)、牛込忠左衛門といった長崎奉行の名もあれば、諏訪神社を再興した青木賢清も刻まれている。外国人では隠元禅師や逸然禅師、オランダ商館長のドーフ(ドゥーフ)やブロムホフ、現在の長崎大学医学部の前身を築いたポンペ、ケンペル、ツュンベリー(ツンベルグ)、シーボルトなどオランダ商館医として来日し、海外に日本を広く紹介した植物学者の名も連なる。日本人79名、外国人22名、どれもこれも見れば納得する長崎に貢献した面々の名だ。この郷土先賢紀功碑の中からもいくつか紹介しよう。

その前に出島和蘭商館跡にある長崎に大きな文化の流れを持ち込んだ外国人ゆかりのモニュメントを紹介しよう。復元が進む出島には郷土先賢紀功碑にも名を刻む2人の植物学者の碑がある。ケンペル・ツュンベリー記念碑。これは商館医であると共に日本文化を海外に紹介した2人の功績をたたえ、後に出島商館医として来日したシーボルトが、自らが管理していた出島の薬草園に建てたモニュメント。碑文の最後にシーボルトの名が記されている。また、同じ薬草園跡に展示されるミニ出島(1820年代の出島を15分の1に縮小した模型)横に、日本と海外の橋渡しに尽力した6人の人物を題材とした彫刻があるのをご存知だろうか? その名もフレンドシップメモリー


ケンペル・ツュンベリー記念碑


フレンドシップメモリー

実はこの彫刻、昭和45年(1970)に大阪で開催された日本万博博覧会において展示されたもので、万博終了後、ポルトガル政府から長崎県に寄贈され、その後長崎市がゆずり受けここに設置された。6人の人物とは、フランシスコ・ザビエルや、長崎で布教活動を行ったルイス・デ・アルメイダなど長崎にゆかりのある宣教師や、ザビエル以降の日本における布教の歴史を綴った『日本史』を執筆したルイス・フロイス、日本をポルトガルやブラジルに紹介した作家ヴェンセスラウ・デ・モラエス、ヨーロッパの言語で初めて日本の報告書を著したジョルジュ・アルヴァレス、最初の日本語文法書の著者ジョアン・ロドリゲス。それぞれの顔をかたどっているようではなく、いたって抽象的なモニュメントだが、その裏面にはプロフィール、下には名前と生きた年代が刻まれているので、ぐるりとまわり込んで鑑賞してみよう!

ルイス・デ・アルメイダの顔

彫刻の裏面
モチーフの一人であるルイス・フロイス(1532-1597)は、慶長元年(1596)、西坂の丘で二十六聖人の殉教を目撃し、その詳しい報告書ローマのイエズス会総長に書き送った。これが彼の最後の報告となり、同年、サンパウロ教会付属のコレジオ(現長崎県庁)で昇天。このフロイスゆかりの地に近い国道34号線から一筋入った万才町の道筋は、今もフロイス通りと呼ばれ人々に親しまれている。二十六聖人殉教の地である西坂公園内には、彼の功績をたたえ、ルイス・フロイス記念碑が建てられている。


ルイス・フロイス記念碑

郷土先賢紀功碑が建つ長崎公園の丸馬場に戻り、郷土先賢紀功碑右側に建つ大きな像に注目! それは、郷土先賢紀功碑に刻まれた人物達より遥か以前に長崎を大きく変えたある人物。元亀元年(1570)、初のキリシタン大名・大村純忠(1533-1587)と共に長崎港を開港した当時の長崎領主・長崎甚左衛門純景(1547-1621)をかたどった長崎甚左衛門像だ。
※(前回のナガジン!特集『越中先生と行く 長崎、開港以前』参照)


長崎甚左衛門像



大村純忠の娘を妻にもらい大村氏と協力関係にあった甚左衛門。当時の長崎は諫早西郷氏や深堀氏に度々襲撃され、そのたび純忠の援護を受けていたのだ。軍事的にも有利であると考えた純忠と甚左衛門は、天正8年(1580)、長崎をイエズス会へ寄進する。しかし7年後、秀吉による宣教師追放令によって長崎は公領化、甚左衛門は長崎を追放された。その後甚左衛門は、筑後、横瀬浦を転々とした後、時津の甥の所に移り住み生涯を終えた。この像は平成7年、長崎甚左衛門を顕彰する会によって建立されたもの。悠々と今にも歩き出すかのようなお姿。当然ながら肖像画も残されていない時代の人物。ずいぶん男前に描かれているのになんだか苦笑してしまう。自らもキリシタンに改宗していた甚左衛門の胸元にはクルスが架けられている。本当にこんな立派な風貌だったかは疑問だが、その昔長崎の町を治めていた領主にひとまず一礼していくとしよう! そして甚左衛門がかつて居館を構えていた現在の桜馬場中学校近くの丸川公園にも、平成7年、大村純忠と共にその功績を讃える長崎開港先覚者之碑が建てられている。裏面には全国に散らばった子孫の名が刻まれていてとっても興味深い。


長崎開港先覚者之碑




長崎の町を大きく変えた、長崎開港。開港されてからというもの、長崎はポルトガル貿易港として急速に発展していった。長崎市役所横、歩道橋や駐車場へつながる道に隠れた場所にひっそりと佇む碑も長崎開港関連のモニュメント。長崎開港を記念して建立された長崎開港記念碑だ。この碑は長崎港400周年を記念して昭和48年(1973)に長崎日本ポルトガル協会と在長崎ポルトガル国名誉領事館から寄贈されたもの。日本二十六聖人記念館の前館長で、現在、聖フィリッポ西坂教会の結城了悟神父による撰文が刻まれている。


長崎開港記念碑

「元亀元年(1570年)の秋、ポルトガル定期貿易船が入港するため、イエズス会日本布教長トーレス神父と大村純忠は、必要な協議をとげ、フィゲレド神父とトラハンス船長は、長崎の港を測量し、町造りをすすめた。翌元亀2年(1571年)の夏、船長バスデベイカアのひきいるポルトガル船が入港し、これが今日の長崎港発展のはじめとなった」
碑の中央には、幾重にも帆を張った南蛮船のレリーフがはめ込まれ、遥か430年昔の南蛮貿易時代を彷彿とさせている


南蛮船のレリーフ

つぎに全国に誇る日本初のアーチ型石橋・眼鏡橋を架けた人物の像。長崎の町の中心部を流れる中島川に架かる石橋群も長崎文化の象徴的なもの。なかでも眼鏡橋は日本初のアーチ型石橋は画期的なもので、この眼鏡橋が架設されたのを契機に、中島川の木橋は次々とアーチ型石橋へと架け替えられていった。橋桁のない円形の珍しくも美しい橋を、当時の町民達は歓喜の眼差しで眺めたに違いない。眼鏡橋架設以降、1700年までの間に架設された橋の数は約20。

さて、この文化の分岐点となった眼鏡橋を架設したのが寛永9年(1632)に渡来した興福寺2代住持の唐僧・黙子如定禅師(1596-1657)。眼鏡橋架橋は寛永11年(1634)だから、黙子如定禅師は2年で完成させたということになる。黙子如定禅師は、媽祖様を祀る祈祷所だった興福寺に、本堂(大雄宝殿/だいゆうほうでん)を建て、そのほか諸堂伽藍(がらん)、また山門の完成にも力を注ぐなど、興福寺の基盤を造るという役割を見事にやってのけた人物だった。郷土先賢紀功碑に隠元禅師や逸然禅師の名があるのに、黙子如定禅師の名がないのはとっても残念! 護岸工事を終え、心地よい散歩道に生まれ変わった中島川沿い、眼鏡橋の傍らに黙子如定禅師像が建立されている。


黙子如定禅師像

中島川が流れ込む場所、大波止の港。新たな施設の誕生、埋め立てや公園整備など、続々と長崎港湾が生まれ変わっていった近年、かつての埠頭の面影はほぼないに等しい。そんな中、幕末の長崎港にすでに鎮座していた“あるモノ”が現存している。それは長崎七不思議として「玉はあれど大砲なし」と唄われる長崎名物、大波止の鉄砲ン玉。ひと昔前までは大波止の船着き場にあったこの鉄砲ン玉は、実は来航する外国人を威圧する目的のためのものだったといわれ、寛永15年(1638)正月、島原の乱で一揆軍が立てこもった原城を攻略するために長崎で鋳造された石火矢玉と言い伝えられ、以来約370年もの年月この大波止の地に座ってきた。文化元年(1804)にロシア使節レザノフが来航した際の絵巻にもこの鉄砲玉が描かれているのでこちらの方も機会があったらご覧いただきたい。外敵を威圧する役割は現代では不要。鉄砲ン玉は現在、夢彩都横に海を背に意外にもひっそり建っている。



寄贈者の名前だろうか、かなり風化した台座側面にかつて刻まれていた何名かの名を見ることができる。○○菊太郎、○○金平……。うーん、時代を偲ばせる名前だ!


郷土先賢紀功碑に名を連ね、おそらく渡来した多くの外国人の中でも多大な業績を残したひとり、シーボルト関連のモニュメントを訪ねてみよう。寛政8年(1796)、南ドイツ・バイエルン王国のヴュルツブルグの医学教授の長男として誕生したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は医学のほか自然科学、地理学、民族学を修めた後、文政6年(1823)、オランダ商館医兼自然科学調査官として長崎に上陸。「すごい博学の医者が来る」となりもの入りでオランダ商館医として迎えられた彼はとても優遇され、商館長の働きかけにより出島以外で活動することを長崎奉行所から許されたり、薬草の採集に出かけたり、日本人の診察を行なっていたりしたので、出島以外でもシーボルトの評判は広まり各地から大勢の人(門弟)が集まった。来日の翌年である文政7年(1824)には、日本の調査・研究を進めると共に、日本人の医師に医学の講義を行なうため、長崎郊外の鳴滝にあった民家を購入し鳴滝塾を開いた。シーボルトがその生涯で残した業績のうち、特筆されるべきものは日本研究を『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などにまとめて出版し、広く世界の国々に日本を紹介したことだろう。ところで、皆さんがよくご存知なのは、今も閑静な住宅地である鳴滝の町にあるシーボルトが開いた鳴滝塾を擁したシーボルト宅跡のシーボルト胸像だろう。この胸像は、70歳で亡くなった頃の肖像画によく似ていて、立派なヒゲを蓄えた晩年のシーボルトが象られている。これに対して隣接するシーボルト記念館の玄関口には、胸像よりも遥かに若い若き日のシーボルト像が建っているので、こちらもご鑑賞いただきたい。
※(2002.2月ナガジン!特集『シーボルトも歩いた道』2003.12月ミュージアム探検隊『シーボルト記念館』2006.11月ナガジン!特集『長崎の町絵師・川原慶賀』参照)



シーボルト胸像

若き日のシーボルト像

そしてもうひとつ、郷土先賢紀功碑がある丸馬場から長崎県図書館へと下った場所に施福多(しーぼると)君記念碑が建てられている。これは、明治12年(1879)、大隈重信らが中心となってヴュルツブルクのシーボルト胸像建設のために寄付金を集め、その余剰金で長崎にも記念碑を!と建てられたものだ。撰文は当時の長崎県知事の大森惟中(おおもりただなか)だ。

再び長崎甚左衛門像と同じ丸馬場に戻る。すると、郷土先賢紀功碑に名を刻む人物の銅像がここにもあった。長崎が生んだ日本における活版印刷の始祖・本木昌造(1824-1875)だ。彼は新大工町の北島三彌太の四男に生まれ、代々オランダ通詞を務める本木家へと養子入り。彼もわずか12歳にして稽古通詞となり17歳で早くも小通詞へとなるなど超優等生だった。さて、その頃日本の新聞は木版刷りで、ニュースの提供が遅いは遅い! 鋳造鉛活字を使っている外国新聞の鮮明かつスピーディさに触発された。そこで昌造青年は日本の活字をつくりたいと希望に燃え、オランダ船が積んできた印刷機や活字を買い求め、研究と努力を重ねた結果、嘉永4年(1851)、ついに実を結び自署の『蘭和通弁 一巻』を刷り上げた。その時昌造青年、実に28歳。その後も電胎法による母型の作り方の伝習を受け、明朝体五号を中心とする活字の体系化を完成させると明治3年(1870)、新町(現在、長崎市立図書館(仮称)建築中)の地に活版所を創立。活字鋳造を始め、日本の活字印刷術を確立させたのだった。翌年には横浜に出て日本初の日刊新聞『横浜毎日新聞』を発刊。その他昌造は幕府が購入したチャールズ号の船長として航海に従事、子弟の教育ための私塾設立、ロシア使節来航の際の条約草案の和訳、日本初の鉄橋を架けるなど、幕末から明治にかけその多彩な才能を開花させた。明治8年(1875)、52歳で他界した彼の功績をたたえ、昭和9年(1934)、日本印刷工業会が建立した本木昌造翁像は一度戦火で崩壊したため、昭和29年(1954)に再建されたもの。初代の銅像は椅子に座った坐像だったそうだ。この風貌から、晩年の彼の姿だと推測!


本木昌造翁像



本木昌造と同時代を生きた人物の名を郷土先賢紀功碑にみつけた。森山多吉郎(栄之助)と堀達之助だ。彼らは嘉永6年(1853)旧暦6月、ペリーが浦賀に来航した際、米艦に赴き、日本人として英語通訳した第一号の長崎通詞だ。彼らに英語を教えたのが、インディアンの血を引くラナルド・マクドナルド(1824-1894)というアメリカ人。日本に憧れた彼は、江戸末期、北海道沖で捕鯨船を降り、ボートで利尻島に上陸。密入国者として捕らえられ長崎に護送されてきた人物。彼は長崎で崇福寺の末庵である大悲庵に幽閉されたのだが、当時の長崎奉行から英会話の指導者に任命され、14名の若い通詞達に英語を指導した。この14名の中に森山栄之助や堀達之助などがいて、牢格子を隔てたマクドナルドと向かい合い英会話の指導を受けたのだそうだ。あまり知られていないが、ネイティブスピーカーによる日本初の英語教師として近代長崎に貢献したマクドナルド。大悲庵のあった道向かいにマクドナルド顕彰之碑が建てられている。碑には彼の肖像が描かれているが、一瞬、日本人と見紛うようなお顔立ち! 彼は自分のルーツであるインディアンが日本からアラスカを経てアメリカ大陸へ辿り着いたと信じていて、少年時代から日本への関心が強く、先祖のルーツを確かめるために日本を目指したのだという。郷土先賢紀功碑には名を刻んではいないが、いわば弟子である森山、堀の2人が彼の功績を物語っているようなものだ。


マクドナルド顕彰碑

マクドナルドの肖像

丸馬場からかつて東照宮が祀られていた名残の葵の御紋が刻まれている安禅寺の石門をくぐり抜け、長崎県立図書館の方へと下ったエリアにもいくつものモニュメントが点在している。前述した施福多(しーぼると)君記念碑もそのひとつだが、日本の統計の基礎を作り、日本で初めて人口調査を実施した杉亨二(すぎこうじ)先生之像、郷土先賢紀功碑にも名を刻むスウェーデン出身の植物学者でシーボルトの日本研究の基礎を築いたツュンベリー(ツンベルク)記念碑、長崎学の祖であり、長崎県立図書館創設に尽力した古賀十二郎翁碑など、多数。なかでも郷土先賢紀功碑に“寫眞術”として名を刻む日本写真の開祖・上野彦馬翁銅像がある。


杉亨二先生之像


ツュンベリー記念碑


古賀十二郎翁碑

上野彦馬(1838〜1904)は、御用時計師・上野俊之丞の四男として銀屋町に生まれ、20歳前にオランダ通詞である名村八右衛門についてオランダ語を学び、安政5年(1858)科学研究所である舎密(せいみ)試験所に入り、さらに海軍伝習所でポンペに科学を学んだ後、フランス人・ロッシュから写真術の指導を受ける。フランスから写真機を購入すると、中島川河畔に上野撮影局を開き、日本初の商業カメラマンとして横浜の下岡蓮杖(れんじょう)と共に、写真文化の発展の基礎を築くことになる。幕末の志士や外国人居留地に住む外国人達も数多く撮影している彦馬だが、なんといっても有名な一枚は、袴姿にブーツを履いた坂本龍馬の肖像写真。龍馬ファンならずとも誰もが一度は目にしているあのショットは彦馬によるものだ。昭和9年(1934)に全関西写真連盟によって新大工町の旧邸に記念碑と像が建立されたが、戦災によって破損。昭和26年(1951)、日本写真師会などによって再建された。長崎県立図書館入り口の正面にあるのも手伝ってか、晩年の彦馬の風貌が見事に再現されたこの胸像は周囲のモニュメントの中でも群を抜いて存在感のあるものとなっている。


上野彦馬翁銅像



●鎖国以前〜明治の近代化編の最後を飾るのは、やはり南山手の高台、グラバー園内に建つトーマス・B・グラバーの胸像だろう。トーマス・ブレーク・グラバー(1838- 1911)は、イギリス・スコットランド北部の小さな漁村の出身。少年時代は名門校に通い、さらに沿岸警備隊に勤務する海軍大尉の父から船舶の操縦技術も学んだ。グラバーは安政6年(1859)9月、開港と同時に上海経由で長崎へ来航。当時同じスコットランド人であるケネス・R・マッケンジー経営の貿易商社に勤務し、マッケンジーが去ると仕事を引き継ぐと同時に「グラバー商会」を旗揚げ。そこで彼は坂本龍馬などの志士たちに銃や艦船や機械類を大量に販売。茶、絹、銀、そして各地方の様々な特産品を輸出した。取引相手が倒幕を画策する西南諸藩だったため、グラバー自身も明治維新の政治情勢にも深く関わることになる。彼は50年あまりを日本で過ごしているが、はじめの10年が貿易という経済的な面で、明治以降はいわば純経済人としての活動期に入り、それと共に彼は日本の近代科学技術の導入に貢献した。例えば慶応元年(1865)、大浦海岸に我が国初めての汽車、アイアン・デューク号を走らせる。そして慶応2年(1866)、小菅に「ソロバンドック」を建造して我が国の造船、修船事業に貢献。さらに、明治元年(1868)、長崎港外「高島炭坑」に画期的な洋式採炭法を取り入れ開発。これらを含む様々な最新技術の導入に尽力したのがグラバーだった。また「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」(後の「キリン麦酒株式会社」)が横浜に設立される際も重要な斡旋をしている。さらに東京では「鹿鳴館」の外国人名誉書記も務めていたという。明治30年(1897)、グラバーは日本人の妻ツルと共に東京へ転居。そこで、三菱の顧問としての余生を送った。そして日本政府は明治41年(1908)、外国人としては初めての勲二等旭日重光章をグラバーへ贈り、彼の功績をたたえている。現存する日本最古の洋館として名を馳せる、長崎港を見下ろす南山手の丘にグラバー邸を建設したのは南山手が外国人居留地となった文久3年(1863)。上から見ると屋根が四葉のクローバーの形をしたこの邸宅には、グラバーの趣味だった花々が咲き誇る欧風の温室がある。その横に、幕末、日本の近代化に貢献した英国商人・グラバーの胸像が長崎港を背に誇らしく建っている。
2002.9月ナガジン!特集『グラバーが住んだ丘〜グラバー園・満足観光ナビ〜』参照


グラバー之像



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