どの街を訪れても観光スポットや公園の片隅などで様々なモニュメントを目にするもの。それらは郷土が誇る偉人や、歴史上のドラマに関するものが大多数。そういう意味で長崎の地には果たしてどんなモニュメントがあるのだろう? そこで、いざ!モニュメント探しの旅!
ズバリ!今回のテーマは 「モニュメントは長崎の歩みそのもの!」 なのだ
郷土先賢紀功碑に名を連ね、おそらく渡来した多くの外国人の中でも多大な業績を残したひとり、シーボルト関連のモニュメントを訪ねてみよう。寛政8年(1796)、南ドイツ・バイエルン王国のヴュルツブルグの医学教授の長男として誕生したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は医学のほか自然科学、地理学、民族学を修めた後、文政6年(1823)、オランダ商館医兼自然科学調査官として長崎に上陸。「すごい博学の医者が来る」となりもの入りでオランダ商館医として迎えられた彼はとても優遇され、商館長の働きかけにより出島以外で活動することを長崎奉行所から許されたり、薬草の採集に出かけたり、日本人の診察を行なっていたりしたので、出島以外でもシーボルトの評判は広まり各地から大勢の人(門弟)が集まった。来日の翌年である文政7年(1824)には、日本の調査・研究を進めると共に、日本人の医師に医学の講義を行なうため、長崎郊外の鳴滝にあった民家を購入し鳴滝塾を開いた。シーボルトがその生涯で残した業績のうち、特筆されるべきものは日本研究を『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などにまとめて出版し、広く世界の国々に日本を紹介したことだろう。ところで、皆さんがよくご存知なのは、今も閑静な住宅地である鳴滝の町にあるシーボルトが開いた鳴滝塾を擁したシーボルト宅跡のシーボルト胸像だろう。この胸像は、70歳で亡くなった頃の肖像画によく似ていて、立派なヒゲを蓄えた晩年のシーボルトが象られている。これに対して隣接するシーボルト記念館の玄関口には、胸像よりも遥かに若い若き日のシーボルト像が建っているので、こちらもご鑑賞いただきたい。 ※(2002.2月ナガジン!特集『シーボルトも歩いた道』、2003.12月ミュージアム探検隊『シーボルト記念館』、2006.11月ナガジン!特集『長崎の町絵師・川原慶賀』参照)