長崎の工芸品〜江戸時代の長崎土産〜

天文学者・西川如見が晩年に心血を注いで著した『長崎夜話草』。1720年発刊当時、取り上げた39種の「長崎土産」に入っていないものがある。現代の「長崎土産」の代表格であるその工芸品とは……。

江戸時代の長崎土産
中国×日本
「べっ甲細工」

前ページで紹介した「眼鏡細工」が長崎で発展していったのには、眼鏡の縁に使用される、ある材料と技術が長崎にあったことも要因だったという。それは、ズバリ!「べっ甲」。べっ甲の原材料が亀の甲羅だということは広く知られているが、正確には「タイマイ」という海亀の一種。このタイマイが中国から唐船によってもたらされ、江戸時代には、日本で独自に加工されはじめた。1603年に長崎でイエズス会によって編纂された『日葡(にっぽ)辞書』には、べっ甲とタイマイの意味は別に記され、べっ甲は“亀の甲羅で作られるある種の薬”とあり、タイマイは“中国人が細工物を作る亀の甲”と記されている。長崎でべっ甲細工が発達したのは、徳川幕府の鎖国によって、長崎港のみがオランダと中国との貿易港となったことから原料を容易に入手できたためだ。そして、長崎での技法がその後江戸などへ伝えられた。今も昔も、長崎を代表する土産物であるにもかかわらず、『長崎夜話草』に記載されていないのはなぜだろう?それは、べっ甲細工があまりに高価な贅沢品で、とても一般人に購入できるものではなかったためと考えられている。『長崎港草』によると、享保年間(1716〜1735)には長崎にべっ甲職人がいたとあり、酒屋町、袋町、西古川町と、いずれも中島川沿いに存在していた。べっ甲細工は、かんざしなど、主に女性の笄(こうがい)と呼ばれる髪飾りに加工。丸山、寄合両町の遊女達の漆黒の髪を彩った。しかし、長崎のべっ甲細工が最も盛んになり、長崎ブランドとして全国で認知されるようになったのは安政の開国以後のこと。外国人居留地やロシア人など、往来する外国人達の人気も集めた。そうして様々なニーズに応えていくうちに、技術、デザインともに成熟していったのだ。

タイマイ
べっ甲細工の原材料であるタイマイ

べっ甲の笄
丸山遊女達も愛用したべっ甲のかんざし

※2002.5月 ナガジン!ミュージアム探検隊「長崎市べっ甲工芸館」参照


現存する中で制作年代がわかっている最も古いものは、安永元年(1772)の「桶屋町傘鉾飾及び十二支刺繍」。『長崎夜話草』には記載されていない、伝統の技、長崎ブランドとは……。

江戸時代の長崎土産
中国×日本
「長崎刺繍」

精巧で立体的、ビードロ細工同様、長崎の氏神・諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」の傘鉾装飾や衣装でお馴染みの長崎刺繍の原点は中国刺繍。糸をより合わせて太さを変えたり、刺繍後に彩色したり、糸と生地の間に綿やこよりを入れて膨らませたりと、変化に富んだ作風を特徴とする長崎刺繍は、唐人屋敷ができる以前、市中に散宿していた住宅唐人達によって伝えられた技法のようだ。銅座の殿様、傘鉾町人としても知られる永見徳太郎が記した『長崎の美術史』によれば、当時、長崎刺繍の技術は、衣服や帯などに用いられ、掛物には、中国の伝説や山水美人をモチーフにしたものが作られていたという。また、オランダ人はこの刺繍をとても好み、国旗や軍船、山水、花鳥などを精巧に描いた長崎刺繍は、輸出品として販路を広めていった、とある。また、明治26年(1893)、安中半三郎が出版した『長崎地名考-物産部』には、長崎刺繍が幕府への献上品として栄えていったとある。

しかし、幕末から明治時代初期にかけては、外国人向けの図案で大いに売り出された長崎刺繍も次第に衰退。大正時代末期から昭和初期にかけては図案の輪郭に、わずかに金糸を使用して長崎刺繍の名残を止めた製品が生み出されたりもしたが、やがて全くその姿を消してしまった。
現在、長崎県指定無形文化財長崎刺繍技術保持者であり、唯一の長崎刺繍職人嘉勢照太氏がその技を継承。今年の長崎くんちでも、数年をかけて制作された作品をお披露目してくれるようだ。

長崎刺繍
長崎刺繍の衣装は、長崎くんちに華を添える

『長崎夜話草』発刊以降に登場した「長崎土産」は、もちろん掲載されていない。18世紀中頃から、やはり出島のオランダ人や中国人の風俗など、異国情緒に満ちた長崎風情をモチーフとした長崎版浮世絵とは……。

江戸時代の長崎土産
日本
「長崎版画」

江戸時代の木版画といえば、写楽、北斎、歌麿……世界中に影響を与えた「浮世絵」。色ごとに版を使う多版多色版画だ。そして、長崎にも江戸からその技法が伝わり、木版画の技法で表現した「長崎版画」が誕生した。人々が親しみを込めて「長崎絵」とも呼んだこの版画は、江戸中期の延亨年間(1744〜48)にはじまり、天保年間(1830〜44)に色摺りとなり、幕末の文久年間(1861〜64)頃までの約120年間制作されたと推定されている。

洗練さや技術の巧みさなどは、浮世絵に、オランダ人や中国人の風俗や舶来品など異国的な題材と、その素朴の表現が魅力となり、長崎を往来する人々の間で、異国の風物を知ることのできる「長崎土産」として大いに喜ばれた。また、海外への唯一の窓口であった長崎での出来事、世相を反映する役割も担っていた。作者の多くは不明だが、中国やオランダに関する知識の豊富さから、絵師だけでなく唐絵目利(からえめきき)と呼ばれる輸入絵画を鑑定し、模写する役職の地役人が多かったのではないかといわれている。

長崎版画
長崎の風景を描いた長崎版画
「長崎八景・立山秋月」
長崎歴史博物館蔵

※2010.2月 ナガジン!特集「長崎の印刷物」参照
※2008.3月 ナガジン!特集「越中先生と行く 長崎八景の世界〜江戸期の景勝地〜」参照

江戸時代の長崎土産
朝鮮×中国×日本
「亀山焼」

坂本龍馬も愛用していたことで知られる「亀山焼」。窯跡が龍馬ゆかりの亀山社中跡と若宮稲荷神社の中間地に今も残っている。もともとは、オランダ船が水甕を必要とすることから、大神甚五平という人物が文化4年(1807)に開窯。しかし、ちょうどオランダの混乱期にあたり、開窯の翌年から9年もの間、オランダ船の入港はほとんどなくなってしまった。そこで、文化9年(1812)から天草陶石を用いた「磁器」を生産。これが後に長崎ブランド「亀山焼」として賞賛をあびることとなった。

どんな商品が造られていたかというと、鉢どんぶり類、茶碗類、皿類など。1回の製作量は約1万個で、そのうち8割が染付製品の一般食器。残りの2割が精選された呉須(ごす)と呼ばれるコバルトを用いた白磁染付類のオーダー商品。それに長崎南画三筆と呼ばれる木下逸雲(長崎の八幡町生まれの南画家)、鉄翁祖門(春徳寺和尚ながら南画家)、三浦梧門ら、長崎を訪れた豊後の南画家・田能村竹田(たのむらちくでん)などが手掛けたものが、格調高い逸品として人気を博した。さらに、「オランダ船」や「ラクダ」など、長崎ならではの異国情緒満点の図柄も描かれ、長崎土産として喜ばれた。しかし、変遷を繰り返した亀山焼は、わずか60年足らずで閉窯してしまい、今や幻の焼物といわれている。

亀山焼
中国渡来の技、原料で人気を博した亀山焼
 

最後に--。
歴史に育まれた土地の個性が表現されたものが、各地の土産物。ほかにも、日本三大土人形の「古賀人形」や、明治後期に登場した「絵葉書」など、長崎の歴史やエピソード、長崎ならではの風情、異国情緒、異国趣味をモチーフに誕生した長崎土産はまだある。それらを改めて見つめ直してみると、新たに郷土愛が芽生えてくるような気がする。
古賀人形
古賀人形・オランダ商館長ブロムホフ夫人・ティツィアと息子ヨハネスを模した人気の長崎土産「西洋婦人」

※2004.8月 ナガジン!特集「物にも思い出! 長崎土産を素敵にコーディネート」参照
※ナガジン!出島370年物語vol.6「出島ゆかりの女たち」参照
※20011.1月 ナガジン!特集「異国の薫り〜明治期の長崎」参照

参考文献
『ながさきことはじめ』(長崎文献社)
『新長崎市史 第二巻近世編』(長崎市)
『眼鏡の社会史』白山晰也著(ダイヤモンド社)
長崎県公式ホームページ「文化財」
「長崎刺繍」再発見塾ホームページ


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