〝ようするに力だ。力の強い奴が勝って、弱い奴が負けるのだ〟
これは遅れていた岩越鉄道(現在の磐越西線)の施設を政府に嘆願するために上京していた会津の仲間たちへ言い放った日下義雄(くさかよしお)の言葉です。このセリフだけ読むと〝物事を力でねじ伏せる傲慢な人物〟をイメージしてしまいます。しかし、日下義雄のいう「力」はまったく性質の違うものでした。昭和三年に発刊された『日下義雄伝』を頼りに読み解いていきたいと思います。
日下義雄が亡くなったのは大正十二年、享年七十三歳でした。その五年後、関係者へ取材して、彼の一生を事細かに記したのが『日下義雄伝』です。この四百ページにも及ぶ人生の記録を読んでいく中で、やたらと目についたのが「豪放」「硬直」「剛毅」「無表情」という単語です。日下の人格を回りの人々はこう評価していたのです。
このような性向は、家族にも共通していました。二つ違いの弟、和助は日本史上有名な白虎隊士。これまた豪放な人間で、幼いときから酒好きだったとか。こんなエピソードが残っています。日新館(上級藩士が通う会津の学校)時代のこと、身分の高い学友から父親のことを「成り上がり者」とバカにされた時など、和助は平然と「自分の父は農村から出て御側医になったのだから、いかにも成り上がり者に相違ない。しかし君たちの先祖は偉かったろうが、今の様子では天晴成り下がり者だ」と応酬しました。和助は十六歳で白虎隊に入隊。和助の勇敢な戦いぶりを同じ白虎隊士の酒井峰治は次のように回想しています。
「時に八月二十三日、大暴風雨を侵して新堀の所にいたり身を潜む。しかして土堤の高さ五、六尺(一・五~一・八メートル)、その上によじ登り敵の来るを狙い、立ち打ちをなせしは独り石田和助なり」 中村彰彦『白虎隊』から抜粋
慶応四年八月二十三日。隊士たちは、飯盛山から鶴ヶ城が煙に包まれているのを見て自刃を決めた時、和助はすでに負傷しており息絶え絶えの状態でした。しかしありったけの声を張り上げ「人生古より誰か死無からむ 丹心を留取して汗青を照さむ」と辞世の句を読んだあと「手疵が苦しければお先に御免」と言い残し、刀を腹に突き立てて見事に引廻して割腹します。現在に置き換えると高校一年生、信じられない話です。お気づきのことと思いますが、日下の弟の名字は「石田」。日下義雄とは後になって名乗った名前で、石田五助というのが本名です。五助は嘉永四年に会津若松に生まれました。ガキ大将で、大勢の子分を引き連れて威張り散らしていたそうです。和助もそうでしたが、五助も非常な秀才で、十歳の時に藩校に入学し、十四歳から日新館大学の課程を学び始め、わずか二年で終了してしまいます。十七歳になり藩主松平容保のいる京都へ赴き、十八歳の時に鳥羽伏見の戦いに参戦します。戦闘中に足を銃撃され負傷、幕府の軍艦に乗って江戸に逃れ療養、完治した後五助は慶応四年の四月に故郷に戻りました。松平容保が鶴ヶ城を死守していた九月、理由は不明ですが五助は榎本武揚が率いる軍艦に乗り蝦夷地に上陸、函館戦争に参加します。この時、五助は病身ですぐに入院したといいますから、あるいは「病身のまま鶴ヶ城にいては足まといになる」と考えての函館行きかもしれません。数ヶ月の療養後、同じ会津の諏訪常吉の部隊に所属して新政府軍と戦闘、最後は五稜郭が陥落するまで戦いました。幕府軍は降伏、捕らえられた五助は東京の品川に護送されます。
函館から品川に護送された際、撮影した写真が残っています。裏側には「石田義雄」と書名されていました。改名した理由は分りません。義雄は審問を受けた後、中村藩に預けられ謹慎生活を送っていましたが、ある野望で頭がいっぱいになっていました。「長崎遊学」です。「長崎で海外の新しい知識を学びたい」という思いが押さえられず、謹慎中にも関わらず、会津藩の公用人に旅費を借りたいと申し出ます。公用人が藩の責任者に相談したところ、「藩士はすでに赦免されたけど、蝦夷島にまで走ったものは、尚謹慎しておるべき立場だから遠方に遊学させることは控えたほうがよかろう」という答えでした。この判断に義雄は思い切った行動にでます。会津藩士であることを辞めたのです。藩籍を脱し平民になることで晴れて長崎遊学を実現させました。明治三年、公用人の紹介で長崎にいた会津藩御用商の足立仁十郎を訪ねます。「外国人に就いて西洋の学問を学びたい」旨を伝えましたが、仁十郎からは「忙しくて面倒をみきれない」と断られてしまいました。そのかわりに仁十郎は、大阪にいる同藩の小松氏を紹介、義雄は仕方なく大阪に向かいました。義雄の志を聞いた小松氏は、義雄をある人物に紹介、保護を頼みます。その人物こそ、義雄の生涯の恩人になる井上馨でした。
明治三年当時大阪造幣寮頭だった井上は、小松氏の申し出を受けて義雄を書生として自宅に住まわせ、大阪英語学校に入学させます。ようやく学び始めた矢先、井上邸に明治政府の調査員が訪れ、義雄の身元を尋問しました。新しい国づくりを始めたばかりの明治政府は安定しておらず、会津藩士ら旧幕府軍の人間を警戒していたのです。さて義雄ですが、それはもう堂々と「我輩は長州の日下義雄である」と言ってのけたといいます。「日下」という名の由来は「久坂玄瑞を追慕して」など諸説ありますが、本人は「天日の下に生涯を送るから日下という姓を独創した」と話しています。
ある日、政府が有望な青年を留学させる計画があることを聞きつけました。さっそく井上に「自分を推薦してほしい」と頼みましたが聞き入れられません。その日から毎朝、井上の寝室への「押しかけ嘆願」が始まります。あまりのしつこさに、井上はついに癇癪をおこし「うるさい、下がれ!」と怒鳴りつけました。恩人を怒らせたのですから、これで諦めそうなものですが、義雄はその翌朝もまた翌朝も頼み続けるのです。なんと「打たれ強い」上に「しつこい」人でしょう。根負けした井上は義雄を推薦、留学が決まりました。
明治四年、全権大使岩倉具視一行の船に同乗しアメリカへ向かいました。英語がままならない義雄は、前年に留学していた同郷の山川健次郎に連絡を取ります。日本最初の理学博士であり、東大、京大らの大学総長を務めた人物で、九州帝国大学(現 九州大学)の初代総長として知られる山川は、松平容保の側近だった山川浩の実弟で、NHKの大河ドラマ『八重の桜』では勝地涼さんが健次郎役を演じていました。義雄から連絡を受けた山川は、住んでいたコネチカット州のノールウィッチから義雄がいたニューヨーク州ポキプシーまで出向きます。三日ほど一緒にすごした後、義雄は山川と一緒にノールウィッチに移り住みました。翌年、若松城で山川と共に戦った赤羽四郎が留学生として合流。日下は後に、この時の三人暮らしを「楽しかった」と回想しています。義雄は正規の学校へは通わず、文部大臣や上院議員、コネチカット州知事、経済学者らと直接会うことで学んでいきました。あのモルガン財閥の創始者であるジョン・モルガンに歓待を受けたという記録も残っています。
アメリカ留学時代の義雄らしい〝豪放エピソード〟を紹介しましょう。ある日、世話になっていた主人の使いで数キロ離れた町に行きました。口うるさい主人でしたので急いで帰ろうと考え馬車を雇います。ところが馬車夫は、途中の酒店で飲み始めてしまい、義雄がいくら催促しても動きません。怒った義雄は「もう頼まん!」と、勝手に馬車に飛び乗って走らせました。しかし、馬車など操ったことのない義雄は角を曲がりきれず横倒れになり、さらに追いかけてきた馬車夫とその仲間に袋だたきにされます。馬車夫は壊れた馬車の賠償を要求しますが、義雄は「ならば警察まで一緒に来い」といって頑として拒否したそうです。
明治七年、戻って来た義雄は大蔵省に勤務し、翌年には御用商人の令嬢、山内可明子と婚約しました。ところが九年、政府から井上に欧州行きの命が下り、義雄も随行することに。二人は一緒に暮らす事もないまま離ればなれになったのです。義雄が帰国するのは四年後の十三年ですから、あまりに長い別居生活。それでも可明子は、明治十一年から井上馨の邸宅に移り住み、井上の養女末子と同室で貴婦人のマナーを身につけていきました。日下はイギリスで統計学と経済学を研究、最新の経済理論を学びます。留学中、生涯の親友となる牧野伸顕との出会いもありました。牧野は大久保利通の次男(牧野の長女雪子は後の吉田茂夫人)。会津藩士で旧幕府軍側だった日下が、長州藩士で新政府軍側の井上馨宅に住み、薩摩藩士で同じく新政府軍側の大久保次男と親友になるというのは、なんとも皮肉な縁です。
英国で知り合った友人といえば岩倉具綱(岩倉具視の娘婿)もそうです。ここで義雄の〝豪放エピソード〟をもう一つ。帰国後、岩倉邸で留学仲間を招いたパーティーが開かれました。会場に岩倉具視が現れ、日下を見るといきなり「君は不平か煩悶(はんもん)でもあるのか」と尋ねます。日下が「別に不平も煩悶もございません」と答えます。すると岩倉は「実に不愉快な顔だ」と言いました。カッと来た日下は猛然と「あなたは他人の顔を妄評せられますが、まず鏡に向かってあなた自身の顔を御覧になってからにしなさい」と言い放ちました。あの岩倉具視に向かってです。
日下は明治十三年に帰国。ようやく可明子との新婚生活がスタートします。築地に新居を構えたのですが、隣に住んでいたのは長崎出身の作家で政治家の福地源一郎(桜痴)だったというところに長崎との縁を感じます。太政官、内務省、農商務省で勤務した日下に「長崎県令(後の知事)」の辞令が下ったのは明治十九年二月。弱冠三十六歳、最年少の県令です。日下は「俺も今度、地方長官になったから、大いに力まねばならぬ」と意気込みます。可明子もまた「勅任官になるまでは大礼服をつくらぬと言って、略服で済ませてきましたが、今度はつくらねばなりません」と張り切りました。服を仕立てて正解でした、長崎に着任した義雄は次のように出迎えられたのですから。
「日下県令は一昨夜着港の名古屋丸にて着県せざるなり。同日午後七~八時該船着港の予定なるを以て県官郡区長警官巡査及び区内の諸会社員及び各町より惣代等が出迎えとして、大波止海岸より江戸町入口までの間に群列せし。(中略)群列の衆員は県令の通過を待ち敬礼す。県令車上より脱帽答礼あり、柳本大書記官以下警部長区郡長諸課長等は人力車にて随行し小島郷福家(長崎三大西洋料理店の一つ)へ投宿せられ県庁属官の内、重立つ人々及び諸会社員等は福家に到り着県の賀を表せられり」
『鎮西日報(明治十九年三月二十三日付)』
長崎県令になった日下が、いの一番で取り組んだのは「水道事業」ですが、その前に、国家間問題にまで進展した「清国水兵暴行事件」を紹介したいと思います。事件が起きたのは着任して半年もたたない八月のこと。清国の軍艦四隻が長崎に入港し、水兵らが休暇のために上陸してきました。寄合町の料亭でトラブルが発生します。実に些細な理由なのですが、言葉が通じないためこちらの意図がうまく伝わらず、水兵が怒ってしまったのです。五名の水兵は手当たり次第に家具などを壊しはじめました。主人は驚いて丸山巡査派出所に連絡、巡査が駆けつけます。まず、身振り手振りで三名を退散させ、暴行を働いた二名を尋問しようとしましたが逃げられてしまいました。逃亡した水兵は仲間を集め十四、十五名で丸山巡査派出所に押しかけてきます。乱闘の末、巡査は、逃亡した水兵を捕らえて長崎警察署に連行。しかし警察の責任者は、せっかく捕らえた水兵を直ちに清国領事館に引き渡してしまいます。なぜ、これだけの暴行を働いた水兵を裁くこともなく領事館に渡してしまったのでしょうか。この当時の日本の国際的な地位は低く、外国人は治外法権法によって権利が守られていたのです。したがって、中国人が長崎でどんな乱暴をはたらいても、日本のルールでは裁くことができませんでした。
翌日、清国の領事が日下知事を訪れ、昨日の事件について次のように話し合います。国際的な立場が弱くても日下の態度は堂々としたものでした。
日下「今回の事件のごときは、各国とも絶えず起こる事で別に珍しくはない。将来我が軍艦が貴国の港に停泊して水兵を上陸させた場合、またこのような事件を起こさないとは保証の限りではない。然るにかかる小事を以て両国の交誼に多少の影響を及ぼすがごときがあってはならない」。
領事「尤もです。貴説のごとく少数者は常に多勢に苦しめられるものですから、今回の事件たるや少数者の貴国巡査が端を発したのではないことは明瞭である。且つ監督のことにおいては、既に丁提督と商議して多数水兵の上陸を禁じ、また上陸を許す場合は、努めて監督士官を付けることに決したから、今回の事件は万事平和の解決を望みます」
日下の意見に領事も賛同し、事件は丸く収まるかに思えました。しかし翌日、今度は四百五十人もの水兵が上陸して騒ぎだし、ついに広馬場で警官隊と衝突。数百の水兵に包囲された警官は斬られるなどして負傷します。清国の領事館員が駆けつけ、説得しますが騒ぎは大きくなるばかり。警官隊は梅香崎署に撤退、水兵の一軍は署内に突入しようとしましたが、これはなんとか防ぎました。他の警察署にも応援を求め、激闘の末ようやく午後十一時に暴動は鎮静化します。
日本側の被害は死者二名、負傷者十七名。清国側は死者四名、負傷者四十六名。日下は直ちに内務省と外務省に電報にて報告、伊藤博文首相は事件処理のため、各省の担当官を集めた対策室を外務省内につくります。解決には翌年の二月までかかりました。両国に死傷者に対して互いに見舞金を交換し、これを死亡者の遺族ならびに負傷者に分配することで決着したのです。
長崎県令になった日下がすぐに取り組んだのは「水道事業」であることは先述しました。長崎には外国船が頻繁に出入りしましたので、これまでも赤痢、腸チフスなどの被害がありました。明治十八年にはコレラが大流行し長崎区内で八百人が感染、七割以上の六百人が死亡します。コレラ流行の最大の原因は「水」。長崎は飲料水に恵まれない土地です。諏訪神社から県庁のある江戸町までが「長い岬」で、貿易港になり人口が増えるにしたがって、周辺を埋め立てて町をつくっていきました。埋立て地の町で井戸を掘っても、飲料水には不向きの水しか出てこないのです。長崎の飲料水の三分の二は「井戸」から供給していましたが、その内で飲料可能な井戸は約半分しかありませんでした。残り三分の一の飲料水を供給していたのは「倉田水樋」(くらたすいひ)です。中島川中流部を水源に、木でつくった四角い筒を水道管として地中に埋めて、長崎六十六町のうち五十五町に水を通しました。延宝元年(1673)本五島町の回船問屋だった倉田次郎右衛門が七年かけて自費で創設したものです。以来長く長崎の飲料水を供給してきましたが、二百年も経ち管が木材であることから老朽化していました。当時、長崎区議会議長だった西道仙は『長崎水道論』の中で「倉田水は、冬場は中等水だが、夏場は飲料不適水になる」と述べています。また同書の中で「梅雨の季節や豪雨のあと井戸水は濁り、炊いた米が黄色になる」と当時の状況を報告。泥水でお米を炊いていたというのですから、コレラが流行するのも頷けます。
明治十八年のコレラ流行で被害を受けたのは市内だけではありません。三菱財閥が経営する高島炭坑でも炭坑夫三千名の内、九百名が亡くなりました。外国人居留地からも水道施設を求める声が上がり、外務省に早急な水道の建設を迫ります。こうなるともはや一地方の問題ではなく国際問題です。現代に生きる私たちからすれば「それなら早く水道をつくればいいのに」と考えてしまいますが、実はこの時点で西洋式の近代水道が完成していたのは横浜だけ。水道敷設はまだまだ未知の大事業だったのです。この重要なプロジェクト・リーダーに日下が選ばれたのはなぜか。この時期の県令は選挙ではなく、政府が任命していましたので、外務大臣の井上馨が日下に白羽の矢を立て、長崎に送り込んだのだろうと『日下義雄伝』の著者は推測しています。「長崎に近代水道を施設せよ」という井上からのミッションを背負い、日下は長崎にやってきたのです。
日下は三ヶ月で計画をたてて、早くも五月から下水溝の整備に着工します。担当責任者は工部大学(後の東京大学)の助教授だった吉村長策。日下が東京から呼び寄せました。まず整備するのは、以下に明記した六線ある大溝です。
一号線「今博多町」~「築町」
二号線「麹屋町」~「東濱町」
三号線「萬屋町」~「銅座町」
四号線「船大工町」~「丸山町」
五号線「本博多町」~「浦五島町」
六号線「八坂町」~「今鍛冶屋町」
業者に見積りをとり、工事費は千円に決まりました。しかし日下が「待った」をかけます。「この工事内容では地面に汚水が染み込んで飲料水が汚染される危険性がある」と指摘、新たに石板三面張りで、すき間を漆喰で埋める方法が提案されました。吉村によると、それまでの溝は「左右が石垣、底はむき出しの土」になっており、水の通りが悪く「臭気を発して」いたそうです。そこで左右石垣のすき間を天河漆喰で埋めて、底には石板を敷きつめて塞ぎました。新工事費は五万四千円に跳ね上がります。実に五十四倍。翌年は「中小の溝」を同じ方法で整備、工事代金は2万円強。これら下水道整備と同時進行で、区内の河川敷や溝渠の上に建てられていたバラックを取り壊す「クリーン作戦」も実施。買収・移転・取壊しなどに一万二千円。すべての費用を合計すると八万円強。当時の長崎区(後の長崎市)の年間予算が四万円ですから、その金額の大きさがわかります。しかし、せっかく溝の整備が出来ても、各家庭から溝に行くまでに汚水が漏れては意味がありません。日下は明治十九年九月「下水溝は石・瓦でつくり、すき間は漆喰でふさぐこと」「大中小の下水溝のいずれかに連結させること」「便所と井戸の間を三・六メートル以上あけること」などの新規則を発表しました。
明治十九年七月十九日付けで「県令」から「知事」に呼び名が改められましたので、以後は日下知事とします。
明治十九年の八月、長崎区長(後の市長)が金井俊行に変わります。日下は金井と会談して、県と区で協力して「水道建設促進」することを確認しました。この時、日下三十六歳、金井三十七歳の同世代。この時期までは区長も官選ですから、あるいは金井も同じミッションを命じられての区長就任だったのかもしれません。
日下は、ホーム・リンガー商会のフレデリック・リンガーの協力を得て、上海における近代水道の設計を担当していたイギリス人技師J.W.ハートを長崎に招待して調査を依頼しました。
ハートは、明治十九年の夏に来崎し現地を調査、ダムを一之瀬川上流にある本河内に造るべきだという結論をだしました。すでに横浜に造られていた西洋式の近代水道は、河から水を引く方式でしたので、ダム方式としては長崎が日本初となります。
方式はともかく、問題はその建設費用です。吉村が見積もった金額はなんと三十万円。長崎区の年間予算の実に七・五倍の金額ですから、区費だけで賄うことは到底不可能です。そこで日下が考えたのが、民間の水道会社をつくることでした。さっそく金井区長が区内の資産家、実業家に呼びかけます。長崎商工会会員でもあった瓜生が、商工会の総会で「水道会社設立案」を提出、田中五三郎ら七人の審査員で審査し議決されます。臨時総会でも満場一致で承認。こうして、商工会から知事に「長崎水道会社設立出願書」が提出されました。請願書を受け取った日下は、金井、瓜生、実業家の松田源五郎、西道仙らで話し合い、明治二十年三月までに「水道会社設立案」が完成します。その内容は簡単に説明すると以下の通りです。
「資本金三十万円。その資金は政府から借り受け、返済は水料を徴収する。返済後は、水道は区民共有のものとする。工事は県が委託を受けて行う。完成後の水道施設は区民の共有とする」
日下はこの案を持って上京、内務省と交渉しますが、なかなか理解が得られません。「寸刻を争う急務であると思えないし、市町村制の執行が目前なのだから、長崎市が誕生してから計画すべきだろう」というのが内務省の言い分です。さて、ここからが日下の本領発揮。三ヶ月間、毎日のように交渉を繰り返し、内務大臣にも面会しました。井上に留学をせがんだ時のことを思い出します。最終的に、国庫補助金としてなんとか五万円を獲得。目標額の六分の一ですが、それでも大した金額です。二月に長崎に戻って来た日下は、居留地の人々から英雄として迎えられ、感謝状まで送られました。感謝状にはリンガーら居留地外国人六十三人のサインと共に、次のような感謝文が書かれていました。
「我々から見て、貴殿の責任感をもったこの一年間の行動は非凡なものであり、さまざまな困難が取り除かれたことは、貴殿の機転と根気強いご尽力があってのことだと感じております。その関係で、我々が特に感心しておりますのは、貴殿が去年夏に起きたコレラの大流行の際に取られた評価すべき対策、そして公衆衛生の包括的なシステムに対する貴殿の絶え間ない努力と配慮であります」(「来翰」明治十九年)
日下が長崎に戻ったのは明治二十一年一月。まだ足りない二十五万円は民間から社債として募集するアイデアを考えました。「年利六分の利子で社債を発行、年々元金に対し一万六千円ずつを償却し、設立の年より五十二年をもって返却。もしその年の収入金に不足を生じ、利息の支払いに差し支えた場合には、区費をもって不足額を賄う」というものです。金井区長はこの議案を区会に諮りましたが、「とうてい区民が費用負担に耐えられるとは思えない」という意見が続出し、一月三十日の臨時区会において、水道議案は否決されます。反対運動が巻き起こり、伊勢神宮広場で集会が開かれ数百人が集合します。これを聞きつけた金井はすぐに駆けつけ、区民の負担について丁寧に説明しましたが、誰も聞き入れてくれません。それどころか「水道管を敷設すると火災の原因になる」という者まで現れました。これは将軍吉宗の政治顧問だった室鳩巣の説で、「元来〝風〟は大地の〝息〟であり地上から生まれる。地下に水道管を埋め込むことによって地脈が切断され、風を拘束する力がなくなり且つ潤いがなくなる。そうして乾燥した風は軽くなり、狂人のように吹き荒れて火をさそい大火になる」という、今からすれば笑ってしまうような話です。
金井区長は、前議案の「利息の支払いに差し支えた場合には、区費をもって不足額を賄う」を削除し、四月の臨時区会に再提出しますが、これもあえなく否決に。反対運動はエスカレートして、賛成派区議の自宅に押しかけ説得し、それが受け入れられないと見ると、徹底的な嫌がらせをしました。賛成派の集会があると聞けば道で待ち伏せして、町印の入った提灯で威嚇。あるいは知事官邸に押寄せて「知事、区長を殺せ」という暴言をはく者もあらわれます。知事官邸と区長宅には警戒網がひかれました。長崎区には八十八ヶの町がありましたが、反対派の五十四ヶ町が「同盟町」を、賛成派の三十四ヶ町が「連合町」を結成。町単位で対立していきます。こうなると困るのは「長崎くんち」。宮日に争いがおこりケガ人も出ました。
賛成派だった区議から反対派に転向する者が出て来ます。家永芳彦、毛利康之、森敬之、田中五三郎らです。転向の理由は「選挙」といわれています。数ヶ月後に市制執行にあわせた市会議員選挙をひかえていたので、多数派である反対派についた方が票を稼げると判断したのかもしれません。反対派はますます勢いづいて運動は激化。この頃の反対派の言い分は「区民は倉田水があるので、さほど飲料水に不便を感じていないし、明治十八年のコレラ流行は上水道の有無が理由ではなく、まったくの偶然だったのではないか。事実、流行がなかった年が幾年も続いている。飲料水のような公共的なものを私立の会社に運営させるのはいかがなものか。徴収方法に不正があってもこれを直接是正できない。五十二年もの長期の借金は、子孫の代にどのような弊害が生じるかわからない」というものでした。これはこれでもっともな意見です。
窮地に追い込まれた日下でしたが、六万円もの「積立金」が、使う宛もなく県庁に保管されているところに目を付けました。この積み立ては「五厘金」といって、文久元年(1861)に成立した制度で、貿易額の千分の五(つまり五厘)を積み立てて、港や道路の補修など公共事業に使用するというものです。五厘金を使うということになると「公共事業」に限定されますから、民間会社の事業には使えません。そこで、これまでの水道会社案を思い切って白紙にし、「区立水道施設議案」を上程しました。「私立」ではなく「区立」。長崎区の事業として水道を布設することにしたのです。これで政府からの「補助金」と「五厘金」あわせて十一万円を確保。残りの十九万円を年六部の利子で一般公募するという新案で明治二十二年一月の臨時区会に挑みました。相変わらず反対意見は激しかったものの、ついには可決されるに至ったのです。
明治二十二年四月一日、「長崎区」は「長崎市」になりました。全国三十一市で「市制」が施行されたのです。これに伴い同月の二十一日に市議会選挙がおこなわれました。その結果、反対派が圧勝。議長は賛成派の西道仙と家永芳彦の一騎打ちでしたが、家永に軍配が上がります。続いて五月十八日に市長選挙が行われ、賛成派の金井と反対派が押す北原雅長が争い、北原が当選します。これで市議会議長、市長とも重要ポストはすべて反対派になりました。反対派は「水道建設取消しの請願書」を持って上京、内務大臣に陳情します。この請願書が功を奏したのかどうかわかりませんが、七月に内務大臣から「工事中止命令」という訓令が発せられました。驚いた日下は、内務省に工事中止によって生じる損害補償を求めました。これに対し、「中止できないところは工事を継続してよい」という返答があり、数日後には訓令自体が取り消されました。
「訓令取消し」は、反対派の人たちにとってはぬか喜びに終わりましたが、選挙の結果、市役所、市議会ともに反対派が優勢なことには変わりません。旧長崎区が行っている「水道建設」事業を、長崎市が引き継ぐかどうかを市議会で審議をおこないます。さあ、すべてをひっくり返すチャンス。大いに論議した結果、判断を「調査委員会の判断に委ねる」ということになります。調査委員会のメンバーは毛利康之、森敬之ら5人。三ヶ月に及ぶ調査の末にでた結論は意外なものでした。「水道施設を引き継ぐ」というのです。すでに四月から工事に着手しており、用地買収や材料注文など十五万円が使われていることと、工事中止となると政府補助金の五万円、五厘金の六万円を返還しなくてはならず、中止は現実的でないと判断されたのです。調査委員会のメンバーの毛利康之も森敬之も、議長の家永芳彦も元々は賛成派だった人たち。選挙があって反対派に転向したけれど本心では賛成で、みんなが「そういう事なら仕方ない」と納得するする理由を模索していたのかもしれません。
明治二十二年四月一日に市制が施行され、「長崎市」が誕生しますが、選挙が終わって市長が決まったのは五月中旬です。この空白期間に金井はある新聞広告をだしました。「長崎水道費金公借募集」です。水道施設三十万円の内、十九万円を公債で一般から集めるためのものです。これが、地方公共団体が公債を募集した第一号。しかし、これが思わぬ結果を生みました。同年十二月二十六日の日下知事免職です。何故そんなことになるのでしょう。公債を許可した内務省と、許可していないとする大蔵省との間で「内紛」が発生したのです。その責任を日下がとることになりました。日下は翌年の一月六日に長崎を去るのですがその際、水道工事の足しにと五百円を寄付します。水道敷設の完成を見ることは出来ませんでしたが「完成の道筋をつくることは出来た」という充実感はあったのではないでしょうか。一月四日、交親館で送別会が開かれます。日下は集まった人たちに、次のような激励の言葉を述べました。「地方自治体が実力をつけるためには順序がある。まずは一人一人が身を修めて一家を構える。そののち一町一村の自治を整えることで一市が出来、それが一県に、そして遂に強固な一国をつくることができるのだ」。実現に向けて一つ一つ着実に実行していく日下らしい言葉です。
〝水道の水を亭主が進めど 風味の臭かと 家内逃げ出す〟
日下の功績は「水道」だけではありません、「桜」もそうです。長崎には桜が少ないゆえに「花見文化」が根付いていないと感じた日下は、中川から日見峠まえの沿道に吉野桜数千本を移植しました。以降花見は盛んになり、桜を自ら植える人も増えたそうです。カルルス温泉(ドイツとチェコ国境にあるカルルスバードに風景が似ていることから名づけられた)と合わせて「中川カルルスの桜」として市民や外国人が訪れる観光名所地になりました。
もう一つ忘れてはならないのが「稲佐製氷所」の設立です。日下がこの施設を造ったきっかけは可明子の死でした。可明子は知事の妻として、よく尽くしよく働きました。外国人の往来が多い長崎ですから、舞踏会や仮装パーティーのような洋式の催しが多く開かれます。井上馨宅で西洋のマナーを学んだ可明子ですから、万事抜かりない世話をして外国人の評判がよく、夫の評価も上がり「日下は未来の大臣になるだろう」と言う人もあったほど。明治十九年十二月「清国水兵事件」で、日下が日々折衝に明け暮れていた時期、交親館(現在の県立図書館)の夜会で、夫に変わって主人役を務めたときのことです。疲労が重なっていたのでしょうか、夜会の途中で倒れてしまいました。激しく熱が出たので、冷ますための氷を島原から飛脚で取り寄せましたが間にあわず、ついに帰らぬ人になってしまったのです。日下は後に「もちろん氷で冷やしたとて助からなかったであろうが、西洋のように製氷のできない我国の文明の低級さを、この一事によって切に遺憾に思った。それゆえに自分は長崎に製氷事業を発案したのだ」と述べています。
長崎を去ったあと、東京で国家経済会に勤務している時に、故郷会津の陳情団が遅れていた岩越鉄道(現在の磐越西線)の施設を政府に嘆願するために上京。日下は〝ようするに力だ。力の強い奴が勝って、弱い奴が負けるのだ〟と激励の言葉をかけました。長崎知事をやり遂げた直後の日下の言葉です。「水道敷設」の時、どれだけ反対派が過激な行動に出ても、決して警察力を行使することはありませんでした。粘り強く時間をかけて説得し、実績を一つ一つ積み上げて、最終的には成就させる。これが日下の方法論。日下のいう「力」とは「忍耐力」のことなのかもしれません。同郷の林権介は、こういう日下の人間性を追悼文に次のように記しました。
「日下は他人に対して無駄事を言わない人でしたが、本心は非常に親切でした。(中略)日下氏の性格の後天的由来は会津の士風と英国紳士風との教養に基づいている(中略)会津日新館の教育の根本精神は(中略)権利を主張する観念よりも、義務に忍従する観念の方が強かったものです。英国の気風は(中略)焦らない。何となく鷹揚だ。(中略)勝敗の別れる際どいところまで押しつめて行って、うんと耐えて結局勝つ。(中略)やると言ったら必ずやるという気風は両者共通しております。そして尊大にかまえてはいるが、世間の義理も人情もよく承知しているのは英国の大貴族の風であって、日下義雄は実にその型の人でした」『日下義雄伝』
1、本河内高部ダム
明治二十四年の三月末に本河内高部ダムは完成しました。近代水道施設としては横浜、函館に続く三番目。ダム式では日本初です。本河内の谷間にできたこの近代的な人口湖や配水池に、人々は驚きました。この景観を一目見ようと、県内外から見物客が訪れたといいます。宮日と重なった時などは、あまりの混雑に入場整理券まで発行されました。
2、ししとき川
日下が着任して最初の仕事が下水道の整備でした。大溝六線の「第二線」ししとき川では「石板三面の溝」を間近に観察することができます。
3、五厘の碑
「私立」から「区立」への大転換の原動力となったのは五厘金の残金6万六百四十円でした。水道敷設の成就の影の立役者です。工事が完成した翌年の明治二十五年、諏訪神社の敷地に本河内浄水場を向けて「五厘の碑」が建てられました。二度場所を移動し、現在は諏訪荘前にあります。裏側の碑文は北原雅長市長によるものです。
4、中川カルルスの桜
大水害後の防災対策もあって、当時の景色からはだいぶ変わってしまいましたが、カルルス跡地にある「料亭橋本」の庭桜や、川沿いに植えられた桜並木に明治期の「中川カルルス」を偲ぶことができます。
5、皓台寺
日下義雄の妻、可明子が二十八歳の若さで亡くなったのは、明治十九年十二月。日下が長崎県令に着任してわずか九ヶ月後のことでした。皓台寺にある可明子の墓がありますが、ここに埋葬られているのは「遺髪」です。「遺骨」は、八月に起こった「清国水兵暴動事件」の後処理が終わったあと、日下が自ら携えて帰京し谷中天王寺の墓地に埋葬しました。
5、長崎県庁
日下義雄が県令(知事)として、明治十九年~二十二年まで勤務。因みに日下の前の県令は土佐出身の石田英吉でした。石田は海援隊員で、幕末は龍馬と共に長崎の亀山社中で活動していた人物です。日下の本名は「石田五助」で、どちらも「石」がつくことから「前後の両県令共に石のごとく堅実である」と評された記事が新聞に載りました。