平成二十七年、長崎県美術館は長崎の芸術家、山下南風(なんぷう)の作品二十五点を新たにコレクションに加えました。大浦天主堂やオランダ坂、南山手の洋館に出島、そして昭和初期の大波止や浜の町の街並。長崎の風景が華麗に〝切り刻まれて〟います。えっ、切り刻まれる?「描かれる」の間違いでは? いえいえ本当に切り刻まれているのです。
山下南風さんは版画家です。版画というと、一般的には棟方志功に代表される「木版画」をイメージされる方が多いではないでしょうか。平らな木版の表面を彫刻刀などで彫って凸版を作り、そこにインクを乗せて紙に摺(す)って写し取ります。丸みのある柔らかい風合いが魅力です。ところが南風さんの版画は直線的で、線も色も輪郭が〝パキッ〟としています。一見すると版画というよりは「切り絵」に見えますね。そうなんです。南風さんの版画は、まさに「切り絵の手法」で作られているのです。木版画の場合は「木板」を版にしますが、南風さんは「和紙」を版にします。和紙に柿渋を塗って乾燥させると硬く丈夫になり、しかも水をはじきます。そこに下絵を描き、線の外側を小刀で切り抜いて型紙をつくるのです。紙の上に版を重ね、脇に置いたインクをヘラで一定方向に動かしてインクを流し込みます。南風さんはこの手法を「合羽(かっぱ)版画」と呼びました。「柿渋紙」が「合羽紙」とも呼ばれることから、合羽紙で摺る版画なので合羽版画というわけです。さて、南風さんが版画の主流であった「木版」でなく「合羽版」の手法を使ったのはなぜでしょうか。その答えは南風さんの少年時代にありました。
南風さんの本名は「直市」、山下直市(なおいち)です。大正六年、長崎市西小島に生まれました。佐古小学校に通っていましたので自然、丸山周辺が遊び場になります。丸山といえば料亭が建ち並ぶ花街。料亭花月の庭に入り込んだら、庭番に見つかり追いかけられた事もあったとか。そんな環境ですから、芸子衆をよく見かけました。直市少年は目を奪われます。といっても〝芸子衆に〟目を奪われたという事ではなく、芸子衆(げいこし)が身につけていた着物の艶やかな〝染め〟に魅了されたのです。それまでは指物師(さしものし)(家具をつくる職人)になるつもりでしたが、それを境に悉皆屋(しっかいや)(着物を染める職人)を目指すことになります。本来ならば「メンコやビー玉」を集める年頃だろうに「染め物の端切れ」収集に熱中する直市少年を、母親は大変心配したそうです。十六歳になった直市は、踊りの師匠さんからの勧めで、京都の悉皆屋「筑摩屋」に就職することになりました。悉皆屋とは、芸子衆から預かってきた着物を洗い張り(着物を解いて洗濯し、板に張って乾かすこと)や染め直しなどをする職業です。直市さんは、呉服の工程を分業している幾つもの工房に出入りするなかで職人の仕事を手伝うようになり、自然と技術を習得していきました。仕事が終わると青木染技塾に通い、日本画家の青木静山から日本画による染色技術を学びます。腕を上げた直市さん、元禄乙女が蓮の花を手にした図柄で友禅染の訪問着を染め上げ、昭和九年三月に長崎で行われた「国際観光産業博覧会」に出品しました。この博覧会は、長崎市始まって以来の大規模な催しで県内外から大変な人出だったといいます。
朝から晩まで染めに没頭する直市さんでしたが、二十一歳になった昭和十三年に大きな転機が訪れます。兵隊への召集です。直市さんは大村の部隊に入り上海に渡ることになりました。二年後に召集解除になったのですが、また翌年の昭和十六年に再召集、大村の部隊に配属されることに。後に召集解除となりましたが昭和十九年、三度目の召集がかかりタイに渡りました。昭和二十年一月ワンチンでの戦闘中、迫撃砲の破片が体中に突き刺さり、野戦病院に運び込まれます。敗戦後の昭和二十一年五月、直市さんはサンジャックから広島県の大竹に帰還しました。「暖かく吹く〝南からの風に送られて〟祖国日本に戻ってきた」と本人は回想しています。ビルマ(現ミャンマー)の山野で死に別れた戦友たちへの手向けとして、幼い頃からの目標だった「染色」に打込もうと誓います。そしてその思いを「南風」という雅号に込めました。山下南風の誕生です。
迫撃砲の傷と戦地で患ったマラリア療養のため、嬉野の陸軍病院へ送られる途中、南風さんは脱走します。原爆で壊滅した長崎の家族が心配でならなかったのです。片淵の家は無事でした。約二年ぶりに実家の戸をたたくと、家族は南風さんを見て絶句、まるで幽霊を見るような顔をしたといいます。無理もありません、二ヶ月前「直市戦死」の内報を受け取っていたのですから。南風さんは原爆で焼け野原になった長崎を見てまわり、その悲惨な現状に呆然としました。そして原爆の犠牲になった人々の供養の為、この地にとどまろうと決心します。本来、染色という仕事は分業が基本。京都には「下絵師」「糊置き師」「引染師」「幅のし屋」など、それぞれの専門の職人がそろっていますが、長崎にはいません。したがって「長崎で染めをやる」ということは「すべての工程を一人でやる」ということになります。染料といった基本的な材料がそろわないことも含めて、覚悟が必要な決断だったのです。
それから約一年、嬉野陸軍病院と自宅で休養した後、昭和二十二年に鍛冶屋町に家を建て、ここをアトリエにして創作活動を開始します。同時に新大工町に作品展示場も開きました。しかし、製作と展示場の両立は難しく、この試みは一年で頓挫します。昭和二十六年、満を持して生涯の製作の拠点となる西山の矢場下橋のほとりにアトリエを構えました。ここで最初に染めた「出島おらんだ屋敷屏風」の出来を見て、南風さんは「長崎の水と染めの親和性に確信を持った」といいます。南風さんの染色技術は知れ渡り、二十九年から十年に渡って、長崎県立女子短期大学で染色の講師を務めます。その後、鶴鳴女子短期大学(現在の女子短期大学)でも数年間教えました。三十六年の昭和天皇長崎行幸の折りには、長崎県から献上する行幸アルバムの皮染表紙を担当しました。三十九年、オランダから国賓として来日、長崎入りしたベアトリックス王女に「洋風二曲屏風」を献上、長崎県を代表する染織家として名をはせるのです。
長崎に戻って以来、ずっと親しくしている染め仲間がいました。高平町にある明治創業の老舗「近藤染工場」の職人だった近藤春夫さん(1928-1985)です。二人はしょっちゅうアトリエにこもっては染めの研究・実験を繰り返しました。南風さんは春夫さんから「ろうけつ染め」の技術を学び、そのお返しに「龍踊り」や「グラバー邸」のデザインを春夫さんに提供しました。春夫さんは「ながさき染めのクッション・カバー」「コースター」として商品化し、戦後の新しい長崎土産として、長年にわたり販売されることになります。昭和三十年、南風さん個人でも長崎土産「阿茶さんの状差し」を開発します。「阿茶さん」とは、長崎で使われる中国人の愛称。中国古典劇をモチーフにして男女二種類を製作、面の部分は素焼きした陶器で、隈取り化粧が施されています。三十九年の東京オリンピックの際、代々木の選手村に設置された長崎県土産コーナーに、伝統工芸の「古賀人形」などと一緒に並べられ、すべて完売しました。
春夫さんの他にももう一人、南風さんの恩人となる人物がいました。郷土史家の林源吉さん(1883-1963)です。源吉さんは長崎市資料博物館の学芸員として陳列品の収集・鑑別・陳列を担当しました。長崎史談会の創立メンバーでもあり、機関誌に毎号投稿、長崎美術協会の創立にも関わり長崎県文化財専門委員もつとめた人物。南風さんは源吉さんの指導で「長崎染」「長崎紺屋(唐人紺屋)」を試みました。その成果は、昭和四十二年三月、長崎市立博物館での「更紗とろうけつ染め展」という形で結実します。この展示会は、博物館の収蔵品に合わせて、南風さん自ら染め上げた「ろうけつ染め」と、長崎に戻って以来二十年間収集してきたという世界各国の「古更紗」で構成されています。その後、祐徳博物館(鹿島市祐徳稲荷神社外苑)で巡回展も行われました。
昭和四十四年、総工費三百万円をかけて、自宅の二階に「南風工芸ギャラリー」をつくります。市内に絵画用のギャラリーはあったが「工芸専用」のギャラリーが無かった、というのが理由でした。取材された新聞(二月二十日の毎日新聞)では「工芸を志す作家たちに無料で開放したい」と語っています。この頃から南風さんの創作方法に変化が現れました。「型染」です。「ろうけつ染め」は絵画に似ています。筆を使って溶かしたロウで下絵を描き、それを染料に浸けて染色。最後にロウを洗い流せば絵が浮き出てくるもの。この筆を使って行う染色が「油絵作家の後を追っているよう」で嫌だというのです。型紙をつくる工程は先述しました。型紙は筆に比べると非常に「不自由」です。例えば人の顔を描く場合、筆でしたら顔の輪郭の中に自由に目や鼻や口を描けますが、型紙の場合は顔の輪郭線に目・鼻・口すべて「つながって」いないとダメです。このつながりのことを「つなぎ」または「骨」といいますが、このつなぎを常に考えながら絵を描かなくてはならないのですから、不自由この上ありません。しかし南風さんはあえてこの「不自由さを追求する」ことで逆に創作意欲を燃やしたのです。新しいスタイルで作られた作品は昭和四十五年四月、浜屋デパート三階で行われた「南蛮美術の染色展」で披露されます。この模様を取材した新聞記者は「綿密なつなぎの手法と型絵独自の白地を生かした美しさには日本画の余白の美に通じるものがあり、新鮮かつ自由な風を画面に送り込むとともに山下氏の仕事の新しい発展を予感させる(長崎新聞1970.4.28)」と評価しました。
四十六年、長崎に渡来した西洋文化の源流を確かめるために渡欧します。オランダ・イタリア・スペイン・ポルトガル・フランスの美術品を約半年がかりで観て回り、長崎文化の持つ独自性を再発見しました。南風さんは次のように語っています。
『この旅ではっきりしたのは、長崎に伝わった「南蛮文化」は、決して「ヨーロッパそのもの」ではなく「(日本人が)一度咀嚼(そしゃく)してその栄養剤だけが残ったもの」であった、ということ。木造洋館一つにしても日本人が描いた南蛮屏風にしても、似たようでも異質なものと思います。その世界に一つしかないことを確信して帰ってきたのが大きな収穫ですね』(阿野露団/長崎の肖像から抜粋)」
パリに立ち寄った際、フランス人に自分の作品を見せて驚かれます。彼らが驚嘆したのは南風さんの「手法」。フランス人が想像していたのは、六十年代にアンディ・ウォーホルによって流行した写真製版によるシルクスクリーン印刷だったと思われます。南風さんの「柿渋紙で型紙を作って手染めする」という手法が理解してもらえず、最後にはその場で型紙を切って実演までしました。ようやく納得したフランス人は、その型紙と作品を売ってくれと懇願したそうです。このことで南風さんは、「型紙」という日本の伝統技術に自信を深め、さらに技を追求することになります。帰国した南風さんは「型紙」そのものが作品である「切り絵」の製作に挑みました。自分の切り絵の特徴について昭和五十四年のインタビューで次のように話しています。
『型染に使用される型紙が、切り絵の原型です。その染型には小紋に代表される江戸型、友禅染の京型、沖縄のびん型と、それぞれの特性によって分類がされていますが、長崎には、以上のどれにも属さない、唐人紺屋の染型があり、これは中国の剪紙(せんし…中国伝統の切り絵細工)の特徴を生かした独自のもので、長崎古版画の合羽板にも影響をあたえております。南蛮文化の数々をとらえ、私なりの主観をくわえたものや、長崎の風物を彫るとき、これらの伝統手法を生かすように努力しております』(日本きりえ協会会報 第五号より抜粋)
昭和五十三年の六月、滝平二郎・安野光雅らの呼びかけで「日本きりえ協会」が東京で結成され、南風さんも会員として参加します。八月に上野東京都美術館で行われた「第一回 切り絵美術展」、翌五十四年に同所で行われた「第二回 切り絵美術展」に作品を出展しました。
『まかり通る薄っぺらな商業主義~失われゆく〝長崎の心〟』
これは昭和五十年一月十日の西日本新聞に掲載された南風さんの記事の見出しです。この取材で南風さんは作家としてのマニフェストを打ち出しました。戦後、急激なスピードで都市化する長崎。大正六年生まれの南風さんの脳裏に残る昭和初期の「長崎らしさ」が次々に消えていくことに大きな危機感を覚えたのです。南風さんは「過去をいたずらに回顧して〝昔はよかった〟なんて言うつもりではないんです。私自身にだって、長崎らしさなんてわかりはしない」としながらも「あまりにも貴重なものを消失させてきた。これから都市計画を進める人たちに何を失ってはならないかを考えて欲しいのです」と訴え、失われてしまった昭和十年前後の長崎の風景を、記憶だけでなく、古写真や取材まで行い次々に切り絵(切り絵染)で作品化、「これらの風景は、本当に無くなっても良かったのだろうか?」と問題提起したのです。昭和五十年二月に鍛冶屋町の光風堂画廊でおこなった「山下南風 切り絵展」では「花街丸山界隈」「夏の大波止桟橋」「秋の浜町本通」「モダンガールがさっそうと歩く思案橋」「市営交通船」「電気館」「大浦の長崎ホテル」といった長崎の風景を描き、「昭和初期の長崎シリーズ」は生涯のライフワークになりました。
昭和五十一年十月、浜町タケシタ画廊で行われた「山下南風 切り絵色紙展〝長崎の祭〟」では「精霊流し」「くんち」など、「祭り」というくくりで連作しました。これらの作品では、新たな手法がとられます。これまで一つの型紙を使い黒で摺ったものに、筆を使って色を着けていくという版画と絵画が混ざったものでした。しかし今回は、色の分だけ版をつくる純粋な「版画」の手法をとったのです。一つの作品に五~八枚の版を重ねて摺り上げます。なぜ、このような面倒なことをしたのでしょうか。それは「つなぎ」から自由になるため。一枚の型紙でつくると、構造上どうしてもつなぎが多くなり、線が増えて絵が複雑になります。版を増やすことで線を減らし、シンプルで柔らかい絵にすることが出来るのです。
五十三年、タケシタ画廊でこんどは「長崎の女」を題材に「出島の女」「ジャガタラお春」「お蝶夫人」の作品群を展示しました。この時も新たな試みとして、「ビードロ絵(ガラス絵)」に挑戦しています。常に変化していく南風さんの創作姿勢には驚かされます。昭和五十六年『染色α』という月刊誌で美術ジャーナリストの藤慶之氏の取材を受け、製作方法を説明しているのですが、またまた方法が変わっていました。型紙に絵を彫るところまでは一緒ですが、その後、感光乳剤の塗られたシルクスクリーンの上に置き光をあてて写真製版をつくり、それを版にするというものです。この製作方法の変化について本人は以下のように説明しています。
『長いこと切り絵染をやってきたが、せいぜい形の面白さに変化を加えるぐらい。いささか嫌気がさしてきたので、合羽版へ挑戦しているところです。浮気者と言われるかもしれないが、常に変化していきたい』(月刊染色α1981年十一月号))
南風さんは、自分のスタイルを作っては壊し、また作っては壊す。ミュージシャンで言えばマイルス・デイヴィスのような、常に変化し続けるタイプのクリエイターなのです。
南風さんの創作物は「染絵」「切り絵」「版画」だけではありませんでした。まだ全貌は把握できていませんが、手元にある南風さんの個展を掲載した新聞の記事(年代は不明)によると、型染絵の他に「屏風」「壁掛け」「着物」「羽織」「帯」「ネクタイ」が展示されているとされています。八十二年の「山下南風版画展」の案内カードにも版画の他に「木彫」「陶器」「南蛮人形」が展示されていると明記されています。指輪やネックレスのような「アクセサリー」も作っていたという証言もありました。東京オリンピックの選手村で販売された「阿茶さんの状差し」がまさにそうです。これが現在のお洒落な雑貨店に並んでいてもまったく遜色ありません。平成二十六年、アミュプラザに若者に人気のセレクトショップ「アーバンリサーチ」が初出店しました。その際「ジャパンメイド・ナガサキ」と銘打ってアーバンリサーチのバイヤーが長崎の既にある良い商品をセレクトし、全国の店舗で展開したのですが、南風さんが描いた「南蛮人柄のトートバッグ」がバイヤーの目に止まり、東京や大阪の店舗のジャパンメイドコーナーに並びました。また、平成二十七年八月の「長崎デザインアワード」でも別の南蛮人柄のトートバッグが長崎賞を受賞。さらに十一月には、東京ビッグサイトで開催された国際見本市「IFFT interior lifestyle living」において、2020年の東京オリンピックを見据え「THE HOTEL?旅館とおもてなしJAPAN」と題した新しい旅館スタイルが提示されたのですが、その中で「南風さんの複数の作品をアレンジした屏風」が飾られ内外の観衆を魅了しました。南風デザインは、三十年先を行くアイデアとクオリティーを持っていたことが証明されたのです。
手元にある資料では五十七年、浜せんで行った「山下南風版画展」が最後の個展です。亡くなる五年前、平成二年の西日本新聞のインタビューの中で「個展をやっても手応えがなさそうで…」と語っており、個展への熱意が冷めていたことがうかがえます。しかし、作品は相変わらずのペースで制作されていました。最近の仕事として、シルクスクリーンを駆使した十メートル近い「南蛮人来航団」を紹介しています。しかし最も力を注いでいたのは合羽摺りで製作した小サイズの作品群でした。「芸子衆がいる丸山」「町角のお大師さまの祭り」「土竜打ちをする子」。「土竜打ち(もぐらうち)」とは江戸時代から伝わる子どもたちの遊びです。正月の玄関の「しめ飾り」を持ち出してきて、集団で町内の家を回ります。家々の玄関前や庭などを、持っているしめ飾りで、あたかもそこにモグラがいるかのように、歌いながら打ち付けます。そうすると家の大人が出て来て、餅や小銭などを子どもたちに与えるという、現在のハロウィーンに似た行事です。南風さんが子どもだった昭和初期頃までは普通に行われていましたが、だんだん禁止する小学校も出てきて、次第に廃れていきました。九十年代の子どもといえば、家やゲームセンターで「コンピューターゲーム」をして遊ぶのが一般的。そんな時代に南風さんはコツコツと柿渋紙に「土竜打ち」を彫り続けます。アトリエには既に三百近くもの型紙があり、一つの型紙から一?二枚摺っただけだといいます。個展をしないので、誰も観る事がないまま、大量の作品が眠っているのです。それなのに南風さんは次のように述べました。
「(作品の)背後に、いろんな人の思い出がある。そのよすがになればと長崎をテーマに彫り続けているんです」(西日本新聞 平成2年5月9日)
いったい「誰のよすが(よりどころ)」になるのでしょうか。普通に考えれば「同世代の誰か」ということになりますが、南風さんはもっとずっと先を見越していたように思えます。昭和初期の長崎を、見た事も聞いた事もない「未来の長崎の誰か」へ向けたメッセージだったのではないでしょうか。実際、長崎県美術館が南風さんの作品を収集した理由について、学芸員の野中明さんは「作品としての完成度も高く、魅力的である上に、要塞地帯法等の要因によりその数が限られる戦前の長崎を伝える貴重な資料でもあり、本県にとってかけがえのない財産になり得るものです」と話しました。作品の素晴らしさと合わせて、戦前の長崎を知る・学ぶ上での〝よりどころ〟としても重要な作品群である、という評価がなされたのです。時代時代で「長崎らしさ」は変わっていきます。南風さんが少年だった頃の「長崎らしさ」と私たちの時代の「長崎らしさ」はまた違うものでしょう。それぞれの時代の人間が、それぞれの方法で「長崎らしさ」を残していくことができれば、それが「誰かのよすが」になるのです。最後に、南風さんのそんな想いが込められた言葉を紹介して筆を置きたいと思います。
「過去形のロマンを追っているようなもの。それでも、俺がやらねば、誰が長崎を掘り起こすか、という気負いはあります。この年になると、もう先が短い。一つでも欠けたものを充たしておこう、という気で制作しています」 (月刊 染色α 十一月号 No.8)
1、料亭御宿 坂本屋
明治二十七年創業の本格和風旅館。画家の東郷青児や山下清、作家の永井龍夫や丹羽文雄ら多くの文化人に愛されました。長崎ゆかりの彫刻家北村西望や富永直樹、漫画家の清水崑も宿泊しています。「坂本屋」「東坡煮」のロゴや、包装紙、商品箱のフタ絵等のデザインを南風さんが手がけました。店内に南風さんの版画や染め作品が展示されています、お食事・ご宿泊の際にぜひ御覧下さい。
2、諏訪荘
長崎の豪商だった永見寛二氏が大正時代に建てた邸宅。昭和十一年からは旅館として営業、天皇皇后両陛下を始め多くの文人たちに愛されましたが、昭和五十九年に廃業して取り壊されることに。市民運動によって平成二年に諏訪神社の境内に移築保存されました。移築の際に南風さんは、諏訪荘創建者永見家を慕い「南蛮風俗染色絵画」を五点寄贈しています。(諏訪荘は一般公開していませんので、現在は絵を観ることはできません)
3、長崎県美術館
平成二十七年、南風さんの作品二十五点を新規収蔵しました。現在、作品群は修復作業中で、額装が終了次第早急の公開を予定しているとのことです。近々に美術館で南風作品を観る事ができそうです。最初の項で、美術館に収集された作品は「長崎があらゆる角度から〝切り刻まれて〟います」と書きました。それは今回の収集作品が「版画」ではなく、「切り絵」だったからです。恐らく、渡欧後の「切り絵時代」に制作された作品群だと思われます。
4、長崎純心大学博物館
イエズス会年報・マリア観音といったキリシタン関係の資料が収集・展示されている博物館です。南風さんの作品も複数収蔵されており、昨年は四月~六月に開催された「信徒発見と世界遺産展」で「大浦天主堂の十字架」が、純心女子学園創立八十周年を記念して長崎県美術館で昨年十二月に行われた展示会「純心ゆかりの作家・長崎ゆかりの作家」では「天主堂と修道女」が展示されました。
5、長崎市役所
平成二十五年、遺族より長崎港の夜景を描いた版画「春の灯」「夏の灯」「秋の灯」「冬の灯」「くれなずむ港」の五点が長崎市に寄贈されました。南風さんには珍しい「現代の長崎」で、テレビ塔が建つ稲佐山が描かれています。現在は副市長室に飾られています。