「かっぱっぱルンパッパ かっぱ黄桜かっぱっぱ♪」
ご存知の方も多いと思います、酒造メーカーのCMソング『かっぱの唄<黄桜>』の歌いだしの部分です。「黄桜」といえば「かっぱ」というほど、そのイメージが定着していますが、このブランド・キャラクターを生み出したのが長崎出身の漫画家の清水崑(こん)さん。今回は、戦前・戦中・戦後という激動の時代を、筆一本でしなやかに生き抜いた「清水崑の世界」をひも解いてみたいと思います。
さて、崑さんの代名詞である「かっぱ絵」ですが、最初から持ちネタだったわけではありません。昭和六年のデビューから数えて十八年目の昭和二十四年、火野葦平(あしへい)の小説『河童』の装丁を依頼されたのがきっかけでした。
かっぱをどう描けばよいのか分らなかった崑さんは、その道の大家である小川芋銭(うせん)の『河童百図』を買い求め研究、最初の「崑かっぱ」が描かれます。「最初の」と書いたのには理由があります。初期の崑かっぱは、まだ芋銭の影響が残る「水墨画調のかっぱ」でした。私たちが見慣れた「漫画調のかっぱ」になるのは、翌々年、『小学生朝日新聞』に「動物モノで連載を」と頼まれ、『かっぱ川太郎』を連載した時だと思われます。子ども向けの漫画として描いた結果、あの崑かっぱが誕生したのです。昭和二十七年『かっぱ川太郎』の単行本が発売されると不思議な現象が起こりました。小学生向けの漫画にもかかわらず、大人がこぞって買い求めたのです。そこに目をつけたのが週刊朝日名編集長の扇谷正造。こんどは「大人向け」のかっぱ漫画の連載を崑さんに依頼します。扇谷自ら名づけたタイトル『かっぱ天国』で昭和二十八年から六年間に渡って連載され、かっぱ人気は社会現象にまでなりました。『かっぱ川太郎』がNHKの連続テレビ漫画として放送され、『かっぱ天国』は宝塚でレビュー化、その他にも「かっぱ煎餅」「かっぱ饅頭」「キャバレー」「放送劇団」などの商品名や屋号にも使われました。皆さんご存知、カルビーの『かっぱえびせん』もこの流行の中で生まれた商品です。昭和三十年に崑かっぱをパッケージに使った『かっぱあられ』が発売され、以降シリーズ化されるのですが、シリーズ二十七番目で小エビを丸ごと使った『かっぱえびせん』を発売(昭和三十九年)、現在に至ります。えびせんのパッケージで「崑かっぱ」は使用されていませんが、商品名の「かっぱ」だけは受け継がれているのです。各雑誌に『かっぱ源氏』『かっぱ区八町』『かっぱ放題』『かっぱ風来』を連載。昭和二十五年から昭和四十年代まで、長期に渡ってかっぱブームが続きました。中でも印象深いのは黄桜酒造のテレビCMではないでしょうか。黄桜二代目社長の松本司朗氏が「親しみやすく、美味しいお酒<黄桜>にふさわしいキャラクターはいなものか」と模索していた時、週刊朝日で連載中の人気漫画「かっぱ天国」を見て打診したのだそうです。お酒のCMといえば「美人の女性」が定石でしたので、大胆な起用です。崑さんも「それはあり得ない」と驚いたのでしょう、最初はこの申し出を断りました。崑さんが使用を許可したのは実に三年後のことです。昭和三十年からは崑かっぱのアニメーションのテレビCMが開始されます。(そのうちの幾つかは黄桜のホームページで観ることができます)崑さんが亡くなった昭和四十七年以降は、漫画家の小島功さんが「かっぱ絵」を引き継ぎましたが、小島さんはその時のことを次のように回想しています。
崑さんが亡くなられた後、黄桜酒造のCMの依頼が度々あり、その都度「どんでもない。とても崑さんの後に描けるわけないでしょう」とお断りしていたとき、横山泰三さんの「せっかく崑さんが作った〝女かっぱ〟を漫画界で継がなきゃ、いかんだろ」の言葉に、その気になって引き受けましたが、いまだに良く描けません。思えば朝日新聞の政治漫画も、この大先輩の作った土俵の中でした」『愛蔵版・漫画集 かっぱ天国』より抜粋
さて「かっぱ絵」以前の崑さんは「政治漫画」の人でした。もっとも本人は政治に興味がなかったのですが、小林秀雄に「君なら出来る!」とごり押しされ『新夕刊』に連載したのが始まりです。昭和二十三年からは『朝日新聞』で連載するのですが、この時期首相だったのが吉田茂。崑さんが描くユニークな吉田のカリカチュアは大評判で、首相本人も大変気に入っていたそうです。
政治漫画家の性質上、政治家と直に会い、話を聞きながらスケッチする機会が多くありました。最初は新聞記事としての掲載でしたが、後に崑さんの著作に転載されていますので、現在も古書や図書館などで読む事ができます。その中から三人の総理大臣経験者とのエピソードをご紹介します。図らずもこの三人、私たちがよく知る現職の政治家(しかも一人は現総理大臣、二人は総理大臣経験者)の祖父たちでした。
(吉田)「ある時、鎌倉を歩いていたら、その辺の子どもが〝父さん、あれ吉田さんだよ〟〝バカ、総理大臣が今頃こんなところをマゴマゴしてるもんか〟〝でも漫画にそっくりだよ〟------だから君、不断に描いといて下さいよ」
(崑)この話だいぶお気に入りの取っておきとみえてボクには三度目。茶目なじいさんだ。
朝日新聞の夕刊に各党党首の訪問記をスケッチ入りで描くべく、鳩山一郎氏を音羽の御殿に訪ねて雑談を交わすうち、ひょんなはずみから話が漫画の事におよび、アメリカに大そう優れた政治漫画家がいて、自分の友人がその人の漫画集を送ってくれて現在手元にある。御覧になりますか、ということで、すぐその場で見せてもらった。
(崑)「このダヴィッド・ロウなら以前から知っております。政治漫画にかけては世界中この人の右に出る者はあるまいと定評されていますが、画集を見るのは今が初めてです」
(鳩山)「おや、そうですか。よかったらお持ちなさい」
(崑)「はい、ありがとう存じます。ですが私は人から本を借りて返したためしがありません」
(鳩山)「うわ、それは困る。返してもらわんと何だけれども、ゆっくりでいいですよ」
(崑)「ゆっくりでいいと仰いますと何日ぐらい?」
(鳩山)「そう、まあ、今度の選挙が終わってからで結構」
(岸)「もと役人をしていた関係上、国会の答弁でもソツがないソツがないとよく言われるんですけれども、やはり持ち味でね、ソツがあるようにやろうと思っても・・・・・。しかしまあなんですな、大衆が納得し、理解するのは理屈だけではいけませんな」
(崑)「僕はその『大衆』という言葉を、一段高いところからおっしゃるのはよくないと思います」
(岸)「ヒャー、やられた。全くそうだ。演説をやるにしても、マイクがあるのにガンガンどなる人がいるけれども、あれは考えねばいけませんね。演技をね」
(崑)「演技!」
だが、岸さんは演技は一向巧くない。何故ならソツがないから。私は、ふと、いつか書いた小林秀雄氏の政治家攻撃の言葉を伝えて、その答えを岸さんに求めてみようかなと思ったが、すぐやめとこ、と思い直した。何故なら、岸さんは愛嬌がよくて考え深い人だから。二分か三分たらずでソツなく返答なさるにちがいない。そんならきいてもしょうがない。
吉田茂首相に対して「茶目なじいさんだ」と言ったり、岸信介首相に対して「一段高いところからおっしゃるのはよくないと思います」とつっこんだり、どんな大物にも物怖じしない崑さんの対応に驚かされます。崑さんが政治に興味がなかったことは先述しました。師と仰いでいた漫画家の岡本一平(岡本太郎の父)に手紙で「自分の政治漫画は遊びであります」と書いたところ、岡本は返信で「東洋でいう遊びとは、単なる娯楽の意ではなく、すでに真理に契当した精神が不疑の間に行動するゆとりのさまを指す」と諭されたことがある、というエピソードを『筆をかついで』の中で紹介しています。
※ 著作からの抜粋文は、読み易いようにかぎかっこの前に(崑)(吉田)(鳩山)(岸)を置きました。
又旧漢字は新漢字に書き換えてあります。
崑さんが政治漫画を描くきっかけをつくったのは小林秀雄でした。言わずと知れた文芸評論家の大家です。崑さんが講演旅行で九州を巡回した際の講演者のメンツがまた豪華。井伏鱒二(小説家)・三好達治(詩人)・河上徹太郎(文芸・音楽評論家)・丹羽文雄(小説家)・井上友一郎という面々。崑さんに奥様を紹介したのは芥川賞作家の中山義秀で、結婚式でスピーチしたのは岡本一平ですし、横光利一(小説家)も式に参列していました。『かっぱ天国 第1集』の序文を担当しているのはノーベル賞作家の川端康成。いずれも教科書に出てくるような偉人ばかりです。崑さんは一体、どうしてこのような一流の人物たちと交わるようになるのでしょうか。順序が逆になりましたが、崑さんのここに至るまでの生い立ちを紹介したいと思います。
「ああたはケチじゃ」
「この親不孝もんが何ば言いよるか。うちはよそ様と違うて働くもんの居らんけんな。十六にもなって、その位のこともわからんじゃろか。情けなか」
これは中学生の崑さんと祖母との会話です。大正元年生まれの崑さん、小学生に上がる前に両親を亡くし、弟は叔父に、崑さんは祖父の家(銭座町)に引き取られました。その祖父も崑さんが商業学校2年生の時に亡くなったため、それからは祖母との二人暮らしに。そのため家は貧乏で、腹を空かせた崑さんはおやつを買うための小遣いが欲しくて、上記した言い合いになったわけです。幼い頃から絵が好きで、将来は東京の美術学校に進学したいと考えていましたが、当然そんな経済的余裕はありません。卒業後は市内の呉服店に就職、番頭として住み込みました。しかし、お客さんに釣り銭を少なく渡したことに気がついて、走って追いかけ残りを追加したと思ったら、こんどは余計にやりすぎるといった失敗ばかりで、ついには「君はもうこの店には不要だから辞めてくれたまえ」と解雇される始末。それを聞いた祖母は「近所にみっともない」と言ってベソをかき、仏壇の前に座って南無阿弥陀仏を唱え、先祖代々に対して孫のずぼらを報告して残念がったそうです。
そんな崑さんが一大決心しました。祖母が町の芝居小屋にいっている間に、畳の下に隠していた祖母の三十円のヘソクリを手に、浴衣のまま上京してしまったのです。崑さんの書き置きを読んだ祖母は卒倒したといいます。東京では、商業学校時代の友人と二人で三畳の部屋を間借りしました。頼りにしていた友人の仕送りも途絶えがちになり、いよいよ生活が困窮してくると崑さんは元手がなくてもできる街頭での「似顔絵描き」をはじめました。友人も同じく街頭で「西洋占い」をして生活費を稼ぎます。もともと美術学校へ行きたいがゆえの家出でしたが、食べるのに精一杯。雨が降ると商売ができないため、天気のことばかり気にする毎日だったそうです。そんな崑さんに一つの転機が訪れました。ある日友人が、兄が雑誌社の編集者だという級友を連れて来て、自分が兄に取り次ぐから挿絵の見本でも描いてみないかと言うのです。崑さんはさっそく挿絵の見本を描いて級友に渡しました。そして一月後、ついに雑誌社から正式な注文がきます。六センチ四方のカットを四、五枚徹夜で描きあげて渡したところ半月後、崑さんのデビュー作が掲載された雑誌(オール読物)が発売。宮本武蔵の小説で有名な吉川英治のエッセイの挿絵として使用されたのです。昭和六年のことでした。それからは毎月のように注文がくるようになり、雑誌の校正が始まると印刷所に詰めて、穴埋めのカットを描くほどになります。ここでもう一つの転機が訪れます。同じ挿絵画家の吉田貫三郎から「どうだ、自分たちの仲間に加わらんか」と誘われ「新漫画集団(後に〝漫画集団〟に改名)」のメンバーになったのです。『フクちゃん』で知られる横山隆一や、近藤日出造・杉浦幸雄ら二十数人の新進漫画家で結成された団体で、新聞社や雑誌社から受けた注文を、メンバーが手分けして描き上げるという漫画製作会社でした。アメリカナイズされた漫画集団の作家の絵は当時新鮮で、雑誌社から引く手あまたでした。昭和八年、崑さんは漫画集団のメンバーになり、他の漫画家たちの仕事ぶりを見ることで「漫画の書き方」を習得することになります。そして昭和十二年、雑誌『新青年』に描いた初めて書いた長編漫画『東京千一夜物語』が評判を呼び、翌年には内田吐夢(とむ)監督によって映画化されるまでの成功をおさめたのです。
順調に漫画家の道を歩んでいた崑さんでしたが、日中戦争が始まると「半分は兵隊で半分は一般人である軍嘱託」という特別な立場で、中国は広東の南支派遣軍報道部へ赴く事になりました。崑さんの任務は、宣撫員が配るためのポスターや壁新聞の製作だったのですが、司令部の意向で中国人を率いて危険な戦地に従軍することに。そのときの珍道中は『続・筆をかついで』の中の「中華随軍誌 丸腰と傭員」で読む事ができます。
無事に終戦を迎えた崑さんに「新夕刊に描いてみないか」と小林秀雄が声をかけたのがきっかけで、政治漫画の道にすすんだことは先述しました。しかし何故、小林は崑さんに白羽の矢を立てたのでしょうか。それは崑さんの絵のスタイルが政治漫画にマッチすると見込んだからだと思われます。崑さんの絵の大きな特徴の一つは「ペン」ではなく「筆」で描くことです。水墨画的な「強弱」と「かすれ」のある筆のタッチに、欧米画家のコミカルなエッセンスを取り入れて描かれた崑さんの漫画は和風と洋風が程よくミックスしています。近代的風刺画を、戦後の新しい新聞に描く人物として適役だと考えたのではないでしょうか。こういう崑さんの画風は、小林だけでなく当時の物書きに広く好まれ、林房雄・今東光(こんとうこう)・尾崎士郎・徳川夢声(むせい)といった人気作家が装丁や挿絵を依頼。崑さんが「かっぱ絵」を描くきっかけになった火野葦平の『河童』には、装丁の他に二十点もの扉絵と挿絵が描かれていますが、小説と絵とに一体感があり、作品の価値をさらに高めています。崑さんは「作家の女房役」のような存在だったのです。
崑さんの次女である定成淡紅子(さだなりときこ)さんにお話を聞くことができました。淡紅子さんは現在、東京でリトミックやパーカッションが楽しめる「定成音楽教室」の主宰をされています。
まず淡紅子さんのお話で驚いたのは「木久蔵さんに自転車で学校の送り迎えをしてもらっていました」という小学生時代のエピソードです。木久蔵さんというのは、笑点でお馴染みの林家木久蔵(現在は木久扇に改名)さんのことです。実は木久蔵さん、十九歳の時に漫画家になりたくて崑さんに弟子入りしていたのだそうです。木久蔵さんは清水家の書生部屋で、時代劇スターだった「嵐寛寿郎」や「月形龍之助」の物真似をしながら「新撰組」を題材にした漫画を描いていました。いつの間にか、後ろに崑さんが立っていて「うまいなァ、一人芸なら落語家という職業があるぞ! 絵が描けてしゃべれたらテレビの時代になれば売れるぞ! ちょっとやってみるか?」と問われます。木久蔵さんは「ちょっと」と言われたので「いいですね」と答えると、崑さんはさっそく桂三木助に手紙を書き、これがきっかけとなって木久蔵さんはそのまま落語家になりました。
淡紅子さんからもう一つ印象深いお話をお聞きしました。淡紅子さんのお母様、清水恒子さんの事です。家で仕事をしていた崑さんですが、常に側には恒子さんがいて、一心同体のパートナーだったといいます。林家木久扇さんも次のように回想しています。
「崑先生は酒豪であったから、良い作品が描けると明け方まで上機嫌で飲み続ける。奥様はお飲みにならないが、先生によくお付き合いなさって仕事の疲れをほぐしておられた」
恒子さんはもともと歌人で、歌集も出されていました。ちなみに、恒子さんの姉君は俳人の石橋秀野、文芸評論家山本健吉の奥様です。さらに山本健吉の父は、森鴎外との論争でも知られる文芸評論家の石橋忍月(にんげつ)で、長崎の県会議員として明治・大正期に活躍した人物でした。歌人の恒子さんは文章のプロですから、崑さんが随筆を書く際には色々とアドバイスをしていたようです。実際、崑さんの書くエッセイは評価が高く、有吉佐和子は「絵をかくひとの文章には、絵をかかないものには追随できないような、独特の香りがある」『加寿天羅甚左』と、川端康成も「清水さんの希代の妙文は漫画入りの人物会見記、印象記などによって、私も日ごろその味わいにあきれている」『かっぱ天国 第1集』と小説家には出せない文章の魅力について言及しています。これは、恒子さんの貢献あってのことかもしれません。
東濱町の長崎くんちの演し物「竜宮船」は崑さんのデザインで作られました。デザインだけではなく、竜宮船を飾る装飾品の素材を探しにわざわざ京都へ出向く熱心さで取り組んでいました。しかし崑さんは、完成を見ることなく昭和四十九年三月に亡くなります。崑さん亡き後は恒子さんが意志を引き継いで、東濱町の方たちと共に竜宮船の製作に尽力したといいます。その年の十月の長崎くんちで、竜宮船は諏訪神社を大いに湧かせました。
1、銭座小学校カッパの壁画〝なかよし〟
崑さんの出身校です。「友だちに対する思いやりを大切にすることが、自分の命を大切にすること」をテーマにした六コマ漫画がそのまま壁画になっています。
2、中島川公園内「ぼんたくん」の銅像
長崎大水害を忘れないという思いを込めて平成4年に作られました。清水恒子さんが監修しています。
3、中の茶屋(清水崑展示館)
江戸時代に遊女屋「中の筑後屋」の茶屋として建造され「千代の宿」ともよばれていた建物。清水崑展示館として遺族から寄贈された3400点にも及ぶ崑さんの作品を収蔵。1、2階に崑さんの作品が展示されている。
長崎市中小島1丁目4番2号
開館時間:午前9時~午後5時(7/20?10/9までは午前9時~午後7時)
休場日:毎週月曜日(祝日は開館)
入館料:大人 100円 小中学生50円
電話:095-827-6890