気品の高い、いかにも英国紳士といった風貌。偉大な父、トーマス・ブレーク・グラバーの長男として誕生した富三郎は、実は戦後長崎を支えた恩人でもあった。昨年、建設され150年を迎えた「グラバー邸」のもうひとりの住人、倉場富三郎とは?
ズバリ!今回のテーマは「息子トミーの知られざる功績に迫る!」なのだ。長崎港を見下ろす南山手の丘に、「グラバー邸」が建てられてから150年の月日が流れた。この建物は、安政の開港を待ちかねたように、長崎の地にやって来た弱冠21歳のスコットランドの貿易商人、トーマス・ブレーク・グラバーが、当初、接客所として、文久3年(1863)に建立し、住居として、また接客に使用した。現存する日本最古の木造洋風建築物として、昭和36年(1961)に国指定重要文化財に指定され、現在、世界遺産登録を目指す「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成遺産のひとつとなっている。
貿易を目的に、各国から来航した外国人たちは、当初、古寺などに仮住まいしていた。彼らが幕府の命を受け造成された大浦外国人居留地に住居を建てはじめたのは、第一次造成工事完了後のこと。借地権を取得した外国人たちは、半永久的にその土地を借り受けることができる「永代借地権」を日本政府から与えられ、毎年末に借地料を支払うことが義務づけられた。南山手3番地に建てられた「グラバー邸」の最初の永代借地者はもちろん、グラバー。明治9年(1876)、東京に移転してからも、たびたび長崎に戻りここに滞在した。明治44年(1911)のグラバーの死後、妹のハナと所有権を譲り受け、その後単独所有者となったのが、長男の倉場富三郎である。彼は昭和14年(1939)、三菱長崎造船所へ売却するまで、妻のワカとここに居住した。
グラバーの妻として知られる淡路屋ツルが、富三郎の実の母ではないという説がある。グラバー園名誉園長であり、長崎の外国人居留地時代を研究する第一人者でもある長崎総合科学大学のブライアン・バークガフニ教授の著書『花と霜 グラバー家の人々』によれば、ツルの経歴やグラバーとの出会いの経緯なども有力な資料がなく、ほとんど不明だが、2人は「グラバー商会」の倒産後、つまり明治3年(1870)以降に結ばれたという。ツルと一緒になる前、グラバーは遊女であった菊園と暮らし、文久元年(1861)に一児をもうけた。「梅吉」と名付けられたその男の子は幼くして亡くなったが、「グラバー商会」倒産直後の明治3年(1870)12月8日、加賀マキという日本人女性との間に、もうひとり、新三郎という男の子を授かった。それがグラバーの長男、倉場富三郎であるというのだ。「加賀マキ」という女性とグラバーの関係を示す資料もほとんど残されていないが、明治元年の『外国人支那人名前調帳』には、……南山手甲壱番英マッケンジ借地に「トヲマス・ゴロウル 同妻」……とあり、その年代から、このときのゴロウル(グラバーのこと)の妻が加賀マキであり、ともに「グラバー邸」に住んでいたと推察される。その後、その女性とは何らかの事情で別れ、グラバーとツルが子どもだけを引き取ったのだろう。以後、新三郎はツルの姓「淡路屋」と「富三郎」という名を使うようになったが、成人した富三郎自身が“母 加賀マキ”と記した公的文書が、後年発見されている。さらにいえば、ツルは死ぬまでグラバーの戸籍に入っていない。それは、明治6年(1873)より日本人と外国人との婚姻が認められたが、日本人女性が外国人と正式に結婚した場合、日本国籍を放棄しなければならなかったため、ツル自身、内縁の妻のままでよいと決意したのではないかと、バークガフニ教授は記しておられる。
明治14年(1881)、富三郎は、東山手に創設されたプロテスタント、メソジスト派の学校「加伯利(カブリ)英和学校」(後の鎮西学院であり、現長崎ウエスレヤン大学の前身)に通った。当時の集合写真には、全員が日本人である在校生のなかに、一目で混血児とわかる着物姿の富三郎がいる。富三郎はトーマス・アルバート・グラバーという名前も与えられ、父、グラバーは、彼を「トミー」と呼び、外国人はそれに倣ったが、日本の友人たちには「富さん」と呼ばれていたという。明治17年(1884)には東京の学習院に入学。4年間の在学中は、三菱社長、岩崎彌太郎の私邸に下宿している。この時期富三郎は「淡路屋」ではなく「淡路谷」の姓を使った。日本の上流階級の出である級友たちを前に、「淡路屋」が持つ庶民的なイメージを取払いたかったのだろうか。級友たちの親のなかには、開港当時、父グラバーに世話になったという人も多かった。入学当初はクラスで一番になるほど優秀であった富三郎だったが、授業をさぼりはじめ、成績も下降線をたどっていった。多感な少年時代、父の名声や威光があったにもかかわらず、混血児というただそれだけで級友たちにからかわれ、学校に嫌気がさしていったと推察される。学習院を卒業した同年秋、富三郎はメソジスト派のオハイオ?ウエスレヤン大学へ。その2年後にはペンシルバニア大学医学部予科の生物学課程に入学した。明治25年(1892)に帰郷した富三郎は「ホーム?リンガー商会」に入社。その後、日本国籍をとり公式に「倉場富三郎」を名乗った。そして、明治32年(1899)、富三郎は、父グラバーと親密だった英国人商人のジェームズ・ウォルターと日本人女性、中野エイ夫妻の次女、中野ワカと結婚する。ワカは、富三郎同様、見た目に混血児であることは一目瞭然であった。しかし、常に日本髪を結い、和服を着こなすワカ……。富三郎自身、自分の中の日本人である部分を大切に思い、また、ワカも同様な気持ちであったのかもしれない。2人は子宝には恵まれなかった。
「ホーム?リンガー商会」に勤める富三郎は、新たに着手した新規事業において日本で初めて蒸気トロール船を導入、トロール技師にイギリス人を雇い入れた。トロール漁業は、それまで海に恵まれつつも、磯漁中心であった長崎の漁業を一新し、さらには、近代的捕鯨産業も確立するなど、20世紀の日本の漁業界に革命を起こした。現在の水産県、長崎の礎を築いたのは、富三郎と言っても過言ではないのだ。そして何よりの功績は、日本四代魚譜のひとつ『日本西部および南部魚類図譜』(通称、「グラバー図譜」)の完成だろう。実は、アメリカに留学していた当時、富三郎の最大の関心事は魚の研究であった。テキストのページを埋めていた、動物や魚の綿密な水彩画が頭から離れない富三郎は、日本でも大掛かりな魚譜の必要性を思い、長崎近海に生息する魚類の分類学的研究と権威ある魚譜を製作しようと決意。そして、明治45年(1912)春、富三郎の姿は魚市場にあった。そこで新鮮かつ珍しい魚を求めた富三郎は5人の地元の画家を雇い、魚の写生を開始したのだ。富三郎自身が魚市場で仕入れた新鮮な魚を「グラバー邸」へ持ち込み、画家の手で美しく、正確に描き出された。20年余りの歳月をかけ「グラバー図譜」は完成。558種の魚を写生した700枚と123枚の貝、鯨図譜を含む823枚で構成されている。その名から誤解されがちであるが、富三郎が画家を雇い、邸宅へ招き入れたのはグラバーの死後。この魚譜は、父グラバーとは無縁の、富三郎の労作である。
混血の富三郎は、長崎の町が商業と観光の拠点となるよう国際交流にも力を注いだ。日本と外国をつなぐ役割を担う親睦団体「長崎内外倶楽部」設立や、「雲仙ゴルフ場」開設などに奔走。「雲仙天草国立公園」の一帯を避暑地として発展させるために尽力し、国内はもとより多くの外国人観光客を雲仙、長崎へと呼び込んだ。しかし富三郎は、常に自分は日本人である、という心を強く意識しながら生きてきたように思える。食事も和洋折衷、外国人となるのは、仮装パーティで『蝶々さん』のピンカートンに扮するときだけだったという。居留地の外国人だけではなく、地元長崎の人々とも親しく付き合い、長崎市民の氏神である諏訪神社の氏子でもあった。明治期の諏訪神社は大木の下に涼を求める外国人たちで賑わう人気のスポットだったが、外国人の氏子はおらず、また、なることもできなかった。富三郎が氏子であったということは、周囲の日本人たちが、彼を日本人として認めていたということ、また、彼自身が長崎の町を愛し、日本の風俗慣習に心を寄せていたことを意味している。
国際理解を深めるべく活動した富三郎の努力とは裏腹に、悲劇が起こる。昭和14年(1939)、倉場夫妻は「グラバー邸」を三菱へ売却し、丘の麓にある南山手9番地へ引っ越す。戦艦「武蔵」建造中の造船所を一望できる「グラバー邸」に彼らにスパイ容疑がかけられたのだ。日本人として生きてきた富三郎にとって、それは耐えられない屈辱であった。そして、その苦悩から終戦直後、自ら命を絶ってしまう。彼が残した遺言には、街の復興のために莫大な金額を長崎市に寄付すると記されていた。グラバー一家のアルバムのなかで、富三郎は、父トーマスから顔をそむけている写真が目立つ。混血であるということ、また、何かほかにも、富三郎が父と心から向き合えない理由があったのだろうか。しかし富三郎は、仕事でも、社交界でも父グラバーの跡を継ぎ、死期が近づいた父のために出来る限りのことをした――― グラバーは南山手3番地の切り拓いた土地に植物を植え、花壇をつくった。グラバーが丹精込めて造りあげた庭園は富三郎へと受け継がれ、富三郎はこの庭花を愛し続けたのだった。
長崎生まれの長崎育ち。長崎の町をこよなく愛した富三郎の息吹が今でも少しだけ感じられるゆかりのスポットを紹介しよう。
【倉場富三郎ゆかりのスポット】
グラバーの死後、「グラバー邸」は富三郎の申し出によって三菱長崎造船所が譲り受けた。戦後一時期は、米軍の接収家屋となり、青いペンキで塗りつぶされてしまう。しかし、昭和32年(1957)、三菱長崎造船所は、前身である長崎鎔鉄所の100周年記念として「グラバー邸」を長崎市に寄贈、保存への道が開かれた。翌年より一般公開された「グラバー邸」は、国内外で大きな反響を呼び、その後、他の施設の買収、移築するなどが進められ、昭和49年(1974)に「グラバー園」として開園するに至った。今年で開園40周年を迎えた「グラバー園」。ここは、グラバーはもとより、数々の貿易商人たちが、またその二世たちが、この町に溶け込み、それぞれの国の文化を交換しあった華々しい時代の息吹を感じる、港町長崎随一の観光スポットである。
グラバー園
長崎市南山手町8番1号
時間:通常8時~18時(入園受付は17時40分終了)
2014年10月10日(金)~12月21日(日)~20時(入園受付は19時40分終了)
2014年12月22日(月)~12月25日(木)~21時(入園受付は20時40分終了)
2014年12月26日(金)~2015年1月25日(日)~20時(入園受付は19時40分終了)
※以下の期間は、通常開園(2014年11月13日、14日、12月2日)
休館日:年中無休
入館料:大人 610円 高校生 300円 小中学生180円
問い合わせ:グラバー園管理事務所 電話:095-822-8223