1922(大正11)年、「出島和蘭商館跡」と「高島秋帆旧宅」と「シーボルト宅跡」が国の史跡に指定されました。
史跡指定後も整備が手つかずだった出島に、戦後、オランダが日本政府へ出島の復元を要請したことが出島復元整備事業の発端となりました。
長崎市は、1951(昭和26)年から出島の整備計画に着手しはじめます。幕末に建てられた石倉が倒壊寸前となっていたところを、政府の補助金を受けて復元したことが、復元整備事業のはじまりとされています。
1973(昭和48)年から1976(昭和51)年にかけては、ミニ出島の設置や新石倉の復元、庭園整備などが行われました。しかし、まだ出島完全復元の計画はありませんでした。
これは、出島の用地のほとんどが民有地だったためです。
市は、用地の公有化や施設整備に取り組み、1978(昭和53)年に設置された出島史跡整備審議会での検討を重ねて、公有地化がある程度進んだ1996(平成8)年に本格的な復元整備計画を策定し、完全復元にむけて整備を進めることになりました。
200年以上も歴史を持つ出島。長い歴史のなかでは火災や台風などの被害で建物が倒壊した時期もあり、出島はいくつもの変遷をたどりました。
出島を復元するにあたっては、その長い歴史ゆえに、ある特定の時期にスポットをあてて復元の年代を設定する必要があります。復元計画で目指す出島のすがたは、資料が多く残り、一般的な出島のイメージに近いとされる1809〜1833年の19世紀前半と設定されました。
絵師川原慶賀らによって描かれた当時の出島図や絵巻には、出島を俯瞰したものや詳細に描かれた建物、そして室内の家具などをみることができます。また、オランダのライデン国立民族学博物館に収蔵されている出島の模型は、19世紀前半の出島を立体的に明らかにしました。
ライデン国立民族学博物館には、出島からもたらされたコレクションが約9500点あります。博物館の前身となっているものは、1816年、ハーグに設立された王立骨董陳列室です。当時は世界の美術品、工芸品、先端の科学技術などさまざまなものが並んでいました。
1809(文化6)年に荷倉役として来日し、その後、1817(文化14)年に商館長として再来日したブロンホフと1820(文政3)年から9年間出島に滞在した荷倉役のフィッセルは、この王立骨董陳列室に展示することを目的に日本で収集を行いました。
そのなかには出島の模型もありました。1818年、ブロンホフが送った縮小模型は、6.5メートルと3メートルもある大きなもので、オランダでこの模型を受け取ったドゥーフは、出島の模型についての解説書を書きました。
ドゥーフはブロンホフの前任者で、出島に17年間も滞在した人物です。出島の模型を目の前にしたドゥーフの胸に去来するものはあったでしょうか。長崎に残してきた息子道富丈吉や編纂の途中で離日した蘭日辞書『ドゥーフ・ハルマ』のその後の進ちょくを気にかけたでしょうか……。
ブロンホフが送った出島の模型とドゥーフが書いた解説は、時を経て、出島の復元に大きく役立ちました。
復元にあたっては、さらに商館長日記やオランダ側の資料の解読、現存する町家などの類例調査、礎石や遺構の確認のための埋蔵調査を行って、考証に考証をかさねて復元の精度を上げていく地道な作業が必要になります。
出島の復元計画は、短中期と長期のふたつにわけて計画されました。
全体の復元を一度に行うのではなく、短中期計画では、5段階にわけて鎖国時代のシンボル的な建物を中心に出島内の復元は進んで行きました。
2000年までの第1期復元事業では、ヘトル(商館長次席)部屋、料理部屋、一番船船頭部屋、一番蔵(砂糖蔵)二番蔵の5棟を復元。
2006年までの第2期事業では、水門、カピタン部屋(商館長居宅)、乙名部屋、三番蔵、拝礼筆者蘭人部屋の5棟を復元し、南側護岸石垣の復元と練塀の整備を行いました。
カピタン部屋や水門は出島の核となる建物です。カピタン部屋の調度品は、ライデン国立民族学博物館の学芸員であったマティー・フォラー氏がオランダのアンティークショップで19世紀当時の家具の買い付けを行ったそうです。
今年2016年に完成予定の第3期事業では、乙名詰所、銅蔵、組頭部屋、十四番蔵、筆者蘭人部屋、十六番蔵の建造物が復元されることになり、また来年の2017年には、出島表門橋が架かり、江戸時代と同じように、橋を渡って出島にはいることができるようになります。
一方、長期計画は、四方に水面を確保して、19世紀初めの扇形の出島が再び海に浮かぶという壮大なものです。内陸化した出島が「島」に戻るとき、出島の復元が完成します。
江戸時代、出島は世界に開かれた窓でした。言い換えれば、出島は世界と通じていたとも言えます。オランダ商館との貿易を通してつながっていたインドネシアやタイ、ベトナム、カンボジアなど東南アジアの国々。出島で暮らした商館員はオランダのみならず、ドイツ、スウェーデンといったヨーロッパや南アジアの人々も含め、多彩な交流がありました。
そして、出島はかつてのように世界とつながろうとしています。
2015年5月20日、新たなネットワークが誕生しました。
出島と平戸、台南、ジャカルタ、アンボン、バンダ、テルナテ、アユタヤ、マラッカ、ガレ。かつて交易で結ばれていた都市が「オランダ商館の歴史や遺産を共有し、新たな交流を結ぶ」ことを目的としたものです。
甦る出島は、つながる出島へ。
出島の復元は、当時の姿を見せてくれるだけではなく、西洋と東洋を結んできた歴史の記憶も呼び起こすものにもなりそうです。
1.「ナガジン」発見!長崎の歩き方
「出島回想録~出島が日本と世界にもたらしたもの~」 2003年11月
「出島2006~江戸時代の長崎が見えてきた!~」 2006年8月
現代のオランダ人の目に映る“NAGASAKI” 2012年2月
2.歌で巡るながさき
長崎の歌(48)~歌さるき・1~出島・大波止界隈 2005年 2005年9月