文・宮川密義


これまではテーマ別に長崎の歌を紹介してきましたが、2006年に本番を迎える「長崎さるく博」に合わせて、このサイトの表題(歌で巡るながさき)の通り、今回から“歌さるき”を始めます。長崎の歌に取り込まれたスポットの略図を添えて、それらの魅力探ります。
「発見!長崎の歩き方」や、この「歌で巡るながさき」のバックナンバーも参照しながらご覧下さい。

(1) 大波止の鉄砲ん玉(てっぽんたま)
  ドラゴンプロムナード入り口に鎮座。 長崎民謡「長崎七不思議」の中で歌われています。
(2) 長崎港
  鎖国時代、我が国唯一の貿易港として、多くの外国船で賑わいました。 「阿蘭陀船」などに数多く歌われています。
(3) 出島和蘭商館跡
  禁教時代にポルトガル、オランダ人が収容され、日本人妻との間に生まれた混血児の追放など悲劇も生みました。 「長崎物語」など多くの歌に取り込まれています。
(4) 出島岸壁
  かつて日華連絡船の発着で賑わいました。 「長崎行進曲」に歌われています。

【出島・大波止界隈地図】


(1)大波止の鉄砲ん玉(てっぽんたま)

現在、大型商業施設「夢彩都」に隣接、大きなオレンジ色の球が屋上に乗っている元船町の倉庫「ドラゴンプロムナード」の前に置かれています。
島原の乱の時、長崎の唐通事(中国語の通訳役人)・潁川官兵衛(えがわ・かんべえ)の提案で、キリシタン一揆で知られる島原半島の「原城」(はらじょう=南有馬町)を地下から爆破しようと作らせた砲弾といわれます。
寛永15年(1638)に長崎で鋳造された「石火矢玉」で、周囲184.8センチ、重さ619.2キロもありました。
ところが、原城の海岸から弾道になる穴を掘り進む途中、城側に察知され、逆に糞尿を流し込まれたため、作戦を中止、玉だけが残りました。
玉は長崎の大波止海岸に据えられ、港の開発のたびに海岸近くを転々と移動しましたが、「大波止の鉄砲(てっぽ)ん玉」と呼ばれて、今日まで市民に親しまれています。
明治37年には玉にちなんで「玉江町」の町名も生まれました。
民謡の「長崎七不思議」の中に歌われています。

1.民謡「長崎七不思議」



元船町に建つ
「大波止の鉄砲ん玉」



(2)長崎港

元亀2年(1571)にポルトガル貿易船が初めて入港して、長崎の港が開かれました。ポルトガルに続いてオランダ船が来航。特に江戸時代、わが国に来航したオランダ船は1621年から1847年までの227年間に延べ715隻を数えたそうです。
1670曲に及ぶ長崎の歌の中には「船」を歌ったものが数多くあります。タイトルに「船」と付けた歌は36曲。そのうち「オランダ船」が最も多く15曲、「唐人船」と「じゃがたら船」が各5曲の順。
また「港」をタイトルに付けた歌も44曲あり、船と港を合わせると80曲に及びます。
入港する外国船は珍しい品々を日本にもたらし、日本の文化に大きな影響を与えました。歌にも長崎独特のエキゾチックな風景として描かれています。
その代表格が「阿蘭陀船」(昭和8年=1933、北原白秋・作詞、山田耕筰・作曲、ベルトラメリー能子・歌、バックナンバー「長崎港を歌う」で紹介)です。


長崎古版画に描かれた長崎港
(長崎文献社提供)


2.「花のオランダ船」

(昭和29年=1954、石本美由起・作詞、万城目正・作曲、美空ひばり・歌)


美空ひばり主演の東映映画「唄しぐれ・おしどり若衆」(中村錦之助共演)の主題歌でした。
オランダ船の吊りランプ、カピタン唄、花はジャスミン…などとエキゾチックな単語が並び、オランダという国を「アムステルダム」の地名で、より具体的なイメージにしながら、華やかな長崎の港の風景が歌われています。



「花のオランダ船」 の楽譜表紙


3.「港町ブルース」
(昭和44年=1969、深津武志・作詞、なかにし礼・補作、猪股公章・作曲、森 進一・歌)


「長崎は今日も雨だった」の登場で話題が沸騰していたころ、この歌が発売され、演歌の歌い手として、感情の込め方が激しい絶叫型の森進一の歌で、みるみる大ヒットしていきました。
北は北海道から東北、中部、四国、九州の港町に、男に裏切られた女の情念を絡めた演歌ブルースです。
全国の地名を散りばめる手法のハシリとも言えます。特に長崎ものの行方に一つの方向づけを示唆した歌でもありました。
“ご当地ソングブーム”あるいは“長崎ブーム”は、業界に“長崎ものは売れる”というイメージを抱かせる一方、“長崎の地名だけでは飽きられる”ことも予感していたわけで、以後の長崎ものには、各地と抱き合わせた歌が多くなりました。


「港町ブルース」のレコード表紙


その他の主な港・船の歌
*長崎港節(S5.凸助)
*阿蘭陀船(S8.ベルトラメリー能子)
*長崎開港記念歌(S10.東海林太郎)
*長崎みなと祭小唄(S10.喜代三)
*恋の唐人船(S12.霧島昇)
*港のセレナーデ(S14.由利あけみ)
*唐人船(S16.三根耕一)
*じゃがたら船(S22.渡辺はま子)
*おらんだ船(S24.渡辺はま子)
*オランダ船の船長さん(S25.瀬川伸)
*唐人夜船(S25.竹山逸郎)
*長崎夜船(S26.音丸)
*さらば長崎港街(S27.瀬川伸)
*港の異人屋敷(S28.宮城まり子)
*涙のジャガタラ船(S28.春日八郎)
*ジャガタラ通いの船が出る
  (S30.青木光一)
*雨と港と石畳(S33.大江洋一)
*ばてれん船(S33.若山彰)
*長崎夜船(S39.下谷二三子)
*ラテン長崎港町(S45.倍賞美津子)
*港町(S46.都はるみ)
*長崎の別れ船(S46.小野由起子)
*みなと長崎(S48.ラ・カンパーニヤ)
*女の港(S58.大月みや子)
*港町ものがたり(H11.岩出和也)
*おもいで港町(H13.杉直人)
*港子守歌(H17.藤あや子)


4.「長崎から船に乗って」
(昭和46年=1971、山口洋子・作詞、平尾昌晃・作曲、五木ひろし・歌)


前出の「港町ブルース」で触れたように、長崎の歌があまりにも多く作られて飽きが来たためか、この歌の頃から長崎の地名は控え目にする傾向が見られようになりました。
五木ひろしのヒット曲「よこはまたそがれ」を録音した時、スタッフの中から「横浜の次は長崎だな」と軽口を飛ばす人がいて、それがこの歌が生まれるきっかけになったそうです。
そして題名のように、歌謡界は長崎から全国各地へ、特に北国へと舞台を移していきました。長崎の歌の素材では最も多い「港」と「船」で長崎ブームに終わりを告げたのは皮肉なことです。


「長崎から船に乗って」の表紙


(3)出島阿蘭陀商館跡


復元が進む出島阿蘭陀商館跡

「オランダ屋敷」というのは「出島阿蘭陀商館」のことです。
出島はポルトガル人を収容するために、寛永13年(1636)に造られました。島原の乱(寛永15年)の後、幕府はポルトガル人を追放し、寛永18年に平戸にいたオランダ人を出島に移住させました。

オランダ人が住むようになってから“オランダ屋敷”と呼ばれ、太陽暦の1月1日には丸山遊女や奉行所の役人、通詞、主だった地役人を交えた大宴会“オランダ正月”が開かれました。
こうして出島は、幕末までの約200年間、鎖国日本の唯一の窓として大切な役割を果たしますが、歌の世界では、幽閉されたオランダ人の寂しさ、果たせぬ恋路に泣く丸山遊女、オランダ人を父に持つ混血娘の哀れを“オランダ屋敷”あるいは“異人屋敷”を通して描いています。
タイトルに「出島」が付いた歌は5曲、「オランダ屋敷」「阿蘭陀屋敷」「異人屋敷」は7曲ですが、「長崎物語」(バックナンバー「禁教の悲劇を歌う」参照)など、オランダ屋敷を歌詞に取り込んだ歌はかなりの数にのぼります。

5.「出島長崎異人館」
(昭和45年=1970、入江市郎・作詞、川上英一・作曲、アカシヤ洋子・歌)


長崎とオランダの友好親善の中で生まれた歌です。
南山手にあった観光開発会社の役員で詩人でもあった入江市郎(いりえ・いちろう)さんが、オランダ訪問使節団の1人としてオランダを訪問した際、オランダ大使館に依頼されて作詞しました。
これに大使館推薦の作曲家(川上英一)が作曲、オランダ航空の協力でキングのアカシヤ洋子が歌いました。
この歌が出た年は長崎開港400年の節目でもあって関心が高く、有線放送では1位にランク。さらに日活映画「長崎の顔」の中でも流されました。
出島の異人屋敷を通して日本とオランダの交友をイメージアップしており、日蘭親善への貢献も期待されましたが、アカシヤ洋子がまもなく引退してしまい、歌としては不発に終わりました。



レコードの発表会で
歌うアカシヤ洋子


6.「出島物語」
(平成14年=2002、秋元 康・作詞、後藤次利・作曲、shake・歌)


NHKが平成14年4月14日の午前10時から午後7時までBS2で特集した「おーい、ニッポン〜とことん、長崎」のラストを飾って、出島からの生中継で発表した新しい長崎の歌です。
作品は、中央のヒット作詞家、作曲家がこの番組のために書き下ろし、歌い手は視聴者から公募。オーディションで選ばれた平戸の宝亀登紀子さんと長崎の田中優さんが組んだ「shake(シェイク)」が歌い、CDも発売されました。
長崎全体を「出島」ととらえ、長崎の名物、名所を織り込み、男女の恋とその未来を歌い上げたムード歌謡調のポップス。
宝亀さんは1999年のNHKのど自慢チャンピオン、田中さんは幼いころからカラオケで歌うのが趣味というだけに、ノリのよいリズム感で聴かせました。




「出島物語」のCD表紙


(4)出島岸壁

江戸時代、わが国唯一の外国貿易港だった長崎は明治17年(1884)に港湾改修事業が始まり、同37年(1904)には「出島」も陸続きになりました。
翌38年には九州鉄道の浦上〜長崎間が開通、大正12年(1923)、日華連絡船のための出島岸壁が建設されます。
長崎丸と上海丸(ともに5,300トン)が週2便就航。旅券もいらず、36時間もかかっていた長崎〜上海間が26時間に短縮され人気を集めました。長崎駅から出島岸壁に臨港鉄道も引き込み、上海航路と連結させました。
1年後からは神戸が起点となり、長崎には4日おきの発着となりますが、発着時の出島岸壁では五色のテープが乱舞するほど賑わいました。しかし、戦時が始まり、長崎丸は昭和17年(1942)5月、上海丸は18年10月に沈没、上海航路は終わりを告げます。
現在の「出島ワーフ」は、平成12年(2000)に日蘭交流400周年を記念してオープン。約200メートルの岸壁に木造2階建ての施設にはレストラン、居酒屋、テイクアウトショップ、美容室などが並び、市民の憩いの場となっています。
また、長崎都心・臨海地帯の再開発構想による「長崎水辺の森公園」など“港街・長崎”の新しい顔になる親水空間の整備が進められています。

7.「長崎行進曲」
(昭和10年=1935、渡部龍夫・作詞、大村能章・作曲、東海林太郎・歌)


作詞した渡部龍夫(わたべ・たつお)さんは当時、長崎市内の歯科医院に住み込み、書生をしながら同人誌を出すなど作詞活動をしていた人です。
昭和9年、歌詞募集に応募した「長崎博覧会の歌」(バックナンバー「長崎観光博覧会のころ」参照)が1等当選。その実績で、レコード会社から長崎の歌の作詞を依頼されます。
渡部さんは大波止や出島岸壁の日華連絡船発着所、大浦海岸の桟橋などを取材して、当時人気を集めていた「東京行進曲」のイメージでまとめました。日華連絡船で賑わう出島岸壁も取り入れたこの歌は、長崎の歌の“歌謡曲第1号”として人気を集めました。
渡部さんはプロの作詞家を目指して長崎を離れ、昭和28年(1953)、枯野迅一郎の筆名で書いた五月みどりの「おひまなら来てね」が大ヒットしました。



昭和50年に32年ぶりに帰郷して
出島岸壁で往時を偲ぶ
作詞の渡部龍夫さん




日華連絡船の発着で賑わった頃の
出島岸壁


開発が進む現在の出島岸壁
(右端が出島ワーフ)


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