文・宮川密義

昭和9年(1934)3月から5月にかけて、長崎市の中之島埋め立て地を第一会場に、雲仙を第二会場にして「長崎国際産業観光博覧会」が開かれました。

中ノ島会場は約8万9千100平方メートルの敷地に産業貿易館、文明発祥館、演芸館などがズラリと建ち並び、大変な人出で賑わいました。
テレビジョン館ではテレビの試験映像が見られ、演芸館では「阿蘭陀万歳」も初めて披露されました。

一方、観光博覧会を盛り上げるために、8年から10年にかけて地元の新聞社やレコード店などがタイアップして、博覧会にちなむ歌を作りました。
今でいうイメージソングですが、レコードになった歌だけでも13曲もあります。


長崎観光博覧会の栞

観光博覧会協賛会誌に掲載された
第一会場の位置(中之島埋立地)

長崎観光博覧会会場
(中之島)の正面

1.「長崎博覧会の歌」(昭和8年、渡部龍夫・作詞、大村能章・作曲、横山良三・歌)




楽器店とレコード会社が博覧会事務局や地元新聞社の後援を得て歌詞を公募。
県内外から集まった267編を、北原白秋や西条八十、佐藤惣之助、西岡水朗、島田芳文…といったそうそうたる作詞家たちが東京で審査しました。

1等に当選したのは地元の渡部龍夫さんの作品。
東京の新人、大村能章が作曲、天草出身の横山良三(横田良一)が歌ってレコードになりました。
渡部さんは歯科医院の技工士で、この歌をきっかけに作詞家・枯野迅一郎としてデビューします。
歌詞の「遊覧飛行」は、博覧会の期間に通算5日間、長崎の網場から小浜まで運行した6人乗りの水上飛行機のことです。


2.「崎陽小唄」(昭和8年、乳井三郎・作詞、大村能章・作曲、赤坂小梅・歌)




「博覧会の歌」歌詞募集の2等入選作です。
乳井三郎は東彼杵郡三浦町(今の大村市三浦町)の歌人・中村久さんの別のペンネームで、戦前は「中村郷二」の名で活躍した人です。
当時人気上昇中だった赤坂小梅が長崎情緒を軽快なテンポで歌っています。


3.「長崎市歌」(昭和8年、長崎市教育会・編、橋本國彦・作曲、伊藤武雄・歌)




昭和8年(1933)は9月にNHK長崎放送局が開局、戸町トンネルが開通するなど、市民生活に直結するうれしい出来事が続く一方、観光博覧会の準備が急ピッチで進められ、慌ただしいムードも漂っていました。

そのムードに乗って長崎市が市歌を制定しようと考え、長崎市教育会に委嘱して歌詞を公募。
応募作 453点から1等に選ばれた長崎商業学校の国語教師、松原清美さんの作品を市教育会が補作。
東京の作曲家・橋本国彦さんに作曲を依頼。

同年12月に正式に市歌に制定して、翌9年、伊藤武雄の独唱をA面に、中央合唱団の合唱をB面に入れてレコードを作り、普及に努めました。


4.「長崎音頭」(昭和9年、西条八十・作詞、中山晋平・作曲、小唄勝太郎・歌)




博覧会にちなんだ歌のうち、最も市民になじまれたのがこの「長崎音頭」でした。

このころ、全国的に「東京音頭」が人気を集め、音頭熱が高まっていました。

「長崎音頭」も「東京音頭」と同じ作詞、作曲、歌の人気トリオによるもので、踊りの振りも付いて長崎市民を熱狂させました。

発表会は博覧会開幕一カ月前の昭和9年2月25日夜、本石灰町の南座で開かれましたが、東京から西条八十、中山晋平の作家コンビもやってきて、満員の南座は夜10時過ぎまで歌と演奏、踊りで盛況を極めました。


「長崎音頭」発表会出席のため来崎した西条八十(左)と中山晋平の談話を伝える新聞記事


5.「長崎スッチョイ」(昭和9年、吉田藤十郎・作詞、中山晋平・作曲、三島一声・歌)




ユニークなタイトルの歌ですが、花月、丸山、ハタ揚げ、黒船などの長崎情緒と、博覧会第二会場の雲仙も歌っています。

作詞した吉田藤十郎さんは長崎の薬剤師で、川柳作家でもありました。
ユニークな生き方で話題を集め、この歌にはその人柄を偲ばせるものがあります。


観光博覧会の演芸館のステージで藤栄会によって披露された「長崎スッチョイ」の踊り

歌詞の中の「鶴の枕」は中国(明の時代)から渡来、「花月」の前身「引田屋」に持ち込まれた枕のこと。
雌雄の鶴が刺繍で描かれ、手で押すと笛の音がして、鶴が鳴くように聞こえることから有名になりました。
「帯屋」「桝屋」はハタ揚げの名人。
「あっかとばい…」は長崎のわらべ唄の一つ(バックナンバー(5)「わらべ唄」参照)。

「スッチョイ」は、特別の意味は含まれていないようですが、わらべ唄を囃子に取り込んだユーモラスな詞と曲で人気を集めました。


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