出島に隔絶されていたオランダ人でしたが、安政の開国が状況を変えていきました。
1854年から1855年にかけて、日米和親条約が締結され、イギリス、ロシアに続きオランダとも和親条約が結ばれると、日本は激動する国際関係の影響をうけ、出島も変貌していきました。
「警固役人無之出嶋より出行候儀可為勝手次第事」が認められ、水門の鍵も出島乙名からオランダ商館長の手に渡ります。
自由に長崎の町を散策できるようになったオランダ人たち、その姿を見た長崎の人達は、時代が変わる気配や雰囲気を感じ取ったのかもしれません。1857年には日本人も自由に出島に出入りできるようになります。
1859年、オランダ商館は閉鎖され、オランダ領事館となり、1866年、外国人居留地に組み入れられた出島は、オランダ以外の国の商社が進出して、各国の商人たちが活躍する場となっていきます。
また、居留地へ編入される1866年以前に、鎖国期に建てられた建物はほとんど建て替えられていったようです。
幕末以降、出島周辺の埋め立てが進み、しだいに出島は内陸化していきます。
中島川河口に流出した土砂は堆積して浅瀬となり、大型船が長崎港に近づけなくなりました。流出土砂を排出するため、長崎県は1884年から1893年に長崎港第1次港湾改修事業を行い、その主要工事として、出島を平均18メートル削り、現在のように中島川を出島と江戸町の間に変流させました。出島と築町の間は埋め立てられ、出島の東側が陸続きになります。
また、大型船の接岸できる近代港湾施設の建設、長崎駅の長崎市中心部への建設などが必要となり、長崎市は1897年から1904年にかけて、茂里町から出島までの広大な地域を埋め立てる第2次長崎港湾改良事業をはじめます。さらに大浦海岸通りと大波止海岸が連続するように、出島の海岸部は大きく埋め立てられ、1904年、内陸化しました。
一方、出島周辺が変わっていくなか、出島は国際交流の場として、新しい時代を迎えていました。
1875年、出島に聖公会の教会が建てられ、1878年には隣接して出島英和学校(のちに聖アンドレ神学校)が開設されました。キリスト教を伝えるだけでなく、牧師養成のための施設でもありました。
また、メソジスト教会が、現在ミニ出島の設置されている場所に教会を設けました。メソジスト教会は活水女学校や鎮西学院の母体で、教会の入口は東側にあり、江戸町から見ると開放的で日本人を歓迎するように建設されたといいます。
明治の時代にも出島は非常に歴史ある場所と考えられ、地理的にも一番日本人の町に近いために、布教しやすく日本人と接点を持つことができると考えられていたようです。
現在、聖アンドレ神学校は保存修理工事を行ない、旧出島神学校として建物を公開しています。明治の建築物が歴史を語りかけてくれることでしょう。
また、出島オランダ商館が閉館すると、出島はオランダ商人のほか、プロシア人やフランス人などが加わり、国際的な交易の場に変化していきます。明治の初めごろには日本人が営む商店もあり有田焼の高級磁器を販売していました。外国人に日本の良質なお土産を提供する目的があったようです。
1866年、出島は居留地の一部になると同時に区画整理がなされて、一つひとつの区画に借地権が設定され、その借地権を得た外国人が、借地料を払う居留地制度をとるようになります。
フレデリック・リンガーは、グラバー商会の社員を経て独立し、ホーム・リンガー商会を設立しました。長崎で非常に影響力があり、資産家でもあった彼は、出島の26ほどの区画のうち、4つを確保していました。そのなかのひとつ出島7番地に、長崎内外倶楽部のクラブハウスが建てられました。
長崎内外倶楽部は、長崎に暮らす外国人と日本人の親交を深める場で、発足時から中心的なメンバーとして活動した人物が、トーマス・グラバーを父に持つ倉場富三郎でした。
1899年、富三郎は、イギリス商人と日本人妻の間にうまれた中野ワカと結婚します。外国人居留地における治外法権が廃止された時期でもありました。外国人たちが居留地で特別な権利を持つことがなくなり、それまで別々の状況にあった日本人と外国人とがこれからの時代、相互共存の親睦を図らなければ、という思いから長崎内外倶楽部は発足したといいます。富三郎ほか、横山寅一郎、荘田平五郎などが発起人となり、西浜町の料亭「精洋亭」で最初の集会が開かれました。日本人125名、中国人5名、欧米人20名が出席し、「心の通った温かな交流を促進し、定期的な会合を開き、意見を交換することによって、すべての人が恩恵を享受する」という目的が掲げられました。
1903年、富三郎は雇い主であるリンガーに対して、リンガーが借地権を持つ出島7番地に、クラブハウスを新築するための協力を要請します。
江戸初期から日本人と外国人の接点、交流の場、西洋と日本の接点であった出島が新しい内外倶楽部の場所としても最もふさわしい場所だと考えたのでしょう。木造2階建てで、1階と2階には広いベランダがあり、煙突が立つ洋風建築がつくられました。
内外倶楽部の歴代会長は長崎市長です。長崎の有力な財界人やさまざまな国籍の人々が集い、自分たちのこれからの繁栄、長崎の繁栄を願い交流をもちました。スコットランド人の父を持ち、母親が日本人という富三郎にとって、西洋と日本が手を取り合い、協力しあってより豊かでいい長崎をつくりたいという願いは誰よりも強かったのかもしれません。
出島に内外倶楽部のクラブハウスが建てられる前、長崎港の防備のため要塞司令部が設置され、長崎港や山の稜線などの形状がわかる写真撮影が禁止されるようになります。居留地時代から続いた国際交流と国際貿易をもっと盛んにしたい、という内外倶楽部の願いとはうらはらに、日本の軍事色は強くなっていきます。
1904年、出島は内陸化し、この年、日露戦争が勃発します。
日露戦争後も内外倶楽部の活動は続きました。
日本政府は、外国人住民が保有する永代借地権を尊重し、借地者は年間借地料を政府に納め、区画が日本人に売られるか譲渡されるまで保有を認められていましたが、出島内の区画はしだいに日本人の手に渡り、出島における外国人との関わりも消滅していきます。
長崎内外倶楽部は太平洋戦争直前に解散、そして1945年、長崎に原爆が投下されました。
長崎内外倶楽部、出島最後の外国人所有だったその建物は激動の時を経てもなお、明治という時代を象徴するようにその姿を見せ続けています。
江戸、幕末、明治、大正、昭和……、
長崎、日本、そして世界……、時代の節目を感じることのできる島、それが出島なのかもしれません。
1.「ナガジン」発見!長崎の歩き方
「出島回想録~出島が日本と世界にもたらしたもの~」 2003年11月
「出島2006~江戸時代の長崎が見えてきた!~」 2006年8月
現代のオランダ人の目に映る“NAGASAKI” 2012年2月
2.歌で巡るながさき
長崎の歌(48)~歌さるき・1~出島・大波止界隈 2005年 2005年9月