フランス革命は出島にも影響を及ぼしました。
1795年、オランダはフランス革命軍に占領され、1810年にはフランスに併合されてしまいます。
そのような状況のなか、オランダ東インド会社は1799年に解散し国営化され、1811年にはオランダの植民地奪取をもくろむイギリスが出島を管轄するバタヴィアを支配下においたため1810年から3年間、出島にはオランダ船が一隻も入港しないという事態になりました。
17世紀はオランダ黄金時代といわれるほど、盛んだったオランダと日本の交易は、18世紀に入るころにはしだいに衰退していきます。その原因の一つが幕府による貿易制限政策でした。それまで無制限だったものが、1685年、オランダの貿易額が銀3,000貫目に制限され、1715年にはオランダ船の入港を年2隻、貿易額を銀3,000貫目に、1790年には、年1隻、銀700貫目にまで限度を決められてしまいます。一方で、オランダ東インド会社の経営も悪化していき、追い打ちをかけるように起こったヨーロッパの戦争の余波は遠く離れた出島にまで及びました。
1808年、フェートン号事件と呼ばれるオランダ船捕獲をねらったイギリス軍艦の長崎港侵入事件があり、また、1813年、14年には出島の引き渡しを要求するイギリス船がオランダ船を装って入港した事件も起こりました。当時の出島オランダ商館長はヘンドリック・ドゥーフ。彼はイギリス側の要求を拒絶して、日本におけるオランダの立場を守り奮闘します。
船が入港せず、ヨーロッパやバタヴィアから何の通信もなく、必需品は使い果たされ、貯蔵品も底をつき、貿易取引の出来ない出島は困窮していきます。
<1807年以来、我々はバターを見たことがなかった>
<我々がもっとも窮乏したのは、靴と冬の衣服だった。我々は日本の草履を作らせ、足の上を日本のなめしてない皮で覆い、我々は[出島の]通りを、足を引きずって歩いた。我々は私が持っていた古いカーペットから、長いズボンを作った>
ドゥーフの日本回想録には、1810年から1812年までオランダ船が一隻も入港しなかった当時の苦労が綴られています。
<日本人は我々に不足するものを、できる限り無償で補給してくれたことを、日本人の名誉のために、私はここで認めなければならない。我々の日々の食料とその他の必需品は、毎月幕府の命令により、会所から定期的に支給された。長崎奉行は週に二、三回、我々になにか不足するものはないか、請負人は我々にすべてを適切に供給しているか、と私に尋ねさせた。要するに、彼らは我々の陰鬱な環境を快適にするため、できるだけのことをしたのである>
ヨーロッパから極東にある日本に置き去りにされたようなドゥーフらオランダ商館員たち。情報もなく、迎えの船も来ない孤立状態にあってもオランダ人としての誇りをもって生きるドゥーフは、出島の空にオランダ国旗を掲げ続けました。
<私は国民諸君に、我々の名高い国旗が、フランスがヨーロッパを支配した間に、またイギリスが東インドを支配した間に、日本の出島ではためきつづけたという事実を知ってもらいたい>
1810年のフランスによる併合からネーデルラント王国が成立する1815年までオランダが事実上消滅した5年の間、出島にはオランダ国旗が翻っていたのでした。
過酷な状況にあっても矜持(きょうじ)を保つドゥーフの姿は当時の日本の人々に敬意を抱かせるものだったといいます。
商館長ドゥーフの後任がヤン・コック・ブロンホフでした。ブロンホフはドゥーフのもとで働き、1813年に出島オランダ商館の使者としてイギリス東インド会社が統治するバタヴィアへ向かいましたが、捕縛されイギリスに連行されてしまいます。しかし、オランダはすでにネーデルラント王国として主権を回復していたため、ブロンホフはイギリス到着後すぐに釈放され、オランダ国王の命で、出島の商館長としてふたたび日本へ赴くことになりました。
ブロンホフが1813年に出島を発ったあとの消息をドゥーフは知るすべもなく、出島での生活は続いていました。
<七年の間、我々は祖国から何の便りも聞かず、我々の親類、縁者から引き離されて、救出される見込みはもはやなかった!このような情況を経験しない人は、誰もこれを想像することはできないだろう。我々は生計の道もなく、日本人の恩恵により暮らしていた>
そして1817年。
<我々は二艘の船が近づいていると聞いた。この時日本に残っていたオランダ人は、わずか六人にすぎなかったが、その喜びは言いようがないほどだった。この瞬間、我々にとって、これがどこの船かは、どうでもよかった。我々がこれで、何かを知ることができるのは確かなのである。私がこの日の夕方、検問書類を受取り、ブロンホフ氏が乗船していることを知ったとき、我々の喜びは頂点に達した。我々はこのように悲しい不確定な状況から我々を救出した神に、心から感謝した>
出島に、ドゥーフの心に、希望の光が射した瞬間でした。
ブロンホフは、オランダ独立回復の知らせを持って来日し、ドゥーフから商館長の業務を引き継いで途絶えていた貿易の回復に専念していきます。
オランダ商館日記には、ブロンホフが出島貿易再興のため、努力する日々が克明に記録されています。
船は輸入品をおろし続けるだけでなく、転覆を防ぐため常に底荷を確保しつつ輸出品を積み込まなくてはならないので、重量バランスを考えて、積み出し、積荷、商品の点検、仕分け、蔵入れ、蔵出し、分配などを進めていきます。そこには気難しい船長との交渉があり、盗難があり、かけひきがあり、ブロンホフは苦心します。また、送られて来た荷物を解いてみれば、質の悪い金に対して落胆し、一方で部下から年金増額の要望と退職願いをうけて事務処理をする日もあり、さらには、日本側から注文をうけた鮫皮と奥嶋(縦縞の布)が粗悪だったため、それに対してのお詫びと、次はかならず満足できる品を約束しますと奉行宛に手紙を書き、また、商館再建のため、3年間約束された銅の増額をさらに10年間延長してもらえるよう嘆願書もしたため…、管理職ブロンホフの悩みはつきず、多忙を極めます。
往時の貿易をふたたび取り戻すため、ブロンホフはことあるごとに文書を作成しています。オランダ船体の補強に必要な材木があまりにも高値のため、材木の値段を引き下げるよう材木請負人たちへの命令を願う奉行への手紙。上席年番町年寄には、船員の人命を守るためには船底に積む錫(スズ)や鉛の量は非常に重要で、現在の取引量では船が軽くなり海上の暴風で人命を失う危険があるゆえ、さらなる増量を願う文書。そして、オランダ側が最も必要としている銅・樟脳の輸出増量のための草稿を書いては、通詞の意見を聞き、清書して奉行に送っています。そのつど、ブロンホフは使者や関係者と折衝し、遅れている取引を促進させ、値段の交渉をし、貿易の立て直しに奔走しました。
戦争によって打撃をうけた経済を建て直すことが緊急課題だったオランダは、新しい統治機構を確立して、戦略を立てるため、東インドの本格的な調査をはじめます。そこに白羽の矢が立ち日本研究のために出島へ派遣されたのがシーボルトでした。オランダ商館医という肩書きには、特命として日本調査も含まれていました。託されたのは「日本における博物学の研究」。具体的には動植物、鉱物の収集でしたが、シーボルトはそれだけにとどまらず政治・軍事など地政学調査にも踏み込んでいきます。
シーボルトが日本研究に大きな野心をもって取り組んでいたことはよく知られています。日本研究の成功が自らの将来の栄光につながると信じて働きました。
1823年、シーボルトは日本に到着後、積極的に患者を診察し、また西欧の学問を伝授していきます。時間を置かずに医療と教育を通じて多くの人たちから直接または間接的に情報を得る環境をつくり、その中核として鳴滝塾が機能しました。全国から集った塾生は、すでに医者や蘭学者としての経験と知識を持った人びとで、シーボルトは自らの研究や関心にそったテーマを彼らに与えてオランダ語でレポートを執筆させました。テーマは、医学、薬学、植物や動物、地理、歴史、産業、風俗と多岐にわたり、シーボルトの大著『日本』の材料にもなりました。
日本に到着して間もない、しかも日本語を話せないシーボルトが、短期間でこのような環境を作れたのはなぜでしょう。そこにはドゥーフとブロンホフが長年培った日本人との信頼関係がありました。
出島で孤立している間、ドゥーフはフランス語とオランダ語の辞書を蘭和辞典に編纂し直すという大がかりなプロジェクトを行います。『ドゥーフ・ハルマ』と呼ばれる蘭日辞典は、その後、西洋技術の導入に不可欠なものとなりました。辞書編さんに参加していたのが、通詞の吉雄権之助です。権之助はシーボルトに「学問のある通詞」と称されるほど、オランダ語、フランス語をあやつり、西洋文化や医学にすぐれた人物でした。シーボルトのよき理解者で、全国からあつまった若者たちとシーボルトとの仲介役として活躍しました。
また、シーボルトが来日した船で出島を離れたブロンホフも日本人に受け入れられた商館長で多くの日本人と友情を育みました。
ドゥーフやブロンホフが作った人的な関係、いわゆるネットワークをシーボルトは利用することができたとも言えます。シーボルトだけでは、短い期間に日本研究の成果をだすことはできなかったでしょう。ドゥーフとブロンホフ、二人は目には見えない重要なものを残した商館長でもありました。
孤立したなかで出島を守りぬいたドゥーフ、貿易立て直しのために奮闘したブロンホフ、そして、このふたりが築いたネットワークを活かして日本研究を進め、鳴滝塾で科学的、実証的な西洋教育を行いヨーロッパへ日本を紹介したシーボルト。
誇りと情熱、そして野心、さまざまな想いを抱き出島で生きた三人のその背景には、日蘭貿易の現場という出島の性格がしだいに西洋の知識をもとめて志の高い者が全国から集う知の扉へと変質していく過程もありました。
1.「ナガジン」発見!長崎の歩き方
「出島回想録~出島が日本と世界にもたらしたもの~」 2003年11月
「出島2006~江戸時代の長崎が見えてきた!~」 2006年8月
現代のオランダ人の目に映る“NAGASAKI” 2012年2月
2.歌で巡るながさき
長崎の歌(48)~歌さるき・1~出島・大波止界隈 2005年 2005年9月