私たちの暮らしをみつめると、外国でつくられたものの多さに気がつきます。たとえば、着ているもの。裏地に付いているタグで確認すると、Tシャツはベトナム、Yシャツは中国、スエット上下はバングラディッシュなど生産地はさまざま。食卓に目をむければ、牛肉はオーストラリアやアメリカ、パプリカは韓国、にんにくは中国、胡椒はマレーシア、コーヒー豆はブラジルやコロンビア、ワインはフランス、イタリア、チリなど数多くの国の名前を確認でき、ルーツをたどれば世界中のものが私たちの身の回りにあふれています。
逆に日本からも多くの商品が輸出されているのですから、アメリカやヨーロッパ、アジア、インドやアフリカなどでMADE IN JAPANのものが世界のどこかで誰かの生活とともにある、と思いを馳せてみると輸出入といった物流の地球規模の大きさに圧倒されながらも、世界を身近にも感じます。
16世紀から18世紀、世界の中心はアジアの海でした。喜望峰からバタヴィア、長崎にいたる海域をオランダ東インド会社は、各地の産物を交換して諸外国を結びました。いまでいう総合商社といったところでしょうか。
200年以上も活動し続けた出島オランダ商館。当時、日本からはどのような品物が輸出されていったのでしょうか。また、オランダ東インド会社を媒介として、ヨーロッパ、アジア、インド各地から日本にもたらされたものは、どのようなものだったのでしょう。貿易の現場として、広く世界と交易していた出島をのぞいてみましょう。
オランダが求めたものはスパイスでした。スパイスを手に入れるためには、日本の銀のちに銅が必要でした。これは貿易をするための資金です。銀を使って、アジアの海に船を走らせ、さまざまなものを買い集めてそれを売り、ぐるぐると商品をまわして利益を得ていました。
当時、中国の納税は銀でおこなわれていたため、日本の銀の多くは中国へ運ばれました。
一方、銅はインドなどで必要とされました。18世紀はとくにコインとして使用され、インド経済をまわしていました。また、コインだけでなく、鍋といった家庭用品や兵器などの原材料になったともいいます。
今度は、出島を通じて日本に輸入されたものをみていきましょう。
代表的なものが生糸です。中国やトンキン(現在のベトナム北部のハノイ)、ベンガル(インド、現在のコルカタ)から運ばれてきました。これらの糸は染織され着物などへ加工されました。
また、めずらしいインドの縞(しま)織物は人気がありました。日本にはない縦縞模様は「桟留(さんとめ)」と呼ばれて人々を魅了したといいます。ちなみに縞模様の「縞」は、「島の物」「島渡り」を省略した「島」に、絹を意味する「縞」の字をあてたもので、渡来品のことを「縞」と呼んでいたようです。
また、タイからは鹿皮が輸入されて、敷きものや武士の胴着や羽織、足袋、手袋となり、おもに軍需品に加工されました。さらに、刀の柄やさやに用いる必需品として、鮫皮が重宝されました。江戸時代、泰平の世とは言え、武士にとっては重要な軍需品の素材である鹿皮と鮫皮は、海の向こうから運ばれて来たものでした。
この他にも、カンボジアからは、ゴムや蠟(ろう)、漆などが日本へもたらされ、また、タイワンやバタヴィアからは砂糖が輸入されました。
オランダ本国からは、好奇心を刺激する書籍や学術用具です。医学書や辞書、顕微鏡や天球儀、地球儀などは知識人を夢中にさせたといいます。オランダからはとくにメガネが多く持ち込まれ、多い年には500個を超える販売もありました。
鎖国という閉ざされた時代であっても、ものを通じて外国を身近に感じていたのかも知れません。
さて、出島でのふだんの食事はパン、肉、ジャガイモなどだったといいます。英語のcompanyは、ラテン語の「com(共に)」と「panis(パンを食べる)」が合わさった語に、仲間を表す「-y」がついたもので、「一緒にパンを食べる仲間」という意味があります。商社という言葉は、幕末に英語のcompanyから訳出されました。商社とは、輸出入貿易品や国内での販売を業務にする会社、つまり商業を営む業態の会社です。これは出島そのものを言い表しているようにも思えます。小さな島で仲間とパンを食し、世界中の特産品を商う。
長崎出島は、総合商社長崎出島と呼ぶこともできそうです。
1.「ナガジン」発見!長崎の歩き方
「出島回想録~出島が日本と世界にもたらしたもの~」 2003年11月
「出島2006~江戸時代の長崎が見えてきた!~」 2006年8月
現代のオランダ人の目に映る“NAGASAKI” 2012年2月
2.歌で巡るながさき
長崎の歌(48)~歌さるき・1~出島・大波止界隈 2005年 2005年9月