教会堂の鐘、寺院の鐘、はたまた教会堂から寺院のそれへと生まれ変わった鐘……今も教会と寺院の鐘の音が絡み合うように、類い稀な宗教史を持つ長崎には様々な鐘が存在する。鐘の製作者である鋳物師の話も交え、長崎ゆかりの鐘を紹介する。
ズバリ!今回のテーマは「厳かな響きが物語る長崎の歴史に迫る!」なのだ。鐘の音というものは何故か人々の心を揺さぶる。明治から昭和にかけて長く活躍した作家 永井荷風(ながいかふう)は、明治44年(1911)8月、長崎を訪れ、その旅の様子を随筆『海洋の旅』にしたためた。そこにこんな一節がある。
・・・自分は未だ嘗(かっ)て長崎に於けるが如く、軟(やわら)かな美しい鐘の音を聞いたことは無い。(中略)自分は海岸から堀割をつたはって(つたわって)、外国人向きの商店ばかり並んだ一条の町を過ぎ、丸山に接する大徳寺といふ(う)高台の休茶屋から、暮れ行く港の景色を眺めてゐ(い)た時であった。何処からとも知れぬが、確かに二三箇所から一度に撞(つ)き出される梵鐘の響は、長崎の町と入海とを丁度円形劇場のや(よ)うに円く囲む美しい丘陵に遮られて、夕凪の沈静した空気の中に如何にも長閑(のどか)に軟かく、そして何時までも消えずに一つ処に漂つ(っ)てゐる。最初に撞だされた響が長く空中に漂つ(っ)てゐる間に新しく撞出される次の響が後から後からと追ひかけて来て互に相縺れ合ふのである。縺れ合ふ鐘の余韻は、早やたつ(っ)ぷりと暮れ果てた灯火の港を見下ろす自分の心に向つ(っ)て、お前は何故もつ(っ)と早く此処へ来なかったのだ。東京はもうお前の住むべき処ではない。早く俗縁を断って、過去の繁栄を夢に見つゝ心地よく衰頽(すいたい)の平和に眠って行く此の長崎に来い・・・と諭(さと)してくれるや(よ)うにも思は(わ)れた。(中略)幾ヶ所とも知れぬ長崎の古い寺々は蔦まつはる其の土塀と磨り減つ(っ)た石段と傾いた楼門の形とに云ひ知れぬ懐しさを示すばかりで、奈良京都の寺院の如くに過去の権威の圧迫を感じさせない。(中略)若(も)し此地に過去の背景があるとすればそれは山の手なる天主堂の壁にかけてある油絵が示してゐるや(よ)うな、悲壮なる宗教迫害史の一節か、然らずば鎖国の為めに頓挫した日本民族雄飛の夢のはかない名残りのみである。・・・
永井荷風が長崎で折り重なるようになる鐘の音を耳にし、沸き上がってきた感情・・・華やかな異国の文化の薫りと、そこに違和感なく溶け込む寺院の鐘の音は、長崎の町特有の風情を一瞬で感じ取るものであったのだろう。
長崎市十人町から野母崎(長崎)半島まで続く“みさき道”。江戸時代、多くの人々が往来したこの道は、脇岬にある観音寺までの参道である。観音寺がある脇岬の港は、昔から重要な貿易港で、中国へ渡る船の要地だった。この寺の御本尊、通称“みさきの観音”と呼ばれる平安時代末期に造立(ぞうりゅう)された十一面の木造千手観音立像(国指定重要文化財)は、長きに渡り長崎の町人らの信仰を集めた観音様で、みさき道はこの観音詣りで栄えていった。特徴的な石造りの楼門をくぐり抜けると左手に梵鐘がある。鋳銅製のこの梵鐘には、この鐘の縁起が刻まれている。それによれば、室町時代後期に高さ3mもある大鐘が海賊に持ち去られ、脇津(脇岬)から船を出したが進まず、この鐘を海に落としたら出航したという。その後、福岡県宗像郡(現宗像市)の東光寺の鐘を購入したが、その鐘も古くなったため、長崎の鋳物師(いもじ)が改鋳し、佐賀藩深堀家の家臣、長渕九左衛門が寄進したとある。また本堂には、江戸時代末期、丸山遊女が寄進した鐘(?子)(けいす)が安置されている。丸山遊女達の名前が刻まれた鐘・・・往時の長崎の町の繁栄と信仰の形が伺える。
市指定有形文化財/梵鐘の総高121.0㎝ 口径 69.8㎝
年に一度、大晦日の23時半頃から御住職が撞く除夜の鐘でのみ聞ける。
さだまさしの小説『解夏(げげ)』に登場し、映画のロケ地として広く知られることとなった黄檗宗の唐寺 万寿山聖福寺。鉄心和尚が母方の唐通事・西村家の財力をもって開基したと伝わるこの寺は、長崎駅前の筑後町、静寂に包まれた場所にある。時の経過を感じる石段を上り、中門にあたる天王殿をくぐると、左側に鐘楼がある。なかには“鉄心の大鐘”と呼ばれる梵鐘が納められている。元禄7年(1694)、初代住持・鉄心道胖のときに初めて造られた梵鐘は、享保2年(1717)2代目住持、暁巌元明のときに改鋳されたが、鉄心和尚の名があまりに有名だったこと、また、毎夜、市内一帯に響き渡る陽気で勇ましい鐘の音が、音色に優れ、人々の心に染み入るものであったことから、改鋳された梵鐘も“鉄心の大鐘”と言い伝えられている。戦時中の金属回収を免れたが、戦時中は鐘を鳴らすことを禁じられ、戦後になってからは年に一度、除夜を告げる大晦日にのみその音色を聞けるようになった。しかし、近年、鐘鼓楼の傷みが激しく、年に一度の除夜の鐘さえも聞くことが出来なくなってしまった。
市指定有形文化財/梵鐘の総高(龍頭を含む)183㎝ 龍頭 42㎝ 口径 111㎝ 肉厚(鐘厚) 11㎝
■聖福寺 長崎県長崎市玉園町3―77 ℡095-823-0282
1600年代、長崎の町ではキリシタン対策による寺院建設が相次いだ。その際、多くの寺院の梵鐘を手掛けたのが、長崎を代表する鋳物師、鍛冶屋町の安山一族だ。安山一族の作品中、最も私たちに馴染み深いものは、崇福寺の大釜(天和2年作)だろう。また、前述した観音寺の現在の梵鐘は、長崎の鋳物師(いもじ)安山弥五左衛門國久(あやまやござえもんくにひさ)が延享2年(1745)改鋳したもの。鉄心の大鐘も、享保2年(1717)、安山弥兵衛国久(あやまやへえくにひさ)によって鋳造されている。さらに、聖福寺本堂には、安山氏によって改鋳された鐘が現存している。それは、キリスト教時代、教会堂で設置されていた聖鐘によく似たベル型の鐘――。
長崎の町が出来た当初、町は他の地方から移住して来た多くのキリシタン達で構成されていた。当時、深く入り組んだ湾に突き出した岬における人々の住居地域はまだ小さく、周囲を囲む湾には、決められた時刻に教会堂の鐘が静かに響き渡った――。世界では、教会からの様々なメッセージを信者に伝えるために鐘が使われるようになったのは、中世期の中頃のこと。当初より、1日3回、朝6時・昼12時・夕方6時に1日の始まり・正午・労動の終わりを告げることが定着化。その後、鐘にあわせて「お告げの祈り」を唱えるようになったと伝わる。天使ガブリエルがマリアに「受胎告知」をするシーンを黙想しながら聖母を賛美することから天使の鐘(Angelus Bell)・・・「アンジェラスの鐘」と呼ばれるようなった。信者達は、教会堂から鳴り響くその鐘の音を、祈りを捧げる時刻を示す合図として、日常生活の習慣を導く指針としていった。現在も鐘楼がある教会堂は、12時・6時には「アンジェラスの鐘」を鳴らすが、朝は鳴らさない教会堂もある。現在長崎市内では、大浦天主堂、浦上教会、中町教会など14の教会堂から澄んだ音色の「アンジェラスの鐘」が聞こえてくる。
長崎のキリスト教全盛期に本博多町(現長崎地方法務局)に創立された無報酬で福祉活動に励むキリスト教徒の共同体「ミゼリコルディア本部」にも小さな教会堂が設置され、慶長9年(1604)、聖鐘が鋳造された記録が残っている。現存する長崎のキリシタン時代の鐘は、そのミゼリコルディアが運営したといわれるサンティアゴ病院の青銅の鐘がある。どういうわけか大分県竹田市に移されているが、〈HOSPITAL SANTIAGO 1612〉と浮彫りされたそれは、京都の妙心寺、大阪・南蛮文化館所有の細川家の鐘とともに日本における教会堂の貴重な遺品である。しかし、教会の鐘の音が鳴り響く長崎の町は、禁教令とともに一変。建ち並ぶ教会堂は破壊され、その跡地の多くには寺社が建てられていった。本蓮寺(ほんれんじ)や大音寺(だいおんじ)など、初期に建立された長崎の寺院はすべて教会堂跡に建立されている。さらに、寛永年間(1624~44)、それはまるで旧市街である内町を取り囲むように二つの列となって神社仏閣が建てられた。元和7年(1621)、ミゼリコルディア本部跡に建てられたのが、現在、鍛冶屋町にある大音寺。この寺に、どの教会堂のものかは定かではないが、破却された教会堂の鐘のひとつが与えられた。おそらくはベル型の鐘であったことだろう。しかし、島原の乱後、この鐘は仏寺の鐘の本来の形に鋳造しなおされた。残念ながら第二次世界大戦中に供出され、現存してはいない。たとえキリスト教の鐘として十字架を刻印して鋳造されたとしても、鋳物としての鐘は重んじられ、一度、寺院の鐘に鋳造しなおされると、その鐘はそのまま存続する可能性が高かったという。現在、寺院に設置された梵鐘のなかにも聖鐘から梵鐘へと改鋳されたものがあるのかもしれない。
現存する最古の教会堂の国宝 大浦天主堂。250余年もの間、キリスト教徒が密かに信仰を続けていたことが発覚した“信徒発見”の舞台であるこの天主堂の聖鐘は、教会堂の後方にあり一般の人は入れない場所にある。その朝顔型の青銅製の鐘は、慶応元年(1865)、フランス人の信仰厚きカトリック信者から匿名で寄贈されたものであるという。この聖鐘の銘は以下のように彫られている。
「私はクロチルド・アドルク・ルイズという名前です。
1865年、フランスのマン市に生まれ、その地の司教シャルル・ジャン・フィリオン台下に聖則されました。
私の代父はシャル・ジャン・アドルク・ド・ルジュ男爵で、代母は、アンナ・クロチルド・ドロリエル夫人でした。
ボウル・ベル父子が私の鋳工であり、調律師です。」
大浦天主堂建立以来ずっと鳴らし続けられているが、以前は人力で引っ張って鳴らしたのに対し、現在は自動で昼の12時と夕方6時に「お告げの鐘」として鳴らされている。第二次世界大戦中、多くの梵鐘が供出させられたにも関わらず、大浦天主堂は戦前より国宝だったため、供出を免れた由緒ある聖鐘だ。
早朝5時半、浦上教会の「アンジェラスの鐘」の音が6時のミサの時刻を告げる――“長崎の鐘”と聞いて、多くの人の脳裏に浮かぶのは、戦後大流行した歌謡曲「長崎の鐘」だろう。平和への強い願い綴った同名小説を基に、詩人のサトウハチロー氏が作詩を手掛けたこの曲は、原爆のみならず、戦争で傷ついた多くの人々に明日への希望を与え、空前の大ヒットとなった。この「長崎の鐘」とは、浦上教会の「アンジェラスの鐘」のこと。潜伏キリシタン達が苦難を乗り越え、自らの労働を持って造りあげた「旧浦上天主堂」。起工から30年もの月日をかけ、大正14年(1925)に完成した当時東洋一と称されたロマネスク様式の大聖堂の正面双塔には、フランス製の「アンジェラスの鐘」が双方に設置され、交差するように鳴り響き、浦上の町に時を告げていた。しかし、昭和20年(1945)、8月9日、11時2分。原子爆弾が投下され、「アンジェラスの鐘」は吹き飛ばされ、脇を流れる川へ落下してしまう。
・・・なぐさめ はげまし ああ 長崎の鐘が鳴る・・・
浦上信者の失望を取り払うように、自らも被爆によって重症となり、妻をも失った当時 長崎医科大学放射線科部長だった永井隆博士がしたためたメッセージを受けて作詩されたこの曲は、被爆者はもとより、戦争で傷ついた多くの国民をはげました。その後、1つの鐘だけが右手の鐘楼へと戻され、現在も1日3回、5時半、12時、18時に時を告げる。
実際に「長崎の鐘」という名の鐘が平和公園内、願いのゾーンにある。原爆投下から33回忌となる昭和52年(1977)に建立された鐘である。被爆地となった浦上には当時いくつもの軍需工場があり、そこで働いていた学生など多くの人々が原爆によって亡くなった。この鐘は、軍需工場で働いていた人々の慰霊のためのモニュメントである。
また、ほかにも平和への願いが込められたモニュメントが、原爆落下中心地よりわずか500mの所に位置し、 1,400余名の児童と職員が尊い命を失うという大きな被害を受けた長崎市立城山小学校の校内にある。被爆時、城山小学校で学徒報告隊員として働いていた林嘉代子さんという方が、この校舎で被爆され亡くなり、後日、お母さんの津恵さんが花を好きで先生になりたいといっていた嘉代子さんを偲んで、桜50本を寄贈された。 “嘉代子桜”と呼ばれるこの桜の話は、後に絵本となり全国の子ども達に読まれ続けている。この嘉代子さんの母、林津恵さんの死後、寄附された遺産より作られたのが平和の鐘。上から見ると桜の花に見えるように設計されていて、毎日8時、12時、16時に月変わりの曲を、鐘の音で奏でている。
大晦日、寺町界隈には除夜の鐘を突かせてくれる寺院がある。また、年越しの瞬間には、除夜の鐘と、教会の鐘と、港の船の汽笛が聞こえてくる場所もある。もちろん、その光景は日常的なもので、それ自体が永井荷風も実感した長崎風情と呼べるものなのかもしれない。
寺院の鐘、キリスト教時代から受け継がれる教会堂の鐘、そして平和を願う誓いの鐘……長崎には宗教を越えた鐘が存在する。それらは、いつの時代も人々に希望を与え、穏やかな気持ちへと誘う道標となってきた。長崎で生まれ、多くの人の心を癒してきた様々な「長崎の鐘」は、今日も長崎の歴史を抱きつつ町じゅうに鳴り響く。